ニューヨークから7年ぶりに帰国して、3ヶ月。
俺としては今も恋人……の家に転がり込んで共に暮らして、3ヶ月。
高校生の頃には知らなかった朝也の色んな顔を知って、最初の緊張はどこへ行ったか、何だかんだいい感じに上手くやっている。そんな、梅雨も間近の欠伸ばかりしていた休日の昼下がり、図書館へ行くという朝也にくっついてきた。
広大な敷地に立つクラシカルな意匠の洋館は長い歴史の面影を今に残して、優雅な佇まいをしている。国内でも指折りの蔵書数、とりわけ専門書が充実していて、贅沢なスペースの取り方でテーブルが配されているのも長居をしてしまう要因だった。

「朝也と来るのは学生のとき以来だね」
「そうだな」

他には誰と?とは聞いてこない。恋人を束縛しない出来たカレシと、少しくらい干渉されたい俺。心の中で『ひとりで来るんだけど』と返答し、舌を打った。
温かみのある照明が照らす室内に人けは疎らだ。
カビ臭いと言ってしまうのは情緒がない湿り気と、埃っぽい古い紙の甘やかな香りが鼻先をくすぐる。

「このバニラの匂いが落ち着くんだよね」
「虎さんが絶対、トイレ行くやつな」
「あぁ、学校の図書室?あの人、30分もたなかったよね」

二つ上の虎先輩とは今も仲が良いけれど、何かと笑い話に事欠かない。しょうもない思い出話に二人して笑いだし、高い天井に声が響いたのを慌てて殺した。

「揮発性有機化合物、バニリンだったか」
「何?」
「この臭い。本がもっている化学物質が光や湿気に触れるこ…、」
「あー、そういうのいいから。朝也は今、俺のノスタルジックな感傷に水を差したんだからな?」
「はいはい」

いい加減な相槌で俺を御座なりにした朝也は、もう気持ちが建築関係の書に99.6%向いているに違いない。迷いもなく奥の書架へ最短ルートを行こうとして、階段の下で足をとめた。

「俊平は、どうせ美術書だろ?」
「どうせって何だよ。クリムトとモディリアーニの区別もつかないくせに」
「それ、高校の時の話だろ?」
「……ぇ、」
「いや、今も区別つかねぇかも」

同時代に生きたクリムトとモディリアーニは俺の目には全く作風も違うし、どう混同するのかも判らないけれど、どちらも女性の裸体を多くテーマとして肖像を描いている。苦笑いの朝也は責められないかもしれない。それよりも、朝也がそんな思い出の欠片をまだ持っていてくれたことに、俺は驚きつつも浮き立った。

「……で、俺が好きなのは?」
「クリムト」
「正解」

朝也の記憶力の良さは俺を他愛もなくゴキゲンにする。



朝也と別れて重厚な木調の大階段を2階へ上がると、ひっそりした美術書のコーナーは雨後の香りがした。色褪せた背表紙を見上げて、部屋の隅に置かれていた脚立を拝借する。
グスタフ・クリムトの画集だ。
テーブル席より脚立の上にいる方が照明に近かったから、誰もいないのをいいことに俺はそこで画集を開いた。大して見る者もいないのだろう。ページを捲るたびに陰気なカビの臭いが漂って、討ち取った男の生首を恍惚と愛撫する女に再会する。……『ユディトI』だ。

「やぁ、久しぶりだね……」

俺は画家だけど肖像画は得意としない。けれど、子供の頃からこの絵に惹かれていた。
胸をはだけ、昏い金の衣装に乳房を透かし、半閉じの目からは誇らしさが半開きの口許からは歓喜が窺える。その官能性は男性原理への反発とも女性原理の勝利のシンボルとも評されているが、もちろん、10歳そこらの子供が絵の背景を解っていた訳ではない。ただ、この絵のエロティシズムと美に内包される狂気を幼心に享受していたか……厳格で融通の利かない家に育って、後々、反骨心のようなものを揺さぶられることはあった。
朝也は俺がユディトと会うのをこころよく思わなかったと思う。
絵の好き嫌いじゃなく、俺が彼女を見る時の精神状態が追い詰められていてヤバかったからだ。大抵、家で一悶着起こして登校するなり図書室へ行き、荒んだ目で眺めている。それを見ていられないと朝也が追うようになって、彼といると俺の心は平穏だったから次第に彼女とは疎遠になった。今では悪くない思い出だ。

「君の前で朝也が俺にキスしたの憶えてる?」

恋とか愛とか、そんな甘いものじゃなくて、きっと、同情……。
原因なんてもう忘れたけれど、その日も俺は怒り狂っていて、たぶん、悔しくて泣いた。歯がカチカチ鳴りっ放しで、縋ったのは俺。朝也はただ黙って俺を抱きしめて、もう震えないように口を塞いでくれた。俺は、とっくに朝也のことが好きだったし、今の俺なら秒で蹴り飛ばしているしつこさで彼に付きまとって……、けれど今にして思えば、無口でも朝也が俺を無視したことはなかった。
朝也から唇を重ねてきたことにびっくりして、手に持っていた画集を床に落としちゃって、
『THE KISS』のページが開いたの、二人で気まずい顔してさ。
男にキスしたのなんて初めてだったろうに、先に視線を外したのは俺の方だった……。

 


トットゥルリーと鳥の声がする。
明かり取りの窓の向こうに空の青。こんな湿っぽい部屋で15の夏に浸っているなんて、我ながらキモチワルイ……。
「俊平?」
と、朝也が出入口から覗き込んで、俺はものすごく待っていたのかも。
ショップの外に繋がれた飼い犬が主人を見つけて尻尾を振るみたいにパッと視界が明るんで、緩んだ頬を「おう」とか言って引きしめた。

「用事、終わったの?」
「待たせた」

手でゴメンをつくる朝也の今日の収穫は分厚い本2冊だったようだ。
脚立の上から見る朝也は俺の見慣れない小さな朝也で、旋毛に寝癖を見つけたのを触ろうとすると「よせ」と苦笑いする。
「頭、撫でていい?」と図に乗って、
「よくねーよ」と手を遮られて、
脚立を蹴倒すぞと言われて、諦めた。
休日スタイルのくだけた朝也は仕事モードの整いすぎた彼より色気がある。短くした栗色の髪は長めの前髪を手櫛に後ろへ遣り、斜に射す陽に眇める眼はヘイゼル。素肌に白いシャツをゆったり着こなして、その皺の流れからも彼の骨格の良さが窺えるのが憎らしい。
こんな男と暮らしているなんて、今に心臓が一つしかないことを足りなく思うだろう。

「何を見ていた?」
骨の髄まで溶かされそうな声の低さも好もしい。
「クリムト」

膝の上の『THE KISS』は朝也の視線の先にある。
不意に真顔になった朝也はクリムトの絵を、ユディトを、今も気にするなんてことないと思うけれど、黙りこんでしまった。
……気まずい……。
あの頃を蒸し返す気はないから、フッーと細く息を吐いて目を逸らし、俺の中ではとっくに懐かしい思い出だと言葉を探す。
「俊平」
ぼそりと俺を呼ぶ声に朝也の感情が見つからない。
「俊平」
さっきよりもハッキリした口調で呼ばれて、俺は掴まれた腕を咄嗟に引こうとした。
『また、取りあげられる』と身構える気持ちが走って、そのあとを、絵を見ることも描くことも父に咎められた幼少期が鬱々と身体を冷やしていく……。
一瞬の怯えも見逃さない朝也は僅かに表情を曇らせて、俺を迎え入れるように腕を広げた。袖を掴み、もう一方の手を反対側の肩に触れようとする。まるで、木登りをして降りられなくなった猫でも助けるようだ。

「降りるから、そこを退いて」

と、本を閉じても、朝也は退こうとしなかった。
空気が動いて、唾を呑みこむ音が耳の奥をザワリと掻きまぜる。


俺たちはキスをした。


重ねた唇が震えているのは俺の所為。
傾いだ身体は心許なくて、絡めた指と指をぎゅっと結んだ手は、たしかな意図をもって俺の心に安寧を注ぐ。朝也、朝也と心裡で名を呼んで、頭の中は朝也でいっぱいで、ミシッと揺れた足場の覚束なさを熱い手に支えられ、もっと熱い息を求めて俺は朝也の愛を貪った。どんな辞書で調べても『愛』ってやつは不確かで、けれど、分け合うこの熱は信じられるから、俺は爪を立てて、その肩に縋った……。

「どうした?」
と、俺を見上げる朝也が優しく笑う。
「お前、必死すぎ。泣きそうな顔してどうした」
今度は子供をあやすみたいに俺の膝を擦った。
「ううん、綺麗な顔してキスするんだなーと思って」
「眼ぇ瞑れよ」
「やだよ、もったいない。朝也を見おろすなんて、そうそうないんだから」
「降りろ」
「降りない」

降りろ、降りないを何度か繰り返して、ふたりを包む風がまあるくそよいだから、朝也はしょうがないなって顔で片手に俺の腰を抱きとめ、もう一度、キスをくれた。




鏡に映る俺が不細工で見るに堪えない。
蕩けて緩みきった頬を叩き、トイレの蛇口に手をかざした。

『……どうして、キス、した?』

何で、そんなことを訊いちゃったかなと思う。
あれは誘われたキスだったから、好きだからとか、したかったからとか、朝也が『THE KISS』に動かされた理由にそんな甘酸っぱいものでも期待したかもしれない。

『わかってねーな』

予想外の返答は思わず口をついて出たというふうな言い澱んだもので、朝也は「一服してくる」と先に階段を降りていった。その口許が薄らと笑っていたから、俺の鈍さを責めたというより鈍くて良かったと思ったか、あるいは考える時間をくれたのだろう。
つまり、さっきのキスには意味があった。
もしかすると、同情でも構わないと思っていた10年前のキスも同情ではなかったのかもしれない。そこまで考えて俺は今、トイレに駆け込み、泣き笑いのどうしようもない不細工を水で洗い流している。

