俺は暫く虎を視界から消し、庭木の隙間から表の通りへ視線を移した。
 日が傾きかけているのだろう。さっきよりも手暗がりになって、木々を縫うようにテーブルへ届く陽光が柔らいでいく。その移ろいと共に俺のモヤモヤした気分も少しずつ落ち着いてきた。それに、ケーキの甘すぎない優しい味が尖った心を宥めてくれる。
 黙ってはいたものの、ずっと視界の端に虎の視線を感じていた。ケーキを口へ運びながら、時折フォークを銜えっ放しで俺の様子を窺っている。まるで、親に叱られた子供が親の機嫌が戻るのを待っているような情けない顔つきで……。チラッと見遣ると、目と目が合って、

「俺、調子に乗ったか?」

 虎は、そうポツンと頼りなげに言った。いつもなら、喧嘩になれば譲らずに逆ギレするか部屋を飛び出す気の荒い男だが、根は素直なヤツだ。一旦、自分の非を認めると、ちゃんと反省の色を見せる。虎を凝視みつめてフッと笑み掛けると、思いもかけないことを言い出した。

「お前が悪いんだ。『誘う相手はごまんといただろうに』っての、傷ついたんだからな。ごまんといたって、しょーがねぇんだよ。誘いたいヤツは一人しかいねぇんだから」
「え?」
「だーかーらー!俺は艶夜と来たかったんだって。ウチの客が口々に此処の評判を吹き込んでくんの。そんなに旨い旨い言われたら、お前にも食わせたいじゃん?テイクアウトじゃ意味ねぇんだよ。この店、内装もセンスいいって聞いてて、それ込みのこの味なワケ。そういうのさ、一緒に……とか思うだろ?好きなヤツとさ」
「ぁ……」

 聞いている内に恥ずかしくなってきた。

「何か言えよ」
「こ、声が……大きい」
「そうじゃねぇだろ?ふっざけんなよ、こっちが……」

 虎、顔が真っ赤だ。
 男二人、向かい合わせで顔を赤らめ、テーブルには食べかけの、花畑のように華やかな誰もが焦がれる甘くて優しいケーキ。客観視するなと自分に言い聞かせればするほど、この状況を意識して何も言えなくなる。だけど、何だ?このキモチ……。凄く、凄く嬉しいなんて俺、ずっと、この言葉を待っていた……?

「ありがとう……で、良いか?」

 自分でもギョッとするほど上擦った声で、何だか妙な言い方をしてしまったが、

「良いか?って何だよ」

 虎はやっぱりそこを突いて、笑いたそうな顔をした。

「そう、だな。余分だった。俺は虎が女性を誘うと面倒なんて言うから、てっきり、手近な俺で間に合わせたんだと思って、そういうのちょっと……」
「うわ、それがマジだったら、俺、サイテーじゃん」
「うん。サイテーなヤツだと思って……ぁ、」

 言ってしまってから、自分の不十分な言い方の方が余程サイテーなんじゃないかと息を呑み、けれど虎は、一瞬ポカンと俺を見て笑い出した。

「どっちがサイテーだよ。あははは!俺、どんだけヒドイヤツなのよ?」
「だって……」
「ま、女が面倒ってのは半分、本音だけど。だってよ、考えてみ?女の前で、どんなツラしてケーキ食うんだよ。連れてけ連れてけで挙句に可愛いー♪とか言われて、男に可愛いもクソも有るか!」
「それ、経験談だったりする?」
「ち、ちげーよ!そうなりかねないって話をだな……」
「ふぅん、かわい♪」
「テメー、ぶっ殺す!」

 虎の背中向こうで俺たちの遣り取りを聞いていたんだろう。テーブルを片付けていたミミちゃんが俺に向かって、こっそり、ピースと笑み掛けてきて何だか照れた。どうせ、後でセイさんとのお喋りの恰好のネタにされるんだろうな……。出入口の方から「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」と、セイさんの魅惑の低音ボイスが聞こえる。その声に重低音のキャアアアが二重のハモりで色めき立って、見覚えのある女装家二人連れがBarタイム一番乗りで賑やかに案内されていくのが見えた。セイさんが気を利かせて、俺たちのいる席とは反対側の遠い席を用意してくれたらしい。ミミちゃんも弾かれたようにセイさんの元へ飛んでいく。まずい。もう、そんな時間か……。

「何だ、あれ?パティシエのオネーサンは、オカマウケも良いんだな」

 虎は呑気に笑っているが、俺は気が気でない。隠すことはないと思っても、思う傍から隠しておきたい気持ちがムクムクと湧き起こって来る。

「虎、そろそろ出よう。混み出しそうだ」
「何、急いでんだ?まだ、満席でもないのに」
「あっという間にそうなる」
「お前、変だぞ?誰か都合の悪い客でも見つけたか?」
「そんなんじゃない!判った。お前はゆっくりしていけ。俺は帰る」
「何で、そーなるよ?わかったわかった。常連の言うことじゃ仕方ないな」
「嫌味か?」
「別に。夜はBarになるのか、それもいいな。お前は今夜は飲まないんだろ?日を改めて、次は夜に来ようぜ」

 それには、俺は返答しなかった。来れるわけがない。
 虎を先に出して会計をしに行くと、さっきの女装家たちに遠くから手を振られて冷や汗をかいた。目立たないように御座なりの会釈をしてミミちゃんに明細書を渡すと、度々、女子大生のアルバイトと間違われる天使の微笑みで、

「さっき、お名刺とクーポン、戴いちゃいました」

 と、虎の名刺と彼が勤める美容室の割引券を見せられた。その横を擦り抜けながらセイさんまで、

「私もだ。中々フットワークの良いカレシだな。いや、仕事熱心と言うべきか?」

 なんて笑いを噛み殺している。あのバカ!いつの間に俺のテリトリーで、しかも、出来ればあまり関わって欲しくないこの店で営業なんかしやがって!

