朝也の匂いを消したい……。
部屋一杯に油彩具を広げて朝から晩まで絵に没頭しても、後から後から雨上がりの果樹園のような香りが追いかけてきて俺は囚われる。何て甘美な不自由なんだ。呼吸困難に陥りそうだ。
俺は画家なのに、世界の全てが薄くれないのフィルターに遮られて真実ほんとうの彩を失くしてる。
「これじゃ、廃業デスガ?」
なっちゃいないね、と床に転がった。
7年ぶりの帰国も、朝也と過ごす時間は少ない。朝、目覚める頃には出勤していて、日付が変わっても戻ってこない。
夜中に目が覚めると朝也はリビングのソファで寝崩れていて、その疲れた瞼にそっとKissしても起こすのは忍びなくて踵を返す。俺とて色々と忙しいわけで、今夜こそと思っても待ちくたびれて眠ってしまう、そんな擦れ違いの日々が、もう幾日、過ぎただろうか……。

「俊平、目を開けろ!どうした、何があった、おい、俊平?」
朝也が騒いでいた。朝也じゃないみたいな大声で……。
俺は触れたら指先の小さな手垢すら気になりそうな真白で真四角の何もない大きな箱の中を、ぐる~んぐるん回転しながら浮遊していた。上下が激しく入れ替わり、
「止めて」
と発した声も、どうやら朝也には届いていないらしい。
「俊平!」
一際、大きな声に呼ばれて身体が何処かに着地した感触があった。
「救急車……」
慌てる声が聞こえて「呼ぶな」と叫んだつもりが金魚みたいにパクパクするばかりで声が出ない。
手足をバタつかせたつもりも身体は動かない。
あぁ、こんなこと前にもあったなと息をついたところで、一瞬のブラックアウトから徐々に光が射し込んできた。
「俊平?」
俺を覗き込む朝也の心配そうな顔が見える。着地したと思ったのは朝也の腕の中で、
「また、やってしまった……」
俺は、ぼんやりした頭で溜息まじりに小さく苦笑わらった。
「大丈夫か?お前、意識、飛んでいただろ……。何か悪い病気か?」
「平気、寝てただけ。おかえり」
首を左右に振って床に手をつくと、怠い半身を起こし後頭部を2度叩く。
「『おかえり』って。鍵開けたら真っ暗だし、電気を点けたら刺殺体みたいに転がってるし……」
「『刺殺体』は無いんじゃないの?」
「笑ってんな、バカ。何度呼んでも反応ねーし、暖房もつけないで。こんな寒い部屋でいつから寝ていたんだ?」
「朝也にしては饒舌」
「俊平!」
いつになく大きな怒声が頭上に降って来る。俯いた視線の先に朝也の拳が戦慄わななくのを見て、本気で怒っているのだと解った。あまり感情を表に出さない朝也だけど、ボルテージが上がると手が震えるのを俺は高校生の頃に何度か見た憶えがある。
「また、メシを食わなかったのか?」
ううん、と俺は首を横に振った。
「顔が赤い。熱でもあるんじゃないのか?」
やっぱり、ううん、と首を振る。
「本当に病気じゃないんだな?」
今度は首を縦に落とした。
ニューヨークで一人暮らしをしていた時にも何度となくやらかして、危うく911をコールされかねない騒ぎを起こした。どうにも、何かしら思念に囚われると寝食を忘れてしまう。
大丈夫。こんなことしょっちゅうだし……という言葉を咄嗟に呑み込んで掠め取ったkissは、そこだけチリリと熱く、仄かに煙草の香りがした。
「どうにも、誤魔化された気分だ」
と、呆れ顔の朝也に肩を抱かれ、もっと朝也の匂いに包まれたいと胸に頬を寄せる。
「疑り深いね。本当に病気だったら、お前の元に戻ってきやしないよ」
「そうか。……ところで、」
「んー?」
仕事疲れの艶を含んだ声に耳許をくすぐられて朝也をぼんやり見上げると、視線を逸らせた朝也が何ともバツが悪そうに呟く。
「お前、下ぐらい穿いたらどうだ……」

「……あ゛」

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