「あのとき、朝也はもう俺を好きだった……?」

そんなはずはないと思う一方で、そうだと嬉しいって頭ばかり働いて……だとしたら、俺は朝也からの初めての好きの意思表示を10年間も気づかずにいたのかと、今更、ほんとうに今更気づいて胸を熱くした。それじゃ、さっきのキスは……、

「10年越しの……朝也からの、好き?」

顔が熱い。
顔が熱い……。
灼けつくように熱い。

擦ったって火照っていくばかりだし、冷たいはずの水道水も微温湯に感じる。

「朝也……」

すぐにも顔を見たくなって、数十メートルさえ離れていられなくて階段を駆けおりた俺は《廊下はお静かに》のポスターの前を足早に通り過ぎ、エントランスホールで俺を待っていた大きな背中に掴みかかった。勢いに驚いた初老のご婦人が何事?という顔をしてすれ違っていく。

「朝也、俺、わかったから!」
「何が」

ちゃんと、お前の気持ち受け取ったから!という言葉が口よりコンマ秒早く脳裏に弾けて、俺はこっ恥ずかしさに寸でのところで呑み込んだ。

「あー……、トイレの場所」
「……。へぇ」

何を言ったと頭を抱えるには遅い。
呆気にとられた朝也の顔がみるみる笑いたそうな顔になって、失態に鼻先を熱くした俺の顔が余程可笑しいのか、堪えきれないとばかり手で眼を覆い、笑い出した。
締まらないけれど、きっと、俺の言いたいことは伝わっている……。

「笑うな。今日のお前は優しいんだから、そのままでいろ」
「優しい……俺が?」
「うん。プレーンドーナツがハニーグレイズドになるぐらいには甘やかされた気がする」
「よくわかんねーけど」

歩き出した朝也のうしろをニヤニヤとついて行く。
ミルクティー色を深めた館内は一層、穏やかに寛いだ空気が漂っていて、帰ると思った朝也はフロアを横切り、仄暗い通路を奥へ入っていこうとする。

「改装したばかりだってな」

何が?と聞くまでもなく、廊下の途中に置かれたチョークボードに俺は高揚した。
『復刻檸檬ケーキ(セット可)』
この図書館の喫茶室の人気メニューだ。余所にはない素朴な味を好んで、学生時代に俺が読書以上に楽しみにしていたことを朝也は憶えていたらしい。帰国して3度目の来館になるけど、閉店したのだと思っていた。ほんとうに朝也の記憶力の良さは他愛なく俺をゴキゲンにする。

「食ってくだろ?」
「トーゼン!」

やわらかな照明の下で朝也の笑みがとても幸せそうに見えたから、今日はいい一日だったと、俺は差し出された手を強く握り返した。


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星を数えてコテージに戻って来た。
陸に面した扉を施錠してしまえば、あとは三方を海に囲まれた水上コテージだ。
スタンドライトだけの仄暗い照明が柱や天井の彫りを幾何学模様にも人面にも見せ、パレイドリア現象を起こすのが少々気味悪い。建築士の朝也に言わせれば、間接照明がつくる影が空間に立体感をもたせ、リラクゼーション効果や視覚の誘導効果を生むとかナントカ……平たく言えばエロい気分になって盛り上がるよなーってことだと俺は理解した。
ドレープを効かせたカーテンを間仕切りに、どこからも風を感じられ、大きな観葉植物や籐製の家具がゆったりと配置されている。中でも冗談だろ?と思ったのは木製の衝立とカーテンで仕切られただけの開放的すぎるシャワーブースで、チェックインした時に『南国風ラブホ』と言ったのを『官能的な意匠』と俊平に冷ややかな眼で訂正された。これだから、アーティスティックな頭を持つ人間は面倒臭い。俺が言ったのと、どれほどの差があるんだ?
室内がやけに静かだ。
「シッー。遅くなったし、二人とも寝ているかもしれない」
遅くなった元凶が俺の床の踏み方が荒いと背を突く。
「起きていますよ」
と、奥から柔らかな声が聞こえて、



「おかえりなさい」
朝也が海原を臨む奥のカウチで煙草を燻らせていた。長い足を組んだその膝を枕に俊平は熟睡していて、長い髪が風に踊るのを大きな手がそっと撫でている。
「首尾は?」
「見ての通りです。そちらこそ、お行儀が悪いのでは?」
全て御見通しとばかり飄々と笑うのが小憎らしい。艶夜も堂々としていれば曖昧に出来るのに、みるみる真っ赤になるから、やっと鎮めた身体もバレバレだ。
「何で解った?」
「何も言っていませんが」
確かにSexしたのかと問われたわけじゃないが目敏いにも程がある。
朝也が新しい煙草に火をつけながら眼だけで艶夜のサーフパンツの裾を見たように思い、がっつきすぎて太腿に残したキスマークが隠れていないことに気がついた。艶夜は朝也の視線には気づかなかったらしい。それよりも、
「これ、どうしたの?」
と、床に大きく広げられた2枚のバスタオルを怪訝な表情で拾い上げた。
「俊平ですよ。そこ、硝子床になっているのが気に入らないそうです」
「もう暗くて海が怖いもないもんだよ。それより、踏んで足を滑らせる方が危ない」
身体を拭くためのホテル備品を床に敷くのも感心しないと、艶夜は軽く畳んで使用済みタオル置場へ持って行く。コイツとは同居して数年が経つが、この整頓癖で俺は度々追い回され、シャツの一枚も脱ぎ捨てようものなら、さっさと脱衣カゴに放り込まれ顰めっ面を拝むことになるんだ。その顔の迫力のなさったら可愛くて、もっと部屋を汚したくなる……とは、本人には言えねーけど。
「虎、先にシャワー使って」
と、自宅にいる調子で言われ、解ったと言おうとして朝也の足が俺の足を止めたのを察した。見れば、わざとらしく目線を逸らせて何か言いたげだ。艶夜を先に入れろという意味なら「先に入れよ」は譲り合いになるのが目に見えている。これしかないと思ったのは、
「艶夜、シャワーでイチャイチャしよっか」
だった。案の定、
「虎は直ぐそういう言い方して!面白がるなら先に入る」
侵入禁止と掌で拒否されて、艶夜は着替えを手にシャワーブースへ足を踏み鳴らして行った。
「神月、まだ、そこにいるつもり?」
「覗きませんよ?」
「そんなこと思わないけど、その、ベッドの方へでも行ってて貰えると……」
衝立の向こう側から艶夜の申し訳なさそうな声がする。
朝也のいるカウチと背中合わせに真後ろにシャワーブースがあるから、シャイな艶夜は落ち着かないのだろう。それに気づかない朝也ではないし常なら言わせる前に配慮を見せるはずだが、この時は悠然と煙草の灰を落として直ぐには動こうとしなかった。
「そうですね。虎さん、俊平を運ぶの手伝って貰えますか?」
明らかに俺にではなく艶夜に聞かせるために声をあげて、俊平を起こすんじゃないかと気を揉んだぐらいだ。
「わかった」
応えた俺の声を合図に朝也は煙草の火を消し、艶夜の細い指先は衝立越しにタッセルを摘まんでシュッと音を立て、完全にカーテンを引いた。やがて、水の流れる音がし出して俺はチッと舌を打つ。
「朝也の所為で、また怒られたじゃん」
「俺の所為ですか?」
「で、何の内緒話?」
「追い込み完了、逃げ場ナシですが」
朝也は淡々と言って、入るでしょ?という眼をする。シャワーブースは鍵付きじゃないから出入口を塞いでしまえば艶夜の逃げ場はないわけで、朝也が俺を止めた意図を知って外で満足させたはずの下半身に甘い疼きが復活した。
「絶妙な狭さでしたよ」
と、朝也は意味深に口角を引く。
「お前、ワルな?」
「こんなに協力的なのに?」
俊平の首の下に腕を差し入れた朝也は腰を浮かせて膝を抜こうとする。
「動くと起きるぞ?」
「平気ですよ。さっき鼻摘まんでも起きなかったんで」
ぐったりと投げ出された腕を逞しい腕が揃えて包み込むように抱え、朝也は俺の手など無くても難なく俊平をカウチに横たえた。かなり、慣れている。
「ベッドに運ぶんじゃねーの?」
と、反対側のパーテーションカーテンの隙間に眼を遣ると、天蓋付きのダブルベッドはシーツの乱れた様子もなく、リネンひとつ使った様子もない。
「朝也さ……いつから、そうしていた?」
朝也はそれには答えず、カウチの籐の部分と俊平の片手首をハンカチで縛った。
「おい、何やってんだ?」
「水上で寝るのは怖いと言ったのはコイツなので」
「扱い雑ね。何か怒ってる?」
「いいえ?俺、外しますね」
「ちょ、ちょーっと待て。お前もしかして、おアズケ食らった?」
僅かにムスッと不機嫌な表情を見せた色男に、図星かと笑いが込み上げてくる。
「マジで?」
「いや、手っ取り早く片付き過ぎたと言うか……」
ぶっ……!
ベッドへ行くのも待てないぐらい盛り上がったことは想像に難くない。きっと、夜のために俊平は朝也と距離をとって煽りに煽って欲しがらせたんだろうし、朝也も『甘やかしたい』なんて普段なら滅多に口にしないだろう言葉を吐いたんだ。まぁ、あれだけ飲んで騒げば俊平も疲れていただろうし、シャワーブースでヤって湯冷ましにカウチで戯れていれば、風に吹かれてウトウトしても無理はないが……。
「そんな日もあるよな?」
「何か誤解していますね?」
「いやいや、大丈夫。気ぃ遣わせて悪ぃな」
「早くしないと、艶夜さん出てしまいますよ?適当に戻るのでごゆっくり」
朝也は薄らと笑って、カードキーを手にふらりと出掛けて行った。




