桜が香るから、家へ帰るのをやめた。
夢か現か花弁は激しく渦巻いて、身体を攫うように呑み込んでいく。
甘やかな香りは俺の身体から匂っていて、

「まだ、酔っているのか?」

思わず、苦笑してしまう。
本当は、ただ、帰りたくなかったのかもしれない。
雪曇りの空の下、ジニーに何からどう切り出したものか
さっきから俺は、そればかりを考えている。 いいや?
考えなくちゃと思いながら、俺の浮ついた頭は一人の男の名前ばかり反芻していた。

神月朝也かんづきともや、神月朝也……」と。

昨夜はチェルシーにいた。
ニューヨークはマンハッタン南西部に位置するチェルシーは元倉庫街だった辺りにコンテンポラリーアートのギャラリーが軒を連ね、最新アートの一大発信エリアになっている。国内外のアーティストも多数集まり、絵画を始めパブリックアートやCGアート、ポートレートや版画など、あらゆる芸術に溢れていてエネルギッシュだ。さながら俺にはテーマパークみたいなもので、暇さえ有れば自宅のあるイースト・ハーレムから通いつめ、飽きもせず刺激的な界隈を堪能している。その一角に俺をサポートしてくれるギャラリーがあり、昨夜はそこのギャラリストと行きつけのバーにいて、そのまま朝を迎えてしまった。
そう、俺は画家だ。
まだ駆け出しだけど、高校を卒業と同時に日本を離れて7年、ぼちぼち入選や受賞もして先だって注目の若手アーティストを特集した某アート誌にヴィジョナリーアートの新星として作品が紹介されたことで『Shun』は新進気鋭の日本人画家だと巷に広まった。
現在、25歳だ。
ヴィジョナリーアートとは日本語では『幻視芸術』とでも言うもの。神話や霊的体験、精神世界を軸に幻想的な世界を描き出す芸術と言った方が解りやすいかもしれない。誌面の影響とは恐ろしいもので、サンクスギビングホリデーに開催した『Shun』こと環俊平たまきしゅんぺいの個展は、本人も信じられないほどの反響を呼んで成功を収めた。展示即売会の売り上げも上々で、すっかり気を良くしたギャラリストにロブスターを鱈腹ご馳走になり祝杯を上げに連れて来られたのが、この、いつものバーだったというわけだ。ゲイバーだけどね。
チェルシーのもう一つの顔は、8th Ave.を中心としたゲイタウンであること。中でも度々連れて来られるこの店は、広さ、歴史ともに名店として賑わっている。煌びやかに着飾ったドラァグクイーンが絶妙なトークでショーを盛り上げ、バーカウンターでは顔立ちの整ったバーテンダーが筋肉美を誇らしげにアピールしながらカクテルを出すのが人気のようだ。正直、俺は興味がない。それでもゲイには紳士的な人が多いし客層には年配も多く、店が老舗の度量で興味本位の観光客やストレートも受け入れているためか、東洋系の少なさを気にしなければ居心地も悪くはない。

「ねぇ、テッド。前から思っていたんだけど、どうして俺と飲む時は此処なの?」

親子ほどに歳の違う彼を俺はファーストネームのTheodreを『Ted』と愛称で呼び、慕っている。Theodre Bailey セェオドア・ベイリー、妻子持ちのストレートだが、好奇心旺盛で何でも楽しんでしまうこの風変わりなオッサンは、俺がギャラリーに顔を出すと打ち合わせと称して食事の後には大抵この店に連れてくる。考え過ぎかも知れないけれど、俺は段々それが彼の単なる興味ゆえでない気がしていた。

「どうした、シェーン?夜通し飲むには都合がいいし、楽しいじゃないか。お前さんは嫌いじゃないと思っていたがね?」

彼は俺を『シェーン』と呼ぶ。本名の『シュンペイ』が言いづらいから画家名の『Shun』が通り名になって、けれど何度聞いても『シェーン』としか聞こえない。そのうち、それが俺の呼び名になった。