「すみません。ご迷惑をおかけして」
「迷惑なんて……。また来てください。お待ちしております」

 セイさんに折り目正しく頭を下げられると、どうにも恐縮する。ハイと頷いて虎の待つ表通りへ出た途端、息をついた。安らぎの場所で今日は随分と緊張した。

 


 虎はパチンコ屋の壁にもたれて空を仰いでいた。

「何を見ている?」
「んー?いい休日だったなと思ってさ」
「まだ今日は、えっーと、六時間くらい残ってるけど?」
「……☆ やべぇ、今のちょっとキた」
「は?」
「付き合い始めの女子高生みてー。なぁ、もう一回、今度はもっと可愛く言ってみろよ」
「やっぱ、お前サイテー」

 虎を放って歩き出すと、ケラケラ笑いながらも、そっちじゃないと俺の肩を抱き寄せる。そして普段、俺が使わない道を入って行こうとする。

「虎、家は向こうだろ?まだ、寄り道混むんだ。いいから、ついて来な」
「えらそーに。ただ、居酒屋の常連っていうだけじゃないか」
「そ、常連。だって、常連様のお達しには従うっつーのが『今日だけルール』だろ?」
「何だよ、それ?」

 さっき『Comme je suis』で俺が帰りを急がせたことを根に持っているのか、苦笑する。
 それにしても角を曲がって、また曲がって、わざわざ迷路に迷い込むような道ばかり選んで、虎は何を考えているのだろう?そんなことを思って虎の横顔を窺うと、

「あと六時間か……。何が出来るかな?」

 充実した休日のラストスパートに何をするか、本気で考えているようだ。こういう些細なことすら真剣に楽しんでしまうところが虎は良い。

「まずは旨い飯だな。ウチの実家から酒が届いてたろ?あれ、開けようぜ。腕を揮って相性のいい和食を食わせてやるからよ」
「いや、飲まない」
「あれ、やっぱり?」

 振り出しに戻った。虎は世間話の延長で俺をベッドに誘っているのも同然だ。酔うとキス魔に変貌して、やたらと積極的になるらしい俺の悪癖を期待して、すぐに酔わせたがる。和歌山の地酒には正直、心が揺れたが、そのテには乗らないと虎を睨みつけた。

「抱きてぇ」

 虎の熱っぽい囁きに心がグラグラする。

「ダメ」

 俺は今夜は飲まないんだ。

「えー」
「『え』じゃない」
「ケチ」

 ケチって、ガキかコイツは!
 夕間暮れの道を他愛もない遣り取りを交わしながら家路につく。気のせいでなく虎は人けのない道を探し探し、この遠回りの散歩を楽しんでいるようだ。
 今年の夏は長かった。アスファルトは未だ昼間の暑さを残していたが、頬を撫でる風は冷たく、秋の気配を思わせる。

「もう、秋だね」

 虎も同じことを思っていたのか、夏が好きなヤツだから、少し寂しそうだ。
 そっと虎の手に手を触れると、握り返してきたその掌は、みるみる体温を上昇させていく。コイツ、何を緊張してんだ?俺にまで伝染うつるじゃないか。
 いくつ曲がり角を折れたか、途中まで数えていて解らなくなった。次に、虎に引き込まれて入った路地は並んで歩くことも侭ならない狭さで、とうとう誰も居ない。

「……していい?」

 何を?と訊く間もなく、死角になりそうな電柱の陰へ追い込まれた。
 逃げ場を作らせない鮮やかさで俺を片腕に抱きとめた虎が、確かめるような触れるだけのキスから噛み付くように激しいキスへ転じる。男同士とか路上キスだとか、そんな背徳感すらブッ飛んでしまうほど虎のキスは蠱惑的で、酒に狂わされる以上に俺を陶然とさせた。足元の覚束ないのを笑われた気がする。その眼は獲物を仕留めた獣のようにギラギラと精力に溢れていて魅力的だ。

「今夜、お前を抱く」
「今夜も、だ。いいよ。抱けよ」

 蒼の時間が俺の本性を暴き出す。
 身体の疼きを鎮めようもなく虎の肩に手を触れると、俺は少し伸び上がるように、今度は自分から唇を重ねた。調子のいい虎が笑って言う。

「じゃ、近道で帰るか」

 と……。


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「何、お前、この店、来たことあんの?」
「あ、いや……まぁ」

 虎の声が普段より、ずっと低い。これはもう……頷くしかない。

「へぇ?俺、何度も誘ったよな?誰かを誘ってフラれた俺の敗率、お前が一人で上げてくれてんだけど、どういうワケ?面白くねぇわ」

 面白くないのは俺の方だ。何だよ、女は面倒で?一人では入りにくいから手近なところで俺を誘ったって?ハッ、嘘でもいいから俺と来たかったって言えよ。……いや、言うわけないか。そういう御機嫌取りみたいなの、わざわざ男にするようなヤツじゃないもんな。
 ミミちゃんが困った顔をしている。何か声をかけてあげなくちゃ……。

「えっと、注文していいですか?俺はミルフィーユとダージリン。虎、お前は?」
「あぁ……。じゃ、季節のフルーツタルトとブレンドコーヒー」
「相変わらず、期間限定に弱いな、虎は」
「うるせーよ」

 ミミちゃんは笑いたいのを堪えるように奥歯を噛み締めているのだろう、僅かに口角を上げてペコッと頭を下げると、まだ何か用事が有りそうなソワソワした表情で俺を見、去って行った。そして一度振り返って、また背を向けた。……何だ?

「ちょっと、待ってて」

 と、言いおいて席を立つと、虎は「は?」と不機嫌丸出しの声を上げたが、構わず俺はカウンターの向こう側にいたセイさんにミミちゃんを呼んで貰うよう頼んだ。すると、セイさんはニヤリと意味深に笑う。

「カレシ?いい身体してるよね」
「やめて下さいよ。こんなはずじゃなかったんだけど、アイツが……」
「隠しておきたかったんだ?」
「……すみません」
「どうして謝る?ま、折角来たのだし、ゆっくりしてってよ」
「えっーと、日暮れまでには……」
「あははは」

 日が暮れると知り合いに会う確率が高くなる。冗談じゃない、さっさと店を出なくちゃ。
 そんな俺の心中はセイさんには隠しようが無く、笑われてしまった。

「さっきミミがね、キミの泡食った顔を初めて見たって。私も見たかったな」
「面白がらないでくださいよ」
「あははは、ごめんごめん。あぁ、ミミが来た」

 散々揶揄われて、顔を熱くしていたところへミミちゃんが奥から出てきた。

「お待たせしました、何ですか?」
「いや、それ、こっちの台詞なんですけど。さっき、何か言いたそうでしたよね?」
「あ、いえ。お友達以上の関係かなぁ?と思って……。す、すみませんっ」

 ガクッときた。そうか。単なる好奇心だったのか。

「えっーと、たぶん、そうなんだと思います」
「たぶん?」

 どういう意味?という顔をしたミミちゃんをセイさんが咳払い一つで制した。

「無粋だねぇ、ミミ。ほら、仕事に戻って」
「はい!」

 ミミちゃんは学生時代からセイさんに憧れていて、ずっと追い続けてきたと聞いたことが有る。
 初めから両想いだったのか、それともミミちゃんの粘り勝ちだったのか、それこそ無粋と言うものかと自嘲気味の薄笑いが零れた。

「あ、艶夜さん。これ、お借りしていた本、凄く面白かったです。お返しするのが遅くなってごめんなさい。有難うございました」

 ミミちゃんから受け取ったのは、俺が貸していた推理小説。前に、この店で読み耽っていたところをミミちゃんが興味を抱いて貸してあげた。

「面白かったなら良かったです」
「良かったら、また夜にみえた時に感想を語り合いませんか?」
「いいですね、是非」

 女性と話すのは不得手だが、この二人とは長年の付き合いで多少、気心が知れている。良識のある大人という点でも、俺の中で女性に対して億劫に思う度合が他の女性たちとは違うみたいだ。ミミちゃんは、次は自分のお薦めの本を紹介させてほしいと微笑んで、俺に少し顔を寄せると小声で言った。