「……っ虎、……んっ、はぁ……も……」
乙女じゃなくても、天蓋付きのベッドに月の光を招き入れ、布擦れの音と虫の声しか聞こえない夜の静寂に互いの吐息を溶かすのは心躍るものだ。
オレンジの灯りを透かして、快感の昂ぶりに呼応する波のせせらぎに愛する人の熱を貪る。
「……も、無理……」
「ぁあ、何だって?聞こえない……」
抗議の拳を何発も背中に食らい、艶夜の身体が絶頂を間近に震えてしなるたびズルリと腰を引いて、次は肩に大きな引っ掻き傷を食らう。
「艶夜、俺のこと呼べよ……」
「虎……バカ虎、イッ……っ……く……」
艶夜が声を絞っているのは隣のカウチで俊平が眠っている所為だ。
お蔭でって言い方も変だが艶夜の乱れ振りは俺には嬉しい誤算で、朝也はこの状況まで計算ずくで俊平を放置して行ったのかと疑うほどだった。
「……っ!ぁああっ……ぐ……」
左右に激しく身を捩った艶夜は慌てたように逃げを打ったが、俺を銜えて放さなかったのは艶夜の方だ。食い千切りそうに絞られて思わず呻いた時、後ろでゴトリと何かを引き摺った音が聞こえた。俊平だ。少し前からガタガタしているのに気付いていたが、こっちもイイ感じに温まっていて引くに引けないところまで昇り詰めていた。
「くそったれが、朝也!どこ行きやがった!」
普段、そんな乱暴な言葉を吐くようなヤツじゃない。余程、怒っているか逼迫しているかだが、声にビックリして流石に艶夜も気づいたらしい。白い顔を一層、蒼白にして、これは突き飛ばされるパターンかと苦笑った瞬間、勢い俺の腕を掴み繋がりを深めてきた艶夜の唇が無言で『早く』と象った。
……やべぇ、ここで止めたら俺、ろくでなしじゃん……。
「艶夜、すっげー、可愛い」
「は、やく……!」
眉根を寄せて消え入りそうな声をあげる艶夜の中が熱さを増す。激しい抽挿で追い詰めながら、俺は先端をジクジクと濡らしている艶夜の昂ぶりを性急に揉みしだいた。
「……っ、熱……熱い……」
譫言のように熱い熱いを繰り返す艶夜が堪らなく愛しくて、
「艶夜、愛してる……」
ともに達した瞬間、堅く目を瞑った艶夜の一滴の涙を俺はとても美しいと思った。




「クソガキ、うるっせーんだよ」
今、解くって言ってんじゃんと、俊平とカウチを繋いでいるハンカチを解こうとしたが、寝ている間に引っ張って結び目を硬くしたらしい。手先の器用な艶夜に頼もうとしたが、乱れた声を聞かれたのを恥ずかしがってシーツに包まったまま出てこようとしなかった。
「じっとしろって、動くんじゃねぇよ。……お、ほどけた」
「朝也はどこに行っ……痛……!」
解放と共に立ち上がった俊平の身体がグラリと傾いで咄嗟に片手に受けとめたが、どうにも足が覚束ないらしい。カウチに戻すと不本意丸出しの顔で、
「朝也は?」
と聞いて来た。
「お前がオアズケなんか食らわせっから、ムスッーとして出てった」
「はぁあああ?冗談じゃない。あれ以上、掘られたら俺、潰れっから!」
「は?」
「まだ、朝也が中で蠢いてるみたい。気絶するほど悦かったの認めるけどアイツ、どうしたの?」
「俺に聞くな」
「覚えたての頃みたいに翻弄された。くっそ、腹、突き破られるかと思った……」
「わっーた。わかったから、ちょ、黙れ」
育ちがいい所為か、普段は猥雑な言葉を吐いてもノーブルな印象を失わない俊平だが、これは本気で黙らせないと俺がこっ恥ずかしい。慌てて口を塞いだところで朝也を呼び戻すことにした。
まったく、何が『これぐらいがいい』距離感だ……。
「ふ……、ぁはははははっ!」
あの『手っ取り早く片付き過ぎた』という朝也の不機嫌の理由がオアズケじゃなく物足りなさのためと解って、俺は無遠慮に笑ってしまった。
クールなツラして、サカる時もあるとかいいじゃん、いいんじゃねーの?
カチリと鍵を差す音がして朝也が戻ったらしい。
「あんま、騒ぐんじゃねーぞ」
と、俊平に言いおいて、俺はベッドに丸まっている艶夜の元へ戻った。
シーツがもぞりと動く。
「お待たせ」
「待ってないよ」
「隣、入れてよ」
もぞもぞと端に寄る艶夜がシーツの端を少し上げて俺を迎え入れてくれる。
廊下では俊平がキャンキャン吠えていたが、朝也があれを黙らせるなど容易いことのようだ。すぐにシーンと静まって濡れたリップ音に笑み零れた俺は、ベッドの端に掛けて暫く後ろ手に艶夜の指を弄りながら待っていた。案の定、敷居のカーテンから手だけを差し出して、無言でゴメンの手を作った朝也が「くれ」と掌を上にする。
「遅ぇよ」
と、小声にタオルケットを渡してやると、
「おやすみなさい」
笑みを含んだ朝也の声が微かな酒の香を夜陰に溶かし、去って行った。



翌朝も晴天。
微睡みの中、胸に抱いた艶夜の安眠を守りたい一心で息を詰めていた俺は俊平のダイブに飛び起きた。勢いよく俺たちの上に飛びかかって、きゃはははっーなんて妙なテンションで高笑いしている俊平は、昨夜の御立腹が嘘のようにゴキゲンだ。艶夜も何事かとビックリして咄嗟に俺の腕にしがみつき、状況が解るとスッと離れてしまった。
「お前な……」
「朝だよ、今日は何して遊ぶ?」
「ガキじゃねーんだから朝ぐらい静かにしろ。子守の朝也に遊んで貰えよ」
「寝てる。起こしたら可哀想じゃん」
「俺たちはいいのかよ?」
「ねぇ、艶夜さん。外行こ。滝があるんでしょ?俺だけ見てないもん、連れてってよ」
こうなると、人の好い艶夜の返答は決まっている。
「わかったよ。15分だけ待って。シャワーを浴びて着替えるから」
「Yay!」
艶夜と入れ替わりにベッドに仰向けに転がった俊平は、壁にかかる大小の操舵輪や風に揺れるカーテンに目を細め、眩しい笑顔を見せた。
「いい、休日だったね」
「そうか」
「また、来ようね」
「やだね。今度は艶夜と二人って決めてる」
「ちぇ……」
不貞腐れる俊平の髪をワシワシと乱してベッドを降りた俺は、斜交いに陽の射す朝の海の静けさに微笑する。
遠く波穂が攫う夏、次は4人で山へ行こうかなんて考えていた。

                                

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そして……。
「何がどうして、あーなった?」
打ち乱れる太鼓、酔いも吹っ飛ぶ男の地を這うような雄叫びを合図に、ハワイアンか、腰蓑を付けた精悍な男たちが繰り出し喝采を浴びた。その傍で首からレイを提げた俊平が観客の子らしい小さな女の子と手を繋いで楽しそうに踊っている。
「カネフラって言うんだって」
と、スポーツドリンクを手に隣で艶夜がクスッと笑った。
「ビール、まだあるぜ?」
「いや、こっちがいい、喉カラカラ。良くあんなに踊っていられるよね」
子供たちが見様見真似で面白がっているカネフラは勇壮で厳かだ。リーダーらしい中央の目鼻立ちのクッキリした男が俊平を手招いて、褐色肌の屈強な男たちが力強く地を踏み鳴らす。
さて、俊平はどう応えるつもりかと興味が湧いた。
「受け流すに一票」
「飛び込むに一票」
すかさず声がして、煙草の灰を落とした朝也がのっそりと椅子を立つ。
「マジ?」
朝也は口許に笑みを湛えるが、艶夜はペットボトルの口を噛んだまま黙って状況を見守っている。
足を止めて、困った様子で頭を掻いている俊平が見える。肩からストンとパーカーを脱ぎ落した転瞬、ドドンという太鼓の音が腹に響いた。裸足になるや次のドドンで伸び上がるように腕を突き上げ夜空を掴み、ドドンドドンに両の手を大きく広げ軽やかに身を翻す。
「Let’s live it up!」
大いに楽しもう!と、観客を巻き込んでいくカリスマ性。男目にも整った中性的な容姿と享楽一歩手前の奔放さが、この男の最大の魅力だ。観衆の中から赤いパレオが投げ込まれ、ワッと歓声が上がる。
空中でキャッチする反射神経も、地を舐める低い沈み込みから片足を軸に跳ね上がる柔軟性も、空手の心得のある俊平は体幹が出来ていて全く危なげ無い。腰に巻いたパレオを激しく揺らして力強く風を切り、しなやかに空を仰ぐ舞姿は扇情的で不覚にも胸を打たれた。
「恐れ入ったな。ああいうタイプだったっけ?」
「いや、俺も初めて見ました」



表情こそ変えないが、その眼は恋人の新たな一面を知って爛々としている。何故か俺が嬉しかった。
艶夜はポカーンと魂ごと持って行かれたような顔をして、穴の開くほどその横顔に見蕩れる俺に、まるで気付かないみたいだ。
篝火が焚かれ、時折、強く吹き抜ける風に椰子の木がザワザワと葉音を立てる。
何段にも丸太を組んだ大きな焚火は赤々と炎を上げ、空は呑まれそうに黒々としているのに辺りは昼間の明るさにも負けないほど煌々としていた。屋台の照明や所々に置かれたオイルランタンの灯りが硝子の浮き玉のオブジェを照らすのも幻想的で、ボルテージの上がっていく打楽器の音がルアウの佳境を知らせている。
『酔狂は突き抜けないとつまんない』
今朝、島に降り立った時に俊平が言った言葉を思い出していた。
羽目を外す時は徹底的にの大胆さ。根っこでは自省心が強い努力家だが、それを見せたがらない……という以前に干渉の厳しい家に育った俊平には何にも勝る自由への希求がある。今、目の前で感性を解き放つ俊平は、その自由を謳歌しているように見えた。
そして、その瞳を開く時、常にその先には朝也がいる。