「やっぱり、そんなふうに思っていたんだ。それって俺がゲイだと言いたいんだよね?」
「違ったかい?」

違うね、とは直ぐに否定できないこのバカ正直さ。
一瞬、言葉に詰まった俺は或る男の面影に胸を突かれて、きっと苦笑いでもしただろう。

「いつから、そんなふうに思っていたの?俺は此処の連中とだって寝てないし、むしろ、テッドがいつもこの店を選ぶからケツ貸せってサインなのかと半年は疑ったよ。俺、抱かれんの?って。断ったら契約も破棄?絵を売るためにカラダを売るのはマズくね?って葛藤しちゃったよ」

誤魔化したいが為の饒舌。くだらないことをペラペラ捲し立てている内に苦笑いし出したのはテッドの方で、笑い飛ばす俺の隣で彼は飲んでいた酒を吹き出してゴホゴホ噎せていた。

「お前さんは何てことを言うのかね?」
「だって、あははは……」

笑っていると今度は目頭が熱くなって泣きたくなってきた。
俺の脳髄をダイレクトに溶かしてしまいそうな低く甘やかな声が桜の香を纏い、記憶の中で陶然と俺を支配し始めたからだ。

『……俊平、来い……』

カンヅキトモヤ。時空を超えて朝也の声が降り注ぐ時、決まって彼は俺に『来い』と呼びかけてくる。唯一、この身体を好きにしていい男だ。
重ねた肌の温もりもヤケにリアルで、辿る指先の行方を期待して落ち着かなくなる。

「生々しいんだよ……」

自分の声にハッと我に返った途端、顔から火を吹きそうに恥ずかしい思いをして咄嗟に目の前のビールを一気に飲み干し咳込んだ。

「シェーン!何をやっている⁈」

慌てたテッドに瓶を取り上げられて、胸を抉るような甘い名残に胸が苦しくなった。
熱い……身体がざわついて、心臓が壊れそうだ。

「だ、大丈夫。テッドがゲイとか言うから、ちょっと変なことを思い出した……」
「嗚呼いや、ゲイが悪いと言うんじゃないんだ。前に、お前さんに惚れている知人の娘を紹介しようとしたら、女は要らないと言っただろう?その若さと秀麗な顔立ちで女性に無関心とは何か事情でも有……」
「もう、いい。顔洗ってくる」

心配性のテッドが付き添おうと席を立つのを断って、俺は足早に奥のレストルームへ立った。
全然、大丈夫なんかじゃなかった。身体が疼く。頭の中で朝也が『来い』と俺を呼ぶ。その腕が俺を抱く。絡めた手と手が解けると、その冷たい指先が俺の熱い昂まりに触れ……。

「ちょっ、待……!」

固く眼を瞑ると全身がゾワゾワと粟立って、暴発寸前で俺は大きく息を呑み込み食い止めた。
妄想で勃つとか俺は何処まで青臭ぇんだ……。レストルームの出入口に屯する男たちが下卑た笑みを浮かべ、値踏みする好奇の眼で俺を遮ろうとする。こういう眼には慣れていた。少しでも怯えた眼を見せれば便器にされるのは俺の方だ。

「そこ、退いてくれない?ちょっと、飲みすぎちゃって切羽詰まってんだけど」
「飲みすぎ、ねぇ?俺がヨくしてやるよ、お嬢ちゃん」
「何だバレてるのか。なら、尚更ノーサンキューだ。オマエじゃ、勃ったモノも引っ込んじまうよ」

目敏いヤツだ。可笑しくなって笑い飛ばすと、体格のいいリーダー格のブラックはギョッとしたように眼を剥いて俺を見下ろした。きっと、想像した人格と俺の反応が男の中で噛み合わなかったのだろう、珍獣でも見る眼つきだ。これも慣れている。この大男と数人には見憶えがあった。

「騒ぎを起こすと店に迷惑が掛かる。ニックも