「あの……さっきは余計な挨拶をしてしまったみたいで、ごめんなさい。カレシさん、大丈夫ですか?怒ってたみたい……」
「気にしないでください。アレは、ああいう顔なので。ただ『カレシさん』は……」
「あ、はい!気をつけます。ごめんなさいね。それじゃ……」

 ミミちゃんは頬を紅潮させてパタパタと厨房の奥へ入って行った。
 可愛いな、やっぱり。俺が女で、あんなふうに素直で可愛かったら、虎は『お前と来たくて誘ったんだ』と、言ってくれるのだろうか?また、そんなことを考えて、俺はバカかと内心、毒づいた。席に戻ると、テーブルに片肘ついて不足そうに俺を見上げる虎と視線がぶつかった。

「仲良さそうじゃん。あれ、何?」
「何って?知り合いに挨拶をしただけだよ」
「ちっ、開き直りやがって。何で隠してたんだよ?」
「まだ、言ってるの?別に言いそびれていただけだし、しつこいと帰るよ」

 虎は未だ子供みたいに拗ねている。




 ケーキを運んできてくれたのはセイさんだった。
 厨房に余裕が出来ると、彼女もフロアに出て来ることがある。カップルで訪れた男性客よりも女性客の眼が一斉に輝く光景は見ていて何だか複雑だ。立ち居振る舞いの品の良さ、手際の良い仕事ぶり、軽妙洒脱な話術、何一つ取っても完璧で「お待たせしました」と言う声は女性にしては低く落ち着いた印象だが、優雅で媚びたところがなく凛としている。この声がミミちゃんを呼ぶ時だけ、蕩けるように甘美に響くのを俺は何度か聞いたことがあった。

「うっ……わ」

 目の前に出された皿を見て、虎が声にならない声を上げる。心なしか緊張して行儀よく手を前に揃え、身を固くしたまま前傾姿勢でいるのが可笑しい。笑いたくなるのを喉奥で堪えると、物凄い眼で睨まれた。何だコイツ、可愛いじゃないか。
 セイさんはケーキの紹介をしながら手際よくテーブルを花畑に変えていく。その間にもちゃっかり、虎の容姿や性格を見抜いて行こうとするんだから抜け目がない。

「旨そうだね」

 虎に話しかけながらチラッとセイさんを見ると、おどけた調子で明後日の方向を見て誤魔化した。本当に、この人はもう……。

「では、ごゆっくり」

 会釈して去るほんの一瞬に彼女が俺に微笑み掛けた気がした。
 ケーキにはアイスクリームと果実が添えられていて、キャラメルソースで飾り付けがされている。アプリコットの甘い香りが虎の方から漂ってきて、彼は皿に見蕩れていた割には迷うことなく、サクッとフォークをケーキの真ん中に突き刺した。

「すげぇな、女が群れるの分かる気がする。これはトキめくわ」

 通路を挟んで向こう側の席に座っていた女性二人が同時にこちらを見て、何事が笑いさざめいている。虎はケーキにトキめいているのだが、セイさんにトキめく女性客の多いこの店では誤解を招きそうで慌てて取り繕った。

「男がケーキにトキめくもないだろ?確かに女性パティシエの繊細さを感じるけどね」
「旨!やべぇ、ハマる……」

 俺としては、あまりハマって欲しくないんだけど……。虎は女性たちの視線に全く気付いていない。そもそも気付いたところで、何とも思わないような男だ。

「なぁ、さっきの背の高いオネーサンがパティシエ?俺に興味あんのかな?結構、見られてた」

 は?隣の視線に気付かないのに、セイさんの頭上からのチェックには気付いてたって?

「お前、自意識過剰なんじゃないの?」
「んなこたねーって。頭のテッペンから足の先までチェックしてったし。俺、そーゆーの判んの。ま、年上オッケーだし、こんな旨いケーキ作れる人なら悪くねーなって思うけど」
「……」
「それとも、あれかなぁ?案外、お前に気が有って恋敵を吟味して行ったとか?」
「その発想は無いだろ。どうして、彼女が虎を見て恋敵と思うんだよ?」

 言ってすぐに後悔した。虎の勘違いも甚だしいが、必死に取り繕うとしている自分が酷く滑稽だ。下手なことは言わずに聞き流せば良かった。

「どうしてって俺が、お前に食らった疎外感を隠していないから。で、あーゆー長身のクールビューティーは案外、中身が乙女だったりするから。パリッと男風情でキメていたって内心じゃフリフリの可愛い服とか憧れているワケ。だから、いかにもバカぶってる俺みたいなのより、お前みたいな物静かで知的なタイプを好むんだよ」

 疎外感?それって嫉妬したと言いたいのだろうか……?
 それよりも微妙に当たっているのが怖い。セイさんは颯爽とまるで紳士のように振舞いながら、実は花を好み、可愛い雑貨に喜び、ミミちゃんと雑誌を見ながらキャーキャーと楽しげにガールズトークをしているようなところがある。そんな女性的な彼女だからこそ、この繊細なスイーツであり、行き届いた客へのもてなしなのだと俺は思っている。

「ふぅん?虎のバカは『ぶって』ただけなのか、へぇ……」

 どうでも良いことのように受け流すと、虎はチッと舌を打って、こう言った。

「お前は、どうなんだよ?ターゲットはどっち?オネーサンとも親しげだったし、あのフワフワロングヘアのカワイコちゃんとも、いい感じだったしさ」

 それ、本気で言ってるのか?無神経にも程がある。俺はコイツの何だ?コイツは俺の何なんだ?また、同じ問答を繰り返す。

「そんなふうに考えたことはない。店員と客、それだけだ。ミミさんには貸した本を返して貰っただけ。彼女の方が年上だ。言葉に気を付けろ」
「げ。あのフワフワ、年上?ミミさんとか呼んじゃうんだ。随分、親しいんだな」
「怒るぞ」
「もう、怒ってんじゃん。折角、旨いもん食ってんだからさ、もっと楽しそうに食えよ」

 誰が、こんな顔にさせるんだ!