「アイツ、お前を見てる」
「虎さん。星空散歩、1時間延長して貰っていいですか?」
「それって……」
「たっぷり、甘やかしたくなりました」
珍しい直球に俺が照れた。
この男に、こんなことを言わせる俊平は、やっぱり只者ではない……。



夜に聞く野鳥の声は少し感傷的になる。

「寒くないか?」
と言ったら、艶夜は
「寒いって言って欲しそうだね」
なんて、らしくない言い方をした。
「言って欲しい」
「バカだな。言わなくても虎は肩を抱くんだろう?」
許しが出たので遠慮なく、その細い肩に腕を回す。
二人が歩くのは木々の向こうに滝の見える木橋の上、この辺りは灯りも遠く、ひっそりとしている。
キャンプファイヤーで燃え尽きた俊平は朝也が先にコテージへ連れ帰った。今頃はシャワーを終えるのも待ちきれず戯れているに違いない。
「遠回りするか」
と言った俺の意図を解っている艶夜はソワソワと落ち着かない様子で頷いた。
「やっぱりその……そういうことになっていると思う?」
「そりゃそーだろ。朝也から1時間の延長、頼まれているし」
「延長ってカラオケじゃないんだけど……。神月がそういうこと言うの珍しいね?」
「ニャンぺーの求愛ダンスに滾ったか?」
あははは、なんて笑っていると、益々恥ずかしそうに艶夜は俯いてしまう。
「……驚いたよね」
「俊平か?」
「うん。人前であんなふうに自分を曝せるなんて、やっぱり、表現者だなと思う……」
画家であることと酔っ払いダンスが結び付くかは兎も角、人に見られることに慣れたクソ度胸は確かだろう。
「ことごとく、朝也だけどな」
「どういう意味?」
「朝也しか眼中にねぇの。ダンサーの招きに応じたというより、あの時、あの場所には俊平と朝也しかいなかった。まぁ、あれだな……男の色仕掛けも案外、見れるもんだな」
冗談めかして笑ったものの、俊平の朝也を射抜く眼に媚びた色はなく、挑むような小気味よさに心が揺さぶられたのを思い出す。その身のこなしの凛と気高いさまを朝也もまた一心に見つめていた。
「楽しかった!」
と、上機嫌で戻って来た時もそうだ。
人目を気にしないというより、俊平の眼は朝也しか映していなくて、
「余所見も出来なかったろ」
背後から縺れるように愛しい男の首へ腕を回し、凄艶な笑みを浮かべた。
胸骨を辿るいやらしい指先は完全に朝也を煽っていて、俺なら絶対くすぐったくて逃げ出すなと身体の芯を熱くした。朝也は程よく鈍く出来ているのか我慢しているふうもなくさせるが侭で、どうやら男前は忍耐強いものらしい。
「酔っているのか?」
と、普段と変わらない朝也の声。
「酔わないよ。飲み足りなくて戻ったぐらいさ」
酔っている俊平の絡みつくような掠れ声は背筋がゾクリとするほど艶めかしくて、朝也の手からビールを奪うと、その唇の端に唇を落としていった。二人の日常生活を垣間見た気がしてドギマギと視線を反らすと、冷ややかな艶夜の眼とぶつかって冷や汗をかいた。
「虎、こっちにもくれる?」
キスを?じゃない……ビールを、ですね。
テーブルの上のビールは汗をかいていて、クーラーボックスに残り3缶を数えたのは、つい2時間ばかり前のことだ。俊平が毒なら艶夜は薬、酔っていたとはいえ、口を尖らせて素直に構ってくれという顔をするのが俺には堪らなく可愛かった……。
「乱痴気裸まつりは、あのニャン一匹で十分だ。お前は脱ぐなよ?」
「暗にリズム感が悪いって言ってる?」
照れた時は、こうして軽い憎まれ口で誤魔化す艶夜だ。
「こっちのリズム感は俺たち最高に相性いいけどな」
肩を抱く手を腰へ滑らせると、
「調子に乗るな」
逃げを打った艶夜が境界線とばかり掌を広げて俺を近づけまいとする。このテの攻防戦は日常茶飯事だ。動体視力も反射神経も俺の方が長けているのを解っていて、それでもイヤイヤと逃げ回るのは、もう追われるのを楽しんでいるとしか思えないガードの甘さだ。無論、艶夜に俊平のようなあざとさは無いから、俺が距離を詰めるたび突っ撥ねようと胸を押し返す手は本気で待ったを掛けているのだろう。いつもなら、仕舞いに焦れて強引に手中にするが、この夜は綺麗な星天だったから不毛な追いかけっこも不毛でない気がした。
「いーじゃん、待てよ」
と言うと、早歩きでプロムナードを突き進む。
「解った解った、もう触んねーから」
と言うと、足を止めて振り返る。
手を繋ごうとするとフイッと交わされて、捕らえるとブンブン振り解かれて、ギュッて握ってギュンって逃げられて、もっともっと早足になって同じ所をグルグル追いかけっこして……そんなことを数十メートル楽しんだ何度目かの「もう触んねー」で、
「……わけねーよな」



勢い距離を縮めると、艶夜の手首を俊敏に回り込んだ。
きっと、艶夜も待っていた。
「艶夜……」
甘えモード全開でギュウっと抱きしめると、怒ったわけじゃない怒った顔が俺を真っ直ぐに見上げてくる。好きな表情だ。
夜風が誘うから俺たちは唇を重ねた。反射的に逃げ腰になる腰を抱いて、けれど、木の葉が囃し立てるから今は短めのキスがいい。
「お前を引ん剝いていいの、俺だけだから」
潮の香のする髪に接吻けると触れる腰に緊張が走る。これ、殴られるパターン?と思ったのは一瞬で、呆れ顔の艶夜は堪りかねたって顔で笑った。
「噛みついてやれば良かった」
「コワ。何でよ?」
「……しょうのないヤツだな」
手を引かれて歩く。
ヘラッと笑って、わざと体重を後ろにダラダラ歩くと、
「重い。自分で歩いてよ」
と、文句をたれる艶夜をもっと手古摺らせたくて立ち止まってみる。つんのめって振り返ったツラが笑いたそうに口許を緩めて、俺は男にしては柔らかいその手をギュッと握り返した。
「牛を曳いているみたい……」
「曳いたことあんのかよ?」
「ないけど、こんな感じかな?って……」
「そうか。頑張れ」
「あのねー!」
二人してクスクス笑って、何だコレ甘酸っぱくて悪くないじゃんって……、
「艶夜、……艶夜さんよ?」
「聞こえない」
「なんでー?」
「どうせ、ロクなこと言わない」
正解せーかい……、抱かせて」
「嫌だ」
「抱かせろー」
「だめ」
「抱きたい!今すぐ抱きたい」
「声が大きい、デリカシーなさ過ぎ、くどい」
予定調和の三言葉を聞いて俺に分が有ると確信した。艶夜はいつもそうだ。拒否すればするほど、俺で頭が一杯になる。根っから善人だから言った傍から言い過ぎたと自省するんだ。そこに付け入る俺の図々しさなんて慣れっこだろうに押しの強さを情熱家とでも解釈して自分に非があると思ってしまう。だから、マイナスの言葉を吐いた後は決まって異物を呑み込んだような顔つきで俺の顔色を窺うんだ。そのタイミングを見計らって俺は臆面もなくこう言う。
「愛してるよ、艶夜」
「……、……」
固まって黙り込むのも、いつものことだ。
この後は俯いて『バカ』とか『軽い』とか追い討ちのマイナス言葉を浴びせてくるはずだが、

「……ぁ、」

雲が晴れて、艶夜の背中向こうに大きな月が顔を覗かせた。
それは一瞬で全ての星を霞めてしまうほど目映くて、艶夜はその月すら従えて見える。
「俺も……好きだよ、虎」



やわらかな笑みを浮かべ、艶夜は真っ直ぐ俺を見ていた。夢のようだった。

見蕩れて言葉を失くした俺の頭の中は艶夜の『好きだよ』が破裂しそうに膨張していて、目の前でパンッと手を叩く音がした時も本当にキャパシティオーバーしたのかと思ったぐらいだ。

「虎?」
手を叩いた手恰好のまま、視線を逸らせた艶夜は、
「ごめん、言い慣れてないからビックリさせたね……、らしくなかった」
照れて俯くいつもの艶夜に戻って、また、歩き出す。
「いや、嬉しかった。嬉しすぎて意識飛んだ」
「どうして虎は、そういうことスルリと言えるかな……?」
「あ゛?ぉ、おい、嘘じゃねーからな?調子いいとか軽薄とかそういうんじゃなくて、」
「解ってるよ」
焦る俺を笑う艶夜は、
「日頃の行いに後ろ暗いところがあるから慌てるんだ。解ってる。俺は虎が本気で言っているの、ちゃんと解っているよ」
チクリと説教をたれながらも、今夜は何のご褒美だ?ってくらい『好き』を伝えてくれる。
「昨日、環に言われたんだ。『四室さんは好きを言われたい人だと思うけれど、たまに自分から言ったら、もっとHappyになれるよ』って」
「なれた?」
頷く代わりに肩を突かれた。
「環は言われたいから距離を保つんだって。最初は何を言っているのか解らなかったけれど『それが、朝也って男の最適な賞味方法だ』って言ったよ」
賞味方法なんて言い方が俊平らしいと思った。
ふと、朝也とバーベキューの時に交わした『これぐらいがいい』距離感の話を思い出す。



「艶夜、俺な?今日、俊平がべったり朝也の傍にいなかったのが不思議で喧嘩しているふうでもないし、そんなもん?って意外に思っていたんだ。俺は好きなヤツはずっと手許に置いておきたいからさ」
「虎はそういうところ有るね」
「嫌か?」
「時々」
あんまりスルッと言うからグサッときて、己の打たれ弱さを知る。
「冗談だよ?」
って直ぐに言ってくれなかったら、どうしてくれようかとメラメラ征服欲を滾らせるところだった。
「環はね、傍にいないから一緒にいる時間が嬉しくて、傍にいないから見えるものがあるって言うんだ。同じように朝也にも余す処なく自分を見て欲しいって揺るぎない眼をするんだ。あの二人は息をするように互いを認め合って共に在るからね……」
言いたいことは解らなくもないが焦れったい。
互いに知りたいことがあれば聞けばいいし、見せたいなら見ろと、見たいなら見せろと言えばいい。
俺はシンプルに傍にいたいから艶夜を離さないだけだ。
下方に桟橋が見える。
面白いように等間隔に二つずつ黒い影が寄り添って、考えることは皆同じかと俺たちは草の香を踏み、樹々の奥へ緩やかな坂を上って行った。
「帰り道、合ってる?暗いね……」
少し心細そうに歩調を緩めた艶夜がグシュンと犬みたいなクシャミを一つして、俺は痩身を抱き寄せた。艶夜は拒否しないまでも、ここが外だという理性は働くらしい。僅かに身動ぎして居心地悪そうに身体を縮める。
あったかろ?」
「……だね」
体温の高い俺には心地いいほど、艶夜の身体は秋の夜風に冷えていた。
別ルートを降りて来た男女が数メートル先でいい雰囲気になったらしい。抱き合ったところで男が俺に気づいたが、こういう時、俺は眼を反らさないんだ。案の定、チャンスを諦めた男は逃げるように女の手を引いて去って行ったが、俺の腕に顔を圧し潰しそうにホールドされていた艶夜はバツの悪い遭遇には気づかなかったようだ。
「……懐に飛び込めって言われたよ。虎は飛び込まれたいタイプだって」
と、胸で熱い息が動く。
「俊平か?あのクソガキ、当たってんじゃねーか」
「そう言われてもね……俺は男だし、もう、27だよ?」
「俺は艶夜を頼りにしているぜ」
「ぇ?ぁ、……うん」
心なしか嬉しそうに見える。男とか歳とかそういうんじゃねーんだけど、この自立心旺盛のシッカリ者は真面目に捉え過ぎて、俊平が言わんとした俺との距離感に戸惑いを感じたようだ。
「アレは良く人を見ているな」
「そうだね」
「言い方が一々変化球で良く解んねーけどな」
艶夜の小刻みに震える肩を寒いのかと勘違いして抱く手を深くしたが、手で口を覆うのは思い出し笑いを噛み殺したものらしい。
「虎はジャムの塗りすぎで味を損なう人らしいよ?」
きっと、そのジャムは苺味だと思わせる甘い声が言った。
「好きだ好きだを言いすぎて、好きを聞かせて貰えない人だって言うんだ。俺は年中、好き好き言われるんだから自分が言う必要を感じなくなって、終いにはジャムで本性を隠されることに慣れて、自分を出せなくなるだろうって。……可笑しくて笑っちゃった」
艶夜が俊平とこういう話をしていることに軽い眩暈と嫉妬を覚えた。
あの観念的で七面倒臭い知的生命体と対等に話が出来る艶夜は、俺に見せない顔をアイツに見せるのかもしれない。



「俺はバカだから解るように言ってくんねーかな?」
月の光が艶夜の横顔に躊躇いがちな緊張の翳を落とす。
「違うな……。どうして今、それを俺に話すのかを艶夜の言葉で聞きてぇかな」
俊平は理性に捉われがちな艶夜の欠点を指摘して背中を押した。それが清廉な艶夜の美徳と承知の上で、もっと欲に忠実で良いんじゃないの?と、けしかけたのだろう。
「難しい話じゃないよ」
と、艶夜は俺の腕から逃れた。
「俺にも性欲はある、って話」
「は?……あー、たまには抱く側に回りてぇってこと?」
「……」
鬱蒼とした木の葉がバサバサと音を立てて月の光を千切る。
艶夜は無言でズンズン暗がりに溶けて俺を置いて行こうとする。
「何?たまには替わろっか?」
「本気で言ってる?」
「冗談で言えることでもねーだろ?」
「虎は正真正銘、バカだと解った」
「ちょ、待てって」
機嫌を損ねたらしい。剣呑な声に焦って瞬発的に白い手首を捕らえると、俺は逃げられないように抱きしめた。その気になれば艶夜は非力ではないから、この腕を解けるはずだ。
「……ごめん」
「何を謝るの?」
「気に障ることを言った……んだと思う」
「最低だな」
俺を最低だと言っても、傷ついた顔をするのはいつも艶夜の方だ。おとなしく腕に抱かれてモゾモゾと向き直り、抗議の拳を力なくトンと胸にくれる。
「虎、……キス、しよっか」
「は?」
「ぁ、いや、い……」
「します!」



俺も何で『します』なのか格好のつかないていで、誘ったくせに俯くシャイな男の唇をじっくりと征服に掛かった。しっとりと吸い付く唇は弾力があって、ほんのり潮の味がする。キスなんて何度も交わしているのに温まる吐息は余裕なくうぶに震えて、毎度、年月をリセットして艶夜に恋した瞬間を思い出させるんだ。
「艶夜、好き。すっげぇ、好き……」
「始まったよ」
呆れ声で艶夜は笑う。
キスに浮かされてもSexに溺れても、ご飯を食べたりテレビを見ていても好き好き言ってる俺を艶夜は笑う。ジャムで上等、俺だけが知っている本当は甘やかすのも甘やかされるのも好きで漢な艶夜を誰の目にも触れないように隠しておきたい。
「艶夜、好きだ」
「知ってる」
珍しく積極的に求めて来る艶夜の腰を捕らえて舌を絡める。歯列をなぞり喉奥を蹂躙するほど貪っても足りなくて全然足りなくて、艶夜を抱きしめる腕に知らず力が入っていたらしい。
「……っ、んぅ……!」
息がもたないのか俺の胸を押し返そうとした艶夜が背を叩いてギブアップを知らせてきた。
緩めるとハゥ……と湿った息を夜に溶かした艶夜がクスリと笑う。
「だめだよ。そんなにしたら……」
「したら?」
シャツの襟首を乱暴に掴まれ、男の腕力で木陰へ引き込まれた。
「……歯止めが効かなくなる」
ギラリとした瞳を間近に見て、俺の理性はブッ飛んだ。
月はいつまでも其処で笑っていて、滝壺を叩く水の音は発情期の獣みたいな俺たちの息を隠すのに丁度良い効果音で、そして、火照った身体を冷ますのに都合のいい風が途絶えることはない。
「虎、明日には忘れろ……」
伸び上がって絡めて来る腕の熱さ、
「……わかった」
それは『嫌だね』と同義語……、俺は一生、今夜のことを忘れないだろうと思った。

 

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「もー、嫌。付き合いきれない!あの人の底なしの体力、どうなってんの?」
審判をしていた朝也の手首を掴んで、一方的なハイタッチで交代を申し出た俊平は休憩中の艶夜の足元にくずおれた。
「環は運動神経が良いんだね。虎に勝つなんて大したものだよ」
「だって、あの人、俺ばっかり狙うんだもん。そりゃ、負けると思わない?久美ちゃん、俺の集中砲火浴びて可哀想じゃん」
「そこ、手加減しないんだ?」
「するわけない。攻め処を狙うのは戦略の内、勝負事は勝たないとね」
「そんなに熱くなるなんて意外だな。てっきりインドア派だと思っていたよ」
大の字に転がった俊平の首筋に持っていたペットボトルを宛がって、艶夜は審判を代わるよと朝也の尻を叩いた。「うす」と短く頷いた朝也の登場に女の子の色めき立つのが判る。
「ぜってぇ、負けねぇ」
「こういう時の虎さんって面倒臭いんですよね」
俺たちは彼是2時間近く、7人で男女一組のビーチバレー対抗戦を繰り広げていた。
「退屈してない?調達してきた」
打ち上げられたアザラシみたいに防波堤でウトウトしていたところへ、浜で石拾いに夢中だったはずの俊平が女子大生の三人組を連れて来た。当然、一瞬にして目が覚めるに決まっている。
「五色の玉砂利、綺麗でしょ」
と、ビニールの中を見せられても、石ころなんかどうでも良くて、
「お前、使えるじゃん」
「やっぱ、そっち?」
袋の口を縛った俊平も好色な笑みを浮かべた。
その審美眼はアートだけでなく女の子を見る眼もハイレベルだ。朝也にしか関心がないと思っていたが一人は留学生で、そのブロンドの綺麗なスレンダー美女が俊平の堕とし処だったようだ。
非日常的な島のリゾートと言ってもそこは模倣、そして日本。
海外のビーチほどには開放的になれるものでもないが、ただ一人、全く意に介さないヤツ、それが俊平だった。さっきまでパートナーだった久美ちゃんはコートを回って俊平の傍に腰を下ろす。積極的な子だなと観察していると、先輩を立てるとか加減というものを知らない朝也が冷やっとする剛速球を打ちこんで来た。
「……っぶねぇ」
朝也の本気にたじろぐ。おとなしそうな小柄美人の指先だけを合わせる控えめな拍手に軽く会釈するイケメンぶりも嫌味がなくて、バレー以前に負けている気がした。そして俺は隣のブロンドと意思の疎通が出来ない。まだ日本に来て浅いらしいが日本語の怪しいパートナーは不利じゃねーか?見兼ねた俊平が外野から通訳だか野次だか捲し立てていたが、そこそこ善戦したものの結局、負けてしまった。しかも、終わった時に俊平の姿はなく、少し離れた波打ち際で久美ちゃんと良いムードで笑っている。
「クミ、コウタイネ」
と、割って入るブロンドの遠慮のなさに女って怖ぇええ……と思う反面、サバサバと強気なアプローチは小気味よくて、日本人だったら、なんて思ったり思わなかったり……。その僅かな隙を突くように、いつの間に隣にいたのか艶夜に耳打ちされて竦み上がった。
「虎には計算がないからね」
「あ、ハイ……ん?」
暗に力任せのバカだと言われた気がして苦笑うしかない。
「仇は俺がとる。環と頭脳プレーで勝負だ」
気合充分ラッシュガードの袖を捲っているけれど、さぁ、どうかな?
「あれは小回りの利くニャンだから振り回されんなよ」
アドバイスしたつもりが、艶夜はネコじゃらしを無心に追う猫にでも俊平を重ねたか、同感とばかり俺の肩を突いて笑い出す。その飾り気のない笑顔に釣られて俺も笑った。