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 繁華街の喧噪を逃れた先に高級料理店の並ぶエリアがある。
 その勿体ぶったエントランスをいくつか数えて裏通りへ折れると、雰囲気は一変、リーズナブルな歓楽街と言おうか、小さな定食屋やビジネスホテル、海外からの観光客に利用の多い宿泊施設などが密集する。古くは同性愛者の集まる町で、ゲイバーなども多かったらしい。人目を忍んだセクシュアルマイノリティーたちが、ごくありふれた雑踏にコミュニティーを築き、息づいてきたのだろうと誰かが言っていた。赤青白の三色の縞模様がクルクル回るサインポールが、今も残るシックな理髪店。少し先にはポッカリと緑に囲まれた神社や寺があって、俺、四室艶夜は時折、砂利を踏みしめ静かな境内を歩く。そんな空気に馴染んで、もう七年になる。
 その一角に隠れ家のように通い続けるカフェ&バー『Comme je suisコム・ジュ・スイ』があり、時折、一人で寛ぐ時間を大切にしてきた。店名は『自分らしく』という意味らしい。最寄り駅からは遠いし、そう便利な立地とも思えないけれど人気がある。昼はバランスの良い美味しいランチで会社員や専門学校生らが集い、ティータイムには評判のスイーツを求めて遠方からも客足が絶えることはない。店内は木目の美しい床に温もりのある北欧家具のテーブルと椅子が絶妙な間隔で配置されている。甘すぎない色調のクロスや小さな硝子の小瓶に差した草花、シンプルで使い勝手の良い食器、ソファ席の傍にはブックシェルフがあり、置かれている本や雑誌までもが趣味の良さを感じさせる。男装の麗人と噂されるパティシエ兼バーテンダーの店長セイさんと、フロア担当のミミちゃんの愛らしくて気持ちのいい接客が更なる評判を得て、客は増える一方だ。そして、夜ともなれば店は表情を変え、一般客に交じってゲイや女装家など様々な性癖を持つ人々が集うコミュニティーの場となり、実のところセイさんとミミちゃんが、いわゆる、そういう関係であることも俺は知っている。
 何故って?……まぁ、そういうコトだよ。



「艶夜、ちょっと寄り道して行かね?」

 バイク部品などを扱う店の紙袋を提げた虎が、窺い口調の割には既に決定事項のように大通りを斜めに横断していく。珍しく休日が重なって昼まで虎の狭いベッドでダラダラし、遅めの昼食をと繁華街に出て来た。出て来たなんて大層な話でもない。俺たちの住む家は、ここから徒歩圏内の小さな町にひっそり建っている。ハンドメイド雑貨の店や古着屋、ギャラリーやカフェ、知る人ぞ知るフレンチの店などがあって近頃、人気のエリアだ。方々に伸びる細い路地を入っていくと、そこだけポツンと切り取られたような小さな公園や古い民家があって味のある町だ。高校を卒業して美容師の専門学校へ進んだ虎が先に就職し、数年後、どういう経緯か年代物の一軒家を手に入れ、古いアパートを引っ越した。そこへ大学を卒業したあと俺も暮らすようになって、もう五年になる。

「虎。寄り道って、そっちは飲み屋街だろ。俺は今日は飲まないよ」
「やらしーなぁ、誘い文句のパラドックスか?お前、酒が入るとチョロイもんな。飲まないと言えば俺が余計、飲みたがると思って言ってんだろ。ホントは今夜もオレを御所望だったりする?」

 カッと熱くなって饒舌な虎の尻を叩いた。
 いやらしいのは、どっちだ!酔うと大胆になるらしい俺の酒癖を揶揄からかって、虎は『今夜も抱かれたいのか?』と笑ったんだ。

「そういう意味じゃない。まだ、四時過ぎだし、飲む気分じゃないと言ったんだ」

 そうは言ったが本心は少し違って、俺は確かに今夜を懸念して守りに入ったのだ。
 すると虎は、まるで俺の本心を見透かすように笑ってこう言った。

「わかってるって。ゆうべは朝までヤりまくったし、俺ももうムリ。そうじゃなくてさ、この先の店、ウチの山崎いわくこの時間が穴なんだって」
「穴?」
「お前が言うと何か卑猥だな」

 迷わず二度目の尻叩きを食らわせた。
 山崎さんは虎の勤めるヘアサロンの後輩スタイリストだ。職業柄か性格か流行りものに敏く、新しいもの好きの虎とは気が合うらしい。虎も情報通で、新聞はもちろん女性誌や情報誌にも広く目を通すし、常にアンテナを張っている。

「艶夜、そこを左。何度か前を通っているけど、いつもスゲェ列を作ってて……お?」

 急に速足になった虎を追って角を曲がり大通りへ出ると、見覚えのある店が見えた。
 『Comme je suis』だ。しまった。こんなルートが有るなんて知らなかった。バイク乗りの虎は方向感覚が優れていて、裏道にも精通しているんだ。

「今なら、窓際の席を御用意できますよ」

 と、客を案内をしていた店員に声を掛けられ、引き返せない雰囲気になってしまった。ミミちゃんだ……。俺に気付くと「あ!」と花が開くような笑顔で会釈をしてくれたけれど、俺は思わず伏目になった。虎は、それには気付かなかったようだ。この、人目も何も気にしない無頓着な男が珍しく店内を覗きながら、

「やっぱ、男の客って少ねぇの?出来れば窓際じゃない方が良いんだけど」

 なんて、ミミちゃんに尋いている。俺はそれを聞いて咄嗟に、

「いや、窓側で!」

 と、早口に伝えていた。奥へ入れられる方が周りを女性に囲まれてゾッとする。痛い眼に晒されながら、男ふたり顔を突き合わせてケーキもないだろう?ミミちゃんは、そんな俺の内心など御見通しとばかり上目遣いでクスッと笑った。
 席に案内されて虎は納得したらしい。窓側の席は庭木が死角になって、外から見られることが無いのを俺は知っていた。虎は特に変に思うでもなく、

「お前、よく見てるよな」

 なんて、テーブルにつくなりメニューを広げている。

「この店、入ってみたかったんだ。ウチの客にもファンが多くて、特にパティシエの手作りケーキが旨くてリピーター続出らしいぜ。やっぱ、流行りは押さえときたいし?」

 それ、前にも聞いたよと内心、呟く。
 虎が前々から来たがっていたのは知っていた。知っていたも何も何度も誘われて、そのたびにはぐらかしてきたんだ。虎とは恋人関係?……なのだと思う。けれど俺は自分がゲイだと未だカミングアウトできないでいるし、隠しておきたかったんだ、ここの常連だってこと……。

「そんなに来たかったなら、誘う相手はごまんといただろうに……」

 ウッカリ声に出してしまった俺に、虎はメニューを寄越しながら苦笑わらった。

「面倒だろ?」
「何が?」
「女、誘うと、私も私もってなるのメンドーだろ?」

 ふぅん?恋人としては何て失格な答えなんだ。俺はコイツの何だ?
 そんなことを思って、思った自分に嫌気がさした。誘おうと思えば幾らでも相手はいる。わざわざ男の俺とツルまなくてもノンケの虎は女の子とフツーにデートを楽しめるはずなんだ。現に俺と喧嘩にでもなれば、不貞腐れて平気で女性の元へ慰めて貰いに行くようなヤツだ。大体、聞いたか今のデリカシーの欠片もない言葉。俺を好きだ好きだと抱くくせに、引く手あまたのモテっぷりが面倒だと?世の男の敵、ゲイの敵だな、お前は……。
 そんな頭の中のモヤモヤを一気に丸めて鉛玉のように俺の胸深くへ沈めたのは、水の入ったグラスを運んできたミミちゃんの一言だった。