ところが、だ。
「あれ?勝負ついたか」
シャワーブースで砂を落としたついでに朝也とマリーナ沿いのオープンカフェバーで一杯やって戻ると、海を向いて汗を拭った艶夜が振り向きざまに微笑った。
午後の日差しがその白い肌を赤く火照らせ、吹き抜ける潮風が髪を乱す。



「俺の自慢だ」
「何が?」
「こんなに綺麗な男を手中に収めていること」
背後から抱きしめると、
「こんなところで」
と、戸惑いながらも艶夜は逃げない。傍目には悪ふざけの取っ組み合い序盤戦みたいな勢いで揺さぶったから、艶夜は砂に足をとられてフラつきながら呆れ笑うばかりだった。
「酔ってる?自分だけズルいな」
「酔ってねーよ。ニャンペーたちは?」
「環?そこまで、女の子たちを送って来るって」
「アイツがナンパしたのに?」
「ビーチバレーは飽きたってさ」
「ぁあ?何で帰すかなー?」
ガキじゃねぇんだから本当のお愉しみはこれからじゃねーのかよ?と喉元まで出かかって、艶夜の無垢な眼に言葉を呑み込む。
「今、わっるい顔したよ?虎……」
「わっるいことされたい?まだ、日暮れ前だぜ?」
「話を摺り替えるな」
「あっはははは」
「ちょ、神月が見てるから」
「見てるから何?」
「放せって」
「朝也、恥ずかしいから後ろ向いててってさ」
「そんなこと言ってない!」
『ほんと、タチ悪い』を何度も繰り返して俺の腕の中でもがいた艶夜は矛先を急に朝也へ向けた。
「神月の所為でもあるからね。隣の子の胸を見るって御立腹だったよ?」
「は?濡れ衣ですね」
「見ない?」
「まぁ……見ますね」
「……正直だね」
悪びれもしない朝也に言った艶夜の方が恥ずかしくなったのか、
「機嫌とらないと、知らないからね」
早口に言って、夕映えをフラリフラリと戻って来た俊平に手を振った。


波を染めるオレンジが瑠璃の風に追いやられ、夜が来た。
キャンプファイヤーを囲むフラのショーを眺めながら俺たちはサンセットバーベキューの支度、ビール片手にステーキ用の牛ランプ肉を豪快に焼く。
「朝也、つまみ、任せるわ」
「オイルサーディンにトマトとタマネギを和えるのはどうです?」
「おー、それいこ!艶夜、俊平はどこ行った?」
「女の人に囲まれてる。昼間といい本当にモテるよね?」
艶夜の口調にやっかみの色はない。
むしろ、状況を楽しんでいるようで視線の先へ眼をやると、バーカウンターに凭れた俊平がコロナの瓶にカットライムを押し込み、押さえた口を慣れた仕草で返すのが見えた。年上ぽいグラマラスな美女たちは日本人じゃなさそうだ。



談笑するさまも遊び慣れていて、いつの間にあんなふうに大人の色気を漂わすようになったのかと、どうにも危なっかしかった高校時代の若気のえんを思い返して口許が緩む。
「あいつは海外からのお客様しか、おもてなししねーの?」
「意識してないんじゃないですかね?」
朝也が言うのは、日本人とか外国人とか世代が性別がという意識を俊平は特にしていないということだろう。確かに俊平には、そんなところがある。
「さっき、通訳を買って出るのを見たよ。エスコートもスマートで紳士だよね」
「艶夜は褒めすぎ」
「虎、ちっさい」
「俺を褒めろ」
「うーん、数分くれる?褒め処を探さないと」
ヲイとお約束のツッコミを入れたところで、腹を抱える仕草で掌をパタパタと3度、道化て見せる艶夜に目を細めた。リラックスしているんだろう、今日はいつも以上に饒舌でコロコロと良く笑う。トング片手にソーセージを焼いていたが真面目なヤツだから、
「焦がすなよ」
と言えば、焼きムラのないよう引っ切りなしに転がすし、
「忙しねぇの、余計に火ぃ通らねーぞ?」
と笑えば、慌ててトングを振り上げる。スイッチのオンオフの如く極端だからつい、揶揄いたくなるけれど、海風に揺さぶられた照明が不意に艶夜の黒目がちな眼をキラキラさせて、一瞬で心を掴まれた。
スコォーンと切れ味のいい包丁が俎板まないたを叩いて我に返る。
トウモロコシをカットした朝也と目が合って、フと声もなく笑われた。何でも御見通し、まったく可愛げのないヤツだ。
「お前、いいのかよ?」
この男は恋人が女に囲まれて楽しげに笑っていても、少しも動じない。
「構いませんよ」
なんて涼しい顔をして、むしろ、俊平が不憫に思えるほど見もしねぇんだから、そこに愛はあんのか?と、悪態つきたくなる。
「お前ね、少しぐらい嫉、」
「気づきませんか?俺は痛いぐらい視線を感じますけどね?」
「え?……あ、……あー、そういう……」
「そういうことです。可愛いでしょう?」
さらりと夜風が甘やかに香る。
滅多に聞けない朝也の『可愛い』を俺が聞いてしまって、内心、俊平にスマンと謝ったくらいだ。
「意地が悪いね、お前は」
「そうですか?」
「今の、たまには本人に言ってやれよ」
「言いませんよ」
楽しそうな顔しやがって……、
「あれだな、焦らしプレイってやつか」
「妙な言い方しないでください」
朝也は穏やかな笑みを浮かべて、相変わらず俊平に眼を遣った気配はないがおもむろに片手を挙げる。すると、弾かれたように輪を抜けた俊平が数歩先で彼女たちに振り返り、
「See you later.」
と、愛嬌たっぷり手を振るのが見えた。やっぱり、俊平は片時も朝也から目を離していなくて、それを朝也も判っていたらしい。良く躾けられたニャーだ……。
「お腹空いたー」
と、無邪気な声。
「お前ね、勝手が過ぎるだろ。無闇とナンパしてんじゃねーよ」
「そんなことしないよ」
「昼間だってそーじゃん。飽きたらポイでサッサと帰してさ」
「違うよ。あれは久美ちゃんが朝也の連絡先を聞きたいけど軽い女に思われちゃうかなーって言ってきて、カノジョいるって牽制したんだけど、最終の便で帰るから焦る、諦めきれないって必死なんだもん。フルネームだけでも教えてって言うから教えないって言ったの」
「キッパリと……。それで怒って帰っちゃったか」
「まさか。レディーに嫌な思いをさせて帰すなんてスマートじゃないよ。『キミへのこの想いはどうしたらいい?』って言っただけさ」
胸に手を当てて心底熱っぽく言うから、これが演技と解っている俺でも絆されそうになる。
まして、プライドの高さがダダ漏れの綺麗な男が、君を好きな俺に他の男のことを訊くの?と嫉妬して見せたんだ。彼女も悪い気はしなかっただろうし、それ以上、何も訊けなかったと思う。まったく、女あしらいが上手い。悪戯な笑みを浮かべてペロリと舌を出す俊平に沸々と笑いが込み上げ、思わず、その額をペシッと叩いた。
てっ!」
額に手を遣った俊平は「だってー」とか「すぐ手が出るー」と文句をたれて朝也の背に隠れる。
いきなり背を掴まれた朝也は庇うでも慌てるでもなく、包丁で俊平を傷つけないよう逆手に持ち替え、冷静に俎板の上に戻した。その手は後ろ手に俊平の腰に触れ、労うようにポンポンと叩く。
さりげない愛情表現が無口なこの男らしくて、ふと笑みが零れた。
「朝也の背中、スモーキーな匂いがする」
「齧りつくなよ?」
抑揚のない声とコント染みた会話がツボに入ったか、艶夜が笑いながら「食事にしようと」と言って、一気に場が和んだ。
「艶夜はミディアムウェルだよな。ほら、しっかり食え」
と、ステーキを大皿に載せると、
「俺、ブルーレアで」
何様だと言いたくなるお客様然とした俊平が隣でニコニコしている。
朝也は手際よく皆に料理をサーブして、艶夜はコロナは旨いのかを俊平に確かめていた。コイツは酔うと少々メンドーだからラッパ飲みのコロナはどうよ?と思うが目を離さないでいよう。



野外ステージからハワイアンギターとウクレレのメロウなナンバーが流れてきて、しばらくは波音を背にアチラコチラで賑やかにバーベキューを楽しむ声が聞こえた。
「けれど、驚くよ。環は軽率に女性に声を掛けるんだから……」
聞きようによっては軽い非難にも聞こえる声が艶夜のものだったことに驚いた。普段はそんな言い方をするヤツじゃないし、もう酔っているのか?とギョッとして顔を見る。
「昨日もね、行列を見て『ここ、美味しいの?』って」
「俊平なら言いかねませんね」
秋野菜のホイル焼きを開いた朝也が溶かしたチーズを掛けて、スッと艶夜の前に差し出す。
「食べてみてください」
「旨そうだね」
「あー!俺の好きなやつ」
欠食児童かよとツッコミたくなる俊平が横からプラスチックのフォークで突いて、二人で『美味しいねー』なんて言っているのも穿った目で見ると、こっ恥ずかしくてムズムズする。
「昨日、行った店が人気店みたいで回転が悪くてさ。前に並んでいた人が順番が来て、良かったら相席しませんか?って言ってくれたんだけど、環ってば、まるで遠慮する気がないんだ」
「え、俺もしねーわ」
「虎は図々しいから。女性は喋るためにデザートタイムをとるんだろ?俺たちがいたら邪魔じゃないか」
「だってあれ、逆ナンでしょ?話した感触で判るし、断る方が失礼だよ」
「これだもんね……」
だんだん、笑っている艶夜の意図が解って来た。
俊平の身勝手は性格だが、先に欠点をあげて俺に言わせない。『勝手が過ぎる』と言った俺に『責めるな』と予防線を張っているんだ。笑い話にしてしまうことで『楽しい時間に水を差すな』と、気の短い俺を宥めている……ったーく、良くデキたヤツだ。
「次は俺と行こうぜ、その生クリームの?ハンバーガー」
ガシッと肩を組んで耳許へ囁くと、俺が知っていたことにギクリと竦み上がった艶夜が掛かる吐息のくすぐったさに身を捩って体温を上昇させた。
「いーな、俺も嫉妬されたい……」
俊平はカボチャを口に放り込んでフォークを噛む。朝也はそんな不貞腐れの頭を雑に撫でたが、ヤツの顔は俊平には見えていないんだろうな……、心底、可愛がっているって顔をさ。
「お前は女にモテるからいーじゃん」
「通訳がいなくて困っていたのを助けただけ。同郷だったの、あのブロンドの彼女。フェアフィールドに住んでいるんだって。小さな歴史博物館があって割と好きだよって言ったら地味って言われた。あの良さが解らないんだね。……ぁ、虎センパイのこと可愛いって言ってたよ」
「俺の方が上じゃね?」
「うん、俺と同い年だって。本気で口説きそうな勢いだったから『カノジョ』レベルじゃ諦めないの久美ちゃんで学んだし『既婚者』にしておいた」
「ぁ?……はぁあああっ?」
感謝してよねーとヘラッと笑った俊平は焚火を囲ってマイム・マイムが始まると食いかけのソーセージを平らげ、朝也に期待の眼を向けた。けれど、答えは判っていたようだ。
「交ざろ、艶夜さん!」
「ぇ?いや、ぃぇえええええ!」
勢いターゲットを艶夜に変えて、手首を掴み連れ去っていく。
艶夜の「ムリムリムリ~」が雑踏に紛れていくのを呆然と見送った俺の傍で朝也は、
「やっと、落ち着いて食事が出来ますね」
表情だけは気の毒そうにトングを割り箸に持ち替え、缶ビールを開ける。
「お前、良心が痛まないの?」
「良心で腹は膨れませんからね」
いい性格してんじゃねーか……。
「俊平のヤツ、目の前の俺をスルーしたのは何でだ?」
「体温が高いから」
「は?」
「虎さん、手、汗ばんでいますよね?」
「ずっと、肉焼いていたからな」
「こっちに、もう一枚下さい」
手許の紙皿を箸でトントンと突いて、朝也は一気に飲み干した缶を指先に挟んで振った。俺に追加の肉を焼けと?もっと、ビールを寄越せと言うか。ふてぶてしい後輩に呆れるより懐かれていると世話を焼きたくなるんだから、俺は単純だ。艶夜を取られてつまらないとモヤモヤしないでも無かったが、朝也に一途なはずの俊平があまり傍に貼り付いていないことが意外でもあった。
「いつも、こんな調子?」
「何がです?」
「俊平はもっと、お前にべったりだと思っていた」
「これぐらいがいいと解っているんですよ」
「お前が?」
「お互いに、です」
身勝手なのは、いつも俊平の方だと思っていた。
黙って渡米して突然舞い戻って、好きだからと朝也の優しさに甘えて傍にいる。それでも真っ直ぐなぶん応援してやりたいが、もしかして、一定の距離を保つことを朝也が俊平に課しているとしたら……、そういう意味の『これぐらいがいい』なら俺は正直、がっかりだ。
「お前、本当に今でも俊平のこと好きか?」
一瞬、問われた意味を解しかねるという眼をした朝也は、持ち前の頭の回転の速さで俺の思考を解析したらしい。フ、と穏やかに笑って、
「虎さんは『取られた』という顔をするんですね」
と、切り返して来た。
「い?や……その……」
図星をつかれると独占欲の塊みたいで恥ずかしい。朝也は悠然と口角を引いて、
「それも、距離感のひとつと言うことです」
と、一際、歓声に沸くマイム・マイムの加速の輪に眼を遣った。
「楽しそうにしていますね」
ツンもデレも無自覚ってツラで暗がりにも易々と俊平を見つけ、目を細める。
「そうやって俊平を見るのに、ツンなの何?」
「まだ言いますか」
「マイムベッサッソンって何?」
「……いきなりですね」
ビールを噴きそうに俺を見た朝也は、
「水……『救いの水を汲む』みたいな意味だったかと?」
珍しく自信なさげに知識の抽斗ひきだしを開いたようだ。
「虎さんも交ざってきていいんですよ?」
「いらね。いい歳して、お手て繋いでダンスもねぇだろ」
朝也は同意という笑みを浮かべると、
「じゃ、俺に付き合ってください」
ビールを2缶開けて寄越した。

 

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ぽっかりと4人の休日が重なった晴天の土曜日、俊平の『青が見たいね』で夜明け前から車を走らせたのは離島の海水浴場だった。季節的には秋で遊泳には向かないが、海の透明度が増すのはむしろ、これからと言っていい。ダイビングシーズンの到来に沸くダイバーや夏を惜しむ人々で港は賑わっていた。
「まだまだ、暑いね」
と、眩しそうに額を拭った艶夜が吹き抜ける風に目を細めてそっと囁く。
「虎、潜りたくて堪らないんだろ」
「今回は急だったからオアズケ。お前らと浅瀬で水遊びでもするよ」
俺の趣味の一つはダイビング、海を見ると血が騒ぐのを艶夜は子供でも見る眼で微笑うんだ。
「似非リゾートにしては良く出来ていますね」
「白けること言うんじゃねーよ、朝也」
俺たちは対岸の駐車場に車を停めてフェリーで渡って来たんだけれど、リゾート化計画に向けて試験的に無人島を丸ごとポリネシアン風リゾートに設えた期間限定イベントだと言うから、そこそこ頭のブッ飛んだ主催者だと思う。どこまでが自然のもので何が人工物かは一寸見には判らないが、外国人スタッフに褐色の大男がいたりスピーカーでタヒチアンビートを流していて、南国情緒を気軽に味わうには面白い趣向に思えた。
「酔狂は突き抜けないとつまんない」
と、俊平も言うし、艶夜も目新しい景色に眼をクルクルさせている。朝也は考古学者のようなしかつめらしい顔つきでティキのお面に似たオブジェを眺めていて、誰一人、引き返そうとは言わなかった。
時折、火山の噴火を思わせる地鳴りがするのは演出か、爽涼のまるい風が熱帯植物の大きな葉を揺らし、俺ももう、ここはポリネシアだと思い込んで、とことんマリンスポーツを楽しむ気でいた。
「まずは着替えてカヌーだな」
と言うと、途端に俊平の足が止まって、朝也に肩を抱かれて渋々歩き出す。
「苦手か?」
「怖くねーし」
怖いらしい……。
ちらりと朝也を見ると「任せろ」と小声に言って俊平の手首を掴み、先を歩き出した。
この男は言葉少なだが、俺がどんなに言葉を尽くすよりアッサリと俊平を安心させてしまうんだから、口の端が緩んで仕方ない。
「艶夜は俺が……」
「見くびるな。行くよ、虎」
俺の恋人は可愛い顔をして、時折、漢になる。惚れるわ……。



青の風がそよいでいる。
夏の名残を思わせる目映い日差しに木々のザワザワ揺れる音や折り重なる葉の緑が鮮やかだ。プロムナードの脇には赤や黄色の花が咲いていて、砂を踏んで行く先に蒼い蒼い海が見えた。
「うっわぁ……」
と、声にならない声を上げた艶夜の横顔に満足して、ここぞとばかり手を繋ぐと、いつもは恥ずかしがるか怒り出すヤツが大人しく繋がれているのも愛しくってたまんねぇ……。
「虎、あの小屋は何だろう?」
「水上コテージな。急だったから一棟しか取れなかったけど、今夜はあそこに泊まる」
「ちょっ!水上なんて聞いてない!」
急に振り向いたのは前を歩いていた俊平で、
「日本は地震大国だろ?津波が来て流されたら……」
「海上でなくても天災には抗えねぇだろ……って、お前、心配の仕方が飛躍しすぎ」
「夜中のトイレで寝ぼけて海に落ちる……とか……」
「その時点で目が覚めるだろうな」
しれっと言うと朝也が俊平の耳許へ二言三言ささやいて、俊平をクスクス笑わせる。
「バッカじゃないの?そういうことなら仕方ないね」
何を吹き込まれたんだか、呆れた仕草もどこか日本人離れしている俊平は、やれやれといった調子で両手を広げ、クルリと早足に坂を下って行った。朝也は余裕綽々、俺たちと歩調を合わせる。
「どんな魔法だよ?」
「夜中に目を覚ますなど有り得ないと言っただけです。お二人には30分ばかり星空散歩でも楽しんで戴くことになりますが」
こいつ……。
「30分で足りるのか?」
「余りますかね?」
「テクニシャンだねぇ、ご享受願おうかな?」
「まさか、百戦錬磨の虎さんに俺が何を教えるんです?」
「それ、艶夜の横で言っちゃう?」
あははは、なんてスケベ調子に笑っていると、途中から俯き出した艶夜が無言で一度、ジロリと俺たちを睨み、俊平を追いかけて行った。