「お昼間にみえるの珍しいですね。今日はお友達と御一緒ですか?」

 声も出ない俺を虎が訝し気に見ている。
 背中向こうから近づいてくるミミちゃんの気配に、まるで気付かなかった。


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ニューヨークから7年ぶりに帰国して、3ヶ月。
俺としては今も恋人……の家に転がり込んで共に暮らして、3ヶ月。
高校生の頃には知らなかった朝也の色んな顔を知って、最初の緊張はどこへ行ったか、何だかんだいい感じに上手くやっている。そんな、梅雨も間近の欠伸ばかりしていた休日の昼下がり、図書館へ行くという朝也にくっついてきた。
広大な敷地に立つクラシカルな意匠の洋館は長い歴史の面影を今に残して、優雅な佇まいをしている。国内でも指折りの蔵書数、とりわけ専門書が充実していて、贅沢なスペースの取り方でテーブルが配されているのも長居をしてしまう要因だった。

「朝也と来るのは学生のとき以来だね」
「そうだな」

他には誰と?とは聞いてこない。恋人を束縛しない出来たカレシと、少しくらい干渉されたい俺。心の中で『ひとりで来るんだけど』と返答し、舌を打った。
温かみのある照明が照らす室内に人けは疎らだ。
カビ臭いと言ってしまうには情緒がない湿り気と、埃っぽい古い紙の甘やかな香りが鼻先をくすぐる。

「このバニラの匂いが落ち着くんだよね」
「虎さんが絶対、トイレ行くやつな」
「あぁ、学校の図書室?あの人、30分もたなかったよね」

二つ上の虎先輩とは今も仲が良いけれど、何かと笑い話に事欠かない。しょうもない思い出話に二人して笑いだし、高い天井に声が響いたのを慌てて殺した。

「揮発性有機化合物、バニリンだったか」
「何?」
「この臭い。本がもっている化学物質が光や湿気に触れるこ……」
「あー、そういうのいいから。朝也は今、俺のノスタルジックな感傷に水を差したんだからな?」
「はいはい」

いい加減な相槌で俺を御座なりにした朝也は、もう気持ちが建築関係の書に99.6%向いているに違いない。迷いもなく奥の書架へ最短ルートを行こうとして、階段の下で足をとめた。

「俊平は、どうせ美術書だろ?」
「どうせって何だよ。クリムトとモディリアーニの区別もつかないくせに」
「それ、高校の時の話だろ?」
「……ぇ、」
「いや、今も区別つかねぇかも」

同時代に生きたクリムトとモディリアーニは俺の目には全く作風も違うし、どう混同するのかも判らないけれど、どちらも女性の裸体を多くテーマとして肖像を描いている。苦笑いの朝也は責められないかもしれない。それよりも、朝也がそんな思い出の欠片をまだ持っていてくれたことに、俺は驚きつつも浮き立った。

「……で、俺が好きなのは?」
「クリムト」
「正解」

朝也の記憶力の良さは俺を他愛もなくゴキゲンにする。



朝也と別れて重厚な木調の大階段を2階へ上がると、ひっそりした美術書のコーナーは雨後の香りがした。色褪せた背表紙を見上げて、部屋の隅に置かれていた脚立を拝借する。
グスタフ・クリムトの画集だ。
テーブル席より脚立の上の方が照明に近かったから、誰もいないのをいいことに俺はそこで画集を開いた。大して見る者もいないのだろう。ページを捲るたびに陰気なカビの臭いが漂って、討ち取った男の生首を恍惚と愛撫する女に再会する。……『ユディトI』だ。

「やぁ、久しぶりだね……」

俺は画家だけど肖像画は得意としない。けれど、子供の頃からこの絵に惹かれていた。
胸をはだけて昏い金の衣装に乳房を透かし、半閉じの目からは誇らしさが、半開きの口許からは歓喜が窺える。その官能性は『男性原理への反発』とも『女性原理の勝利のシンボル』とも評されているが、もちろん、10歳そこらの子供が絵の背景を解っていた訳ではない。ただ、この絵のエロティシズムと美に内包される狂気を幼心に享受していたか……厳格で融通の利かない家に育って、後々、反骨心のようなものを揺さぶられることはあった。
朝也は俺がユディトと会うのを快く思わなかったと思う。
絵の好き嫌いではなく、俺が彼女を見る時の精神状態が追い詰められていてヤバかったからだ。大抵、家で一悶着起こして、登校するなり図書室へ行き、荒んだ目で眺めている。それを見ていられないと朝也が追うようになって、彼といると俺の心は平穏だったから次第に彼女とは疎遠になった。今では悪くない思い出だ。

「君の前で朝也が俺にキスしたの憶えてる?」

恋とか愛とか、そんな甘いものじゃなくて、きっと、同情……。
原因なんてもう忘れたけれど、その日も俺は怒り狂っていて、たぶん、悔しくて泣いた。歯がカチカチ鳴りっ放しで、縋ったのは俺。朝也はただ黙って俺を抱きしめて、もう震えないように口を塞いでくれた。俺は、とっくに朝也のことが好きだったし、今の俺なら秒で蹴り飛ばしているしつこさで彼に付きまとって……、けれど今にして思えば、無口でも朝也が俺を無視したことはなかった。
朝也から唇を重ねてきたことにびっくりして、手に持っていた画集を床に落としちゃって、
『THE KISS』のページが開いたの、二人で気まずい顔してさ。
男にキスしたのなんて初めてだったろうに、先に視線を外したのは俺の方だった……。

 


トットゥルリーと鳥の声がする。
明かり取りの窓の向こうに空の青。こんな湿っぽい部屋で15の夏に浸っているなんて、我ながらキモチワルイ……。
「俊平?」
と、朝也が出入口から覗き込んで、俺はものすごく待っていたのかも。
ショップの外に繋がれた飼い犬が主人を見つけて尻尾を振るみたいに、パッと視界が明るんで、緩んだ頬を「おう」とか言って引きしめた。

「用事、終わったの?」
「待たせた」

手でゴメンをつくる朝也の今日の収穫は分厚い本2冊だったようだ。
脚立の上から見る朝也は俺の見慣れない小さな朝也で、旋毛に寝癖を見つけたのを触ろうとすると「よせ」と苦笑いする。
「頭、撫でていい?」と図に乗って、
「よくねーよ」と手を遮られて、
脚立を蹴倒すぞと言われて、諦めた。
休日スタイルのくだけた朝也は仕事モードの整いすぎた彼より色気がある。短くした栗色の髪は長めの前髪を手櫛に後ろへ遣り、斜に射す陽に眇める眼はヘイゼル。素肌に白いシャツをゆったり着こなして、その皺の流れからも彼の骨格の良さが窺えるのが憎らしい。こんな男と暮らしているなんて、今に心臓が一つしかないことを足りなく思うだろう。

「何を見ていた?」
骨の髄まで溶かされそうな声の低さも好もしい。
「クリムト」

膝の上の『THE KISS』は朝也の視線の先にある。
不意に真顔になった朝也はクリムトの絵を、ユディトを今も気にするなんてことないと思うけれど、黙りこんでしまった。
……気まずい……。
あの頃を蒸し返す気はないから、フッーと細く息を吐いて目を逸らし、俺の中ではとっくに懐かしい思い出だと言葉を探す。
「俊平」
ぼそりと俺を呼ぶ声に朝也の感情が見つからない。
「俊平」
さっきよりもハッキリした口調で呼ばれて、俺は掴まれた腕を咄嗟に引こうとした。
『また、取りあげられる』と身構える気持ちが走って、そのあとを、絵を見ることも描くことも父に咎められた幼少期が鬱々と身体を冷やしていく……。
一瞬の怯えも見逃さない朝也は僅かに表情を曇らせて、俺を迎え入れるように腕を広げた。袖を掴み、もう一方の手を反対側の肩に触れようとする。まるで、木登りをして降りられなくなった猫でも助けるようだ。

「降りるから、そこを退いて」

と、本を閉じても、朝也は退こうとしなかった。
空気が動いて、唾を呑みこむ音が耳の奥をザワリと掻きまぜる。


俺たちはキスをした。


重ねた唇が震えているのは俺の所為。
傾いだ身体は心許なくて、絡めた指と指をぎゅっと結んだ手は、たしかな意図をもって俺の心に安寧を注ぐ。朝也、朝也と心裡で名を呼んで、頭の中は朝也でいっぱいで、ミシッと揺れた足場の覚束なさを熱い手に支えられ、もっと熱い息を求めて俺は朝也の愛を貪った。どんな辞書で調べても『愛』ってやつは不確かで、けれど、分け合うこの熱は信じられるから、俺は爪を立てて、その肩に縋った……。

「どうした?」
と、俺を見上げる朝也が優しく笑う。
「お前、必死すぎ。泣きそうな顔をしてどうした」
今度は子供をあやすみたいに俺の膝を擦った。
「ううん、綺麗な顔してキスするんだなーと思って」
「眼ぇ瞑れよ」
「やだよ、もったいない。朝也を見おろすなんて、そうそうないんだから」
「降りろ」
「降りない」

降りろ、降りないを何度か繰り返して、ふたりを包む風がまあるくそよいだから、朝也はしょうがないなって顔で片手に俺の腰を抱きとめ、もう一度、キスをくれた。




鏡に映る俺が不細工で見るに堪えない。
蕩けて緩みきった頬を叩き、トイレの蛇口に手をかざした。

『……どうして、キス、した?』

何で、そんなことを訊いちゃったかなと思う。
あれは誘われたキスだったから、好きだからとか、したかったからとか、朝也が『THE KISS』に動かされた理由にそんな甘酸っぱいものでも期待したかもしれない。

『わかってねーな』

予想外の返答は思わず口をついて出たというふうな言い澱んだもので、朝也は「一服してくる」と先に階段を降りていった。その口許が薄らと笑っていたから、俺の鈍さを責めたというより鈍くて良かったと思ったか、あるいは考える時間をくれたのだろう。
つまり、さっきのキスには意味があった。
もしかすると、同情でも構わないと思っていた10年前のキスも同情ではなかったのかもしれない。そこまで考えて俺は今、トイレに駆け込み、泣き笑いのどうしようもない不細工な顔を水で洗い流している。

「あのとき、朝也はもう俺を好きだった……?」

そんなはずはないと思う一方で、そうだと嬉しいって頭ばかり働いて……だとしたら、俺は朝也からの初めての好きの意思表示を10年間も気づかずにいたのかと、今更、ほんとうに今更気づいて胸を熱くした。それじゃ、さっきのキスは……、

「10年越しの……朝也からの、好き?」

顔が熱い。
顔が熱い……。
灼けつくように熱い。

擦ったって火照っていくばかりだし、冷たいはずの水道水も微温湯に感じる。

「朝也……」

すぐにも顔を見たくなって、数十メートルさえ離れていられなくて階段を駆けおりた俺は《廊下はお静かに》のポスターの前を足早に通り過ぎ、エントランスホールで俺を待っていた大きな背中に掴みかかった。勢いに驚いた初老のご婦人が何事?という顔をしてすれ違っていく。

「朝也、俺、わかったから!」
「何が」

ちゃんと、お前の気持ち受け取ったから!という言葉が口よりコンマ秒早く脳裏に弾けて、俺はこっ恥ずかしさに寸でのところで呑み込んだ。

「あー……、トイレの場所」
「……。へぇ」

何を言ったと頭を抱えるには遅い。
呆気にとられた朝也の顔がみるみる笑いたそうな顔になって、失態に鼻先を熱くした俺の顔が余程可笑しいのか、堪えきれないとばかり手で眼を覆い、笑い出した。
締まらないけれど、きっと、俺の言いたいことは伝わっている……。

「笑うな。今日のお前は優しいんだから、そのままでいろ」
「優しい……俺が?」
「うん。プレーンドーナツがハニーグレイズドになるぐらいには甘やかされた気がする」
「よくわかんねーけど」

歩き出した朝也のうしろをニヤニヤとついて行く。
ミルクティー色を深めた館内は一層、穏やかに寛いだ空気が漂っていて、帰ると思った朝也はフロアを横切り、仄暗い通路を奥へ入っていこうとする。

「改装したばかりだってな」

何が?と聞くまでもなく、廊下の途中に置かれたチョークボードに俺は高揚した。
『復刻檸檬ケーキ(セット可)』
この図書館の喫茶室の人気メニューだ。余所にはない素朴な味を好んで、学生時代に俺が読書以上に楽しみにしていたことを朝也は憶えていたらしい。帰国して3度目の来館になるけど、閉店したのだと思っていた。ほんとうに朝也の記憶力の良さは他愛なく俺をゴキゲンにする。