「無言は地味にこたえますね」
「だろ?それ解ってて無言なんだ。一番、俺が反省するって解ってんだよ」
「反省してます?」
「いや、慣れたからしねーけどな」
「でしょうね」
朝也は飄々と押し出しのいい体躯で風を切って歩く。
グレーのシックなサーフパンツに黒のラッシュガードはクールなコイツらしいチョイスで、2歳下と言うことを忘れそうに落ち着き払った佇まいが、一緒にいて小気味好い。俊平でなくてもこの男といるのは安心するが、こいつがどんなツラで俊平を抱くのか今夜を覗いてみたい悪趣味な欲に薄ら笑う。
「公開Sexでも構わないけど?」
「ほんと、冗談の境界線の見えない人ですね」
「冗談じゃねーんだけど」
「尚更、始末が悪い」
「あいつさ……」
「はい?」
「俊平。海、苦手か?」
「……正確には水中が、ですかね」
「了解」
もしかしたら、泳げないのかもしれない。運動神経のいいヤツだから、そんなこと考えもしなかったけれど、プライドの高いヤツだ。本人に聞くのはやめておこう。
少し先で艶夜が手を振っていた。昨日、俊平と二人でサーフパンツを新調したと聞いていたが、まるで性格違いの男二人がキャッハウフフもあるまいに、どんなツラして買い物していたのかと軽く想像してみる。
「あの二人、案外、気が合うのな?」
「虎さん、ハンバーガーが生クリーム尽くしだったらどうします?」
「は?何それ、旨そう!」
「そう言うと思った。二人で食べて来たらしいです。俺は聞くだけで胸やけしますが」
「あいつら、女子か!」
普段、俺が誘ってもスイーツなんて食べに行かない艶夜が俊平と行ったと聞いて、軽いジェラシーってやつ感じるんだけど、すっかり機嫌の戻った俊平が艶夜にちょっかい出して体当たりしているのを見たら、どうでもいい気がした。ただ、後で艶夜に店の場所を聞くのと、次は俺を連れて行くのを言い忘れないでおこうと思う。
色白で控えめな艶夜の性格に青から白へのグラデーションが涼やかなサーフパンツは良く似合っていて、供のラッシュガードが普段、選びそうにない派手さなのも凄く良い。自分を良く知っている俊平は流石、洒落っけを損わず、遊び心のある可愛いデザインにシンプルに白のパーカーを合わせていて、それぞれに良い買い物をしたみたいだ。因みに俺は南国系植物の大柄プリントのサーフパンツにウェットスーツタイプの黒のラッシュガードでキメたっつーの。


「「「「おおっーーー」」」」



やばくねーか?
カヌーは二人用程度のカナディアンカヌーを想像していたが、見れば大きなセイルの付いたシングルアウトリガーセーリングカヌーで、俄然、テンションが上がった。これなら二組に分かれなくても皆で乗れるし、この遠浅の海なら少しぐらい沖へ出ても安定しそうだ。朝也を信用しないわけじゃないが、海に関しては船舶免許を持っている俺の方が緊張気味の俊平に気を配ってやれるだろう。
アウトリガーってのは『舷外げんがい浮材』のこと。
転覆防止に船体の横から腕木を張り出させた浮きのことを言う。
オセアニアなどで外洋航海が盛んになるにつれ、高波のうねりにも破損しない構造が求められ、傾いても負荷が掛かり難く風上航走に長けたシングルが造られたという程度の知識なら俺にもある。ヨットだと風上に向かっての旋回をタッキング、風下に向かって向きを変えるのをジャイビングというんだけど……、まぁ、基本的な操縦法は似たようなものだろうし、何とかなるだろう。
水際から舟を押し出す。先に俊平が乗り込むと観察力の優れた艶夜は俊平の怯えを察しているのか、揺れてもすぐに支えてやれる後ろを陣取った。朝也は舟底が完全に岸を離れてから船首へ勢いよく飛び上がったらしく、舟を僅かに傾かせたみたいだ。
「揺らすなよ!」
俊平の慌てた声が併泳していた俺にも聞こえて笑いを噛み殺し、腕木を支えに舟の横から乗り込んだ。
「大丈夫。この程度の揺れで引っくり返らねーから」
「そうだよ。虎は船舶免許を持っているし……って、虎、冷たい!」
「おー、すまん」
艶夜を跨ぐように舟の後方へ縁を蹴ったもんだから、頭から潮水に濡れた艶夜が不満げに俺を振り返る。そのくせ、舵棒チラーを握った俺をあんまり嬉しそうに見るから調子が狂って、照れ臭さに珍しく俺の方が根負けして先に視線を反らせた。朝也が帆柱に巻き付いていたロープを外して寄越し、セイルを調節して、いよいよ風に乗る。
「気持ちいいね」
今日の艶夜は上機嫌で良く笑う。
最初は横を見る余裕もなかった俊平がその声に小さく頷いて、もしかしたら、艶夜はヤツの緊張を解くために喋り捲っているのかと思うくらい、一人で良く喋った。鳥が飛んでいるだの、魚が跳ねただの、潮の香りが濃くなっただの……そのうち、
「虎は釣りも上手くて釣った魚をその場で捌くんだ」とか、
「虎はレスキューダイバーの資格も持っているんだよ」とか、
「ダイブコンピューターって種類も値段もピンキリで、虎のはねー……」
いつの間にダイコンの知識まで得たのか、虎が、虎は、虎の……って俺のことばかり話すのがくすぐったくて、
「もう、いい」
足蹴にして「乱暴だなぁ」と笑われた。艶夜のこんなに眩しい笑顔が見られるなら来て良かったと、海面に照り返る陽光に目を細めながら気分も高揚していく。
朝也は呑気なものだ。初めてにしてはまるで物怖じすることなく、俺の指示通りセイルの紐を取ったり立ち上がって風に吹かれてみたり……、そのたびにハラハラと何事か喚いていた俊平も不思議と朝也が余裕を見せるほど落ち着いていくらしい。
「青が変わっていく……」
と、舟の淵をシッカリ掴んで海面を覗き込んだ俊平が
「虎センパイ、海の中ってどんな感じ?」
そう、大声で聞いてきた。
「入ったことねーの?」
「ううん、……忘れた」
それは、忘れたことにしたい場所って意味なんだろうな……。だとしたら、常々思う『還る場所』という返答は深読み名人の俊平には不適切だろう。
「そうだな……、無を得て独ではない。俺にはそんな場所だ」
「……綺麗なんだろうね」
綺麗なばかりではない、という言葉を呑み込んで「そうだな」と笑う。
その時、俊平の眼に何が映っていたかは判らない。ただ何となく水面を見てはいるが見えていない気がした。別の方向から真っ直ぐな視線を感じて顔を上げると、艶夜が物言いたげにジッと俺を見ている。条件反射で笑みを返したら、一層、真剣な面持ちで口許を引き結んだ。
そうだよ、艶夜……、海は恐ろしく厳しくて、何より俺が『せい』を感じられる場所だ。
遠浅の海は、やがて滔々とうとうと瑠璃を深め、膨らんでいく。
燦燦と注ぐ太陽に燻されるほどに匂い立つ潮風が肌を打つ。どうにも血が騒いで、
「艶夜、舵棒を握ってて。朝也、少し任せていいか?」
と、朝也が頷くのを見届けて海に飛び込んだ。


久しぶりの海だ。
横波に身体をもっていかれ、青に呑まれる心地よさ。日本の海も捨てたもんじゃねーなと素潜りして振り返り、硝子片を一掴み放り投げたような陽光の揺らぎを見上げ目を細めた。
海では決して気を抜かない。けれど、この青は何にも代えがたく魅力的で、足先から手指の先まで全身で生かされていることを実感する。

朝也は一定の所で待つつもりらしい。
目視できる距離にゆらりゆらりと揺蕩う舟底を見て、少しの間、水と戯れ舟に戻った。
「よく息が持ちますね」
と笑いながら、物凄い勢いで引き上げてくれた朝也に、
「空まで飛ばされそうな剛力」
冗談でなく、そのまま飛ばされんじゃねぇかって力強さに笑った。
「まさしく、水を得た魚だね。息も上がらないなんて」
艶夜が感心しきりという顔をするから、ちょっと調子に乗ってみる。
「惚れ直した?」
「直すもないだろう?」
それって、惚れているものを惚れ直すもないってことかと自惚れてみたり……。
置き物みたいに身動ぎせずにいた俊平も海に腕を突き出して波飛沫を楽しむ余裕が出てきたらしい。
「ねぇ、孤独じゃなかった?」
何を言い出すかと思えば、そんなことを聞いてくる。
さっきの『独ではない』の意味をコイツなりに考えていたのかもしれない。
「孤独じゃねーよ。こう……解き放たれる感ってのがあって、頭ん中、浄化される清しさがあって、ひとりじゃねーなって何か包まれる感じがするわけよ。わかる?」
「あれか、初詣みたいなもんだね」
「は?」
「何となくスッキリした気分にならない?」
「まぁ……、それでいっか」
「いいんだ?」
俊平は「あははは」と、ようやく声をあげて笑って、海水に手を伸ばし遊びだした。
「ごめん、本当は何となく理解してる。きっと、俺にとってのカンバスがセンパイの海なんだね?そこでは何にも囚われないで自由なんだ」
「お前、少し調子出て来たか?」
「うん。って、あれ?それ、どういう意味?」
「いや?」
弱味を見せたがらないクソガキの顔色が良くなっているのを見て俺は舵取りに戻り、潮騒に耳を傾けた。遠く岸の方角は白い砂浜からずうっと視線を巡らせラグーンの描く弧が美しく、反対側は外海へ向けて青のグラデーションが濃くなるさまに気持ちが和らぐ。
「沖にひさごばなといへるもののたちけるを見て……」
不意に聞こえた艶夜の唄うように澄んだ声が何を言ったのかが解らない。何だ?と訊くと、
瓠花ひさごばな瓢箪ひょうたんの花のことでね、波の白く立つさまを言うんだよ」
と、波頭の白々と光るのを指差して、その博識ぶりで皆を唸らせた。
少し風が出て来たか、ゴウと帆を叩いた音に風向きが変わったのを察して、慣れない俊平たちが船酔いしないうちに岸へ戻ろうと朝也見ると、ヤツも同じことを思ったらしい。
セイルを広げて風を捕らえ、舟はスピードアップして波を揺らし大きく旋回した。

 

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