「食ってくだろ?」
「トーゼン!」

やわらかな照明の下で朝也の笑みがとても幸せそうに見えたから、今日はいい一日だったと、俺は差し出された手を強く握り返した。


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星を数えてコテージに戻って来た。
陸に面した扉を施錠してしまえば、あとは三方を海に囲まれた水上コテージだ。
スタンドライトだけの仄暗い照明が柱や天井の彫りを幾何学模様にも人面にも見せ、パレイドリア現象を起こすのが少々気味悪い。建築士の朝也に言わせれば、間接照明がつくる影が空間に立体感をもたせ、リラクゼーション効果や視覚の誘導効果を生むとかナントカ……平たく言えばエロい気分になって盛り上がるよなーってことだと俺は理解した。
ドレープを効かせたカーテンを間仕切りに、どこからも風を感じられ、大きな観葉植物や籐製の家具がゆったりと配置されている。中でも冗談だろ?と思ったのは木製の衝立とカーテンで仕切られただけの開放的すぎるシャワーブースで、チェックインした時に『南国風ラブホ』と言ったのを『官能的な意匠』と俊平に冷ややかな眼で訂正された。これだから、アーティスティックな頭を持つ人間は面倒臭い。俺が言ったのと、どれほどの差があるんだ?
室内がやけに静かだ。
「シッー。遅くなったし、二人とも寝ているかもしれない」
遅くなった元凶が俺の床の踏み方が荒いと背を突く。
「起きていますよ」
と、奥から柔らかな声が聞こえて、



「おかえりなさい」
朝也が海原を臨む奥のカウチで煙草を燻らせていた。長い足を組んだその膝を枕に俊平は熟睡していて、長い髪が風に踊るのを大きな手がそっと撫でている。
「首尾は?」
「見ての通りです。そちらこそ、お行儀が悪いのでは?」
全て御見通しとばかり飄々と笑うのが小憎らしい。艶夜も堂々としていれば曖昧に出来るのに、みるみる真っ赤になるから、やっと鎮めた身体もバレバレだ。
「何で解った?」
「何も言っていませんが」
確かにSexしたのかと問われたわけじゃないが目敏いにも程がある。
朝也が新しい煙草に火をつけながら眼だけで艶夜のサーフパンツの裾を見たように思い、がっつきすぎて太腿に残したキスマークが隠れていないことに気がついた。艶夜は朝也の視線には気づかなかったらしい。それよりも、
「これ、どうしたの?」
と、床に大きく広げられた2枚のバスタオルを怪訝な表情で拾い上げた。
「俊平ですよ。そこ、硝子床になっているのが気に入らないそうです」
「もう暗くて海が怖いもないもんだよ。それより、踏んで足を滑らせる方が危ない」
身体を拭くためのホテル備品を床に敷くのも感心しないと、艶夜は軽く畳んで使用済みタオル置場へ持って行く。コイツとは同居して数年が経つが、この整頓癖で俺は度々追い回され、シャツの一枚も脱ぎ捨てようものなら、さっさと脱衣カゴに放り込まれ顰めっ面を拝むことになるんだ。その顔の迫力のなさったら可愛くて、もっと部屋を汚したくなる……とは、本人には言えねーけど。
「虎、先にシャワー使って」
と、自宅にいる調子で言われ、解ったと言おうとして朝也の足が俺の足を止めたのを察した。見れば、わざとらしく目線を逸らせて何か言いたげだ。艶夜を先に入れろという意味なら「先に入れよ」は譲り合いになるのが目に見えている。これしかないと思ったのは、
「艶夜、シャワーでイチャイチャしよっか」
だった。案の定、
「虎は直ぐそういう言い方して!面白がるなら先に入る」
侵入禁止と掌で拒否されて、艶夜は着替えを手にシャワーブースへ足を踏み鳴らして行った。
「神月、まだ、そこにいるつもり?」
「覗きませんよ?」
「そんなこと思わないけど、その、ベッドの方へでも行ってて貰えると……」
衝立の向こう側から艶夜の申し訳なさそうな声がする。
朝也のいるカウチと背中合わせに真後ろにシャワーブースがあるから、シャイな艶夜は落ち着かないのだろう。それに気づかない朝也ではないし常なら言わせる前に配慮を見せるはずだが、この時は悠然と煙草の灰を落として直ぐには動こうとしなかった。
「そうですね。虎さん、俊平を運ぶの手伝って貰えますか?」
明らかに俺にではなく艶夜に聞かせるために声をあげて、俊平を起こすんじゃないかと気を揉んだぐらいだ。
「わかった」
応えた俺の声を合図に朝也は煙草の火を消し、艶夜の細い指先は衝立越しにタッセルを摘まんでシュッと音を立て、完全にカーテンを引いた。やがて、水の流れる音がし出して俺はチッと舌を打つ。
「朝也の所為で、また怒られたじゃん」
「俺の所為ですか?」
「で、何の内緒話?」
「追い込み完了、逃げ場ナシですが」
朝也は淡々と言って、入るでしょ?という眼をする。シャワーブースは鍵付きじゃないから出入口を塞いでしまえば艶夜の逃げ場はないわけで、朝也が俺を止めた意図を知って外で満足させたはずの下半身に甘い疼きが復活した。
「絶妙な狭さでしたよ」
と、朝也は意味深に口角を引く。
「お前、ワルな?」
「こんなに協力的なのに?」
俊平の首の下に腕を差し入れた朝也は腰を浮かせて膝を抜こうとする。
「動くと起きるぞ?」
「平気ですよ。さっき鼻摘まんでも起きなかったんで」
ぐったりと投げ出された腕を逞しい腕が揃えて包み込むように抱え、朝也は俺の手など無くても難なく俊平をカウチに横たえた。かなり、慣れている。
「ベッドに運ぶんじゃねーの?」
と、反対側のパーテーションカーテンの隙間に眼を遣ると、天蓋付きのダブルベッドはシーツの乱れた様子もなく、リネンひとつ使った様子もない。
「朝也さ……いつから、そうしていた?」
朝也はそれには答えず、カウチの籐の部分と俊平の片手首をハンカチで縛った。
「おい、何やってんだ?」
「水上で寝るのは怖いと言ったのはコイツなので」
「扱い雑ね。何か怒ってる?」
「いいえ?俺、外しますね」
「ちょ、ちょーっと待て。お前もしかして、オアズケ食らった?」
僅かにムスッと不機嫌な表情を見せた色男に、図星かと笑いが込み上げてくる。
「マジで?」
「いや、手っ取り早く片付き過ぎたと言うか……」
ぶっ……!
ベッドへ行くのも待てないぐらい盛り上がったことは想像に難くない。きっと、夜のために俊平は朝也と距離をとって煽りに煽って欲しがらせたんだろうし、朝也も『甘やかしたい』なんて普段なら滅多に口にしないだろう言葉を吐いたんだ。まぁ、あれだけ飲んで騒げば俊平も疲れていただろうし、シャワーブースでヤって湯冷ましにカウチで戯れていれば、風に吹かれてウトウトしても無理はないが……。
「そんな日もあるよな?」
「何か誤解していますね?」
「いやいや、大丈夫。気ぃ遣わせて悪ぃな」
「早くしないと、艶夜さん出てしまいますよ?適当に戻るのでごゆっくり」
朝也は薄らと笑って、カードキーを手にふらりと出掛けて行った。




「……っ虎、……んっ、はぁ……も……」
乙女じゃなくても、天蓋付きのベッドに月の光を招き入れ、布擦れの音と虫の声しか聞こえない夜の静寂に互いの吐息を溶かすのは心躍るものだ。
オレンジの灯りを透かして、快感の昂ぶりに呼応する波のせせらぎに愛する人の熱を貪る。
「……も、無理……」
「ぁあ、何だって?聞こえない……」
抗議の拳を何発も背中に食らい、艶夜の身体が絶頂を間近に震えてしなるたびズルリと腰を引いて、次は肩に大きな引っ掻き傷を食らう。
「艶夜、俺のこと呼べよ……」
「虎……バカ虎、イッ……っ……く……」
艶夜が声を絞っているのは隣のカウチで俊平が眠っている所為だ。
お蔭でって言い方も変だが艶夜の乱れ振りは俺には嬉しい誤算で、朝也はこの状況まで計算ずくで俊平を放置して行ったのかと疑うほどだった。
「……っ!ぁああっ……ぐ……」
左右に激しく身を捩った艶夜は慌てたように逃げを打ったが、俺を銜えて放さなかったのは艶夜の方だ。食い千切りそうに絞られて思わず呻いた時、後ろでゴトリと何かを引き摺った音が聞こえた。俊平だ。少し前からガタガタしているのに気付いていたが、こっちもイイ感じに温まっていて引くに引けないところまで昇り詰めていた。
「くそったれが、朝也!どこ行きやがった!」
普段、そんな乱暴な言葉を吐くようなヤツじゃない。余程、怒っているか逼迫しているかだが、声にビックリして流石に艶夜も気づいたらしい。白い顔を一層、蒼白にして、これは突き飛ばされるパターンかと苦笑った瞬間、勢い俺の腕を掴み繋がりを深めてきた艶夜の唇が無言で『早く』と象った。
……やべぇ、ここで止めたら俺、ろくでなしじゃん……。
「艶夜、すっげー、可愛い」
「は、やく……!」
眉根を寄せて消え入りそうな声をあげる艶夜の中が熱さを増す。激しい抽挿で追い詰めながら、俺は先端をジクジクと濡らしている艶夜の昂ぶりを性急に揉みしだいた。
「……っ、熱……熱い……」
譫言のように熱い熱いを繰り返す艶夜が堪らなく愛しくて、
「艶夜、愛してる……」
ともに達した瞬間、堅く目を瞑った艶夜の一滴の涙を俺はとても美しいと思った。




「クソガキ、うるっせーんだよ」
今、解くって言ってんじゃんと、俊平とカウチを繋いでいるハンカチを解こうとしたが、寝ている間に引っ張って結び目を硬くしたらしい。手先の器用な艶夜に頼もうとしたが、乱れた声を聞かれたのを恥ずかしがってシーツに包まったまま出てこようとしなかった。
「じっとしろって、動くんじゃねぇよ。……お、ほどけた」
「朝也はどこに行っ……痛……!」
解放と共に立ち上がった俊平の身体がグラリと傾いで咄嗟に片手に受けとめたが、どうにも足が覚束ないらしい。カウチに戻すと不本意丸出しの顔で、
「朝也は?」
と聞いて来た。
「お前がオアズケなんか食らわせっから、ムスッーとして出てった」
「はぁあああ?冗談じゃない。あれ以上、掘られたら俺、潰れっから!」
「は?」
「朝也がまだ、中で蠢いてるみたい。気絶するほど悦かったの認めるけど、アイツどうしたの?」
「俺に聞くな」
「覚えたての頃みたいに翻弄された。くっそ、腹、突き破られるかと思った……」
「わっーた。わかったから、ちょ、黙れ」
育ちがいい所為か、普段は猥雑な言葉を吐いてもノーブルな印象を失わない俊平だが、これは本気で黙らせないと俺がこっ恥ずかしい。慌てて口を塞いだところで朝也を呼び戻すことにした。
まったく、何が『これぐらいがいい』距離感だ……。
「ふ……、ぁはははははっ!」
あの『手っ取り早く片付き過ぎた』という朝也の不機嫌の理由がオアズケじゃなく物足りなさのためと解って、俺は無遠慮に笑ってしまった。
クールなツラして、サカる時もあるとかいいじゃん、いいんじゃねーの?
カチリと鍵を差す音がして朝也が戻ったらしい。
「あんま、騒ぐんじゃねーぞ」
と、俊平に言いおいて、俺はベッドに丸まっている艶夜の元へ戻った。
シーツがもぞりと動く。
「お待たせ」
「待ってないよ」
「隣、入れてよ」
もぞもぞと端に寄る艶夜がシーツの端を少し上げて俺を迎え入れてくれる。
廊下では俊平がキャンキャン吠えていたが、朝也があれを黙らせるなど容易いことのようだ。すぐにシーンと静まって濡れたリップ音に笑み零れた俺は、ベッドの端に掛けて暫く後ろ手に艶夜の指を弄りながら待っていた。案の定、敷居のカーテンから手だけを差し出して、無言でゴメンの手を作った朝也が「くれ」と掌を上にする。
「遅ぇよ」
と、小声にタオルケットを渡してやると、
「おやすみなさい」
笑みを含んだ朝也の声が微かな酒の香を夜陰に溶かし、去って行った。



翌朝も晴天。
微睡みの中、胸に抱いた艶夜の安眠を守りたい一心で息を詰めていた俺は俊平のダイブに飛び起きた。勢いよく俺たちの上に飛びかかって、きゃはははっーなんて妙なテンションで高笑いしている俊平は、昨夜の御立腹が嘘のようにゴキゲンだ。艶夜も何事かとビックリして咄嗟に俺の腕にしがみつき、状況が解るとスッと離れてしまった。
「お前な……」
「朝だよ、今日は何して遊ぶ?」
「ガキじゃねーんだから朝ぐらい静かにしろ。子守の朝也に遊んで貰えよ」
「寝てる。起こしたら可哀想じゃん」
「俺たちはいいのかよ?」
「ねぇ、艶夜さん。外行こ。滝があるんでしょ?俺だけ見てないもん、連れてってよ」
こうなると、人の好い艶夜の返答は決まっている。
「わかったよ。15分だけ待って。シャワーを浴びて着替えるから」
「Yay!」
艶夜と入れ替わりにベッドに仰向けに転がった俊平は、壁にかかる大小の操舵輪や風に揺れるカーテンに目を細め、眩しい笑顔を見せた。
「いい、休日だったね」
「そうか」
「また、来ようね」
「やだね。今度は艶夜と二人って決めてる」
「ちぇ……」
不貞腐れる俊平の髪をワシワシと乱してベッドを降りた俺は、斜交いに陽の射す朝の海の静けさに微笑する。
遠く波穂が攫う夏、次は4人で山へ行こうかなんて考えていた。

                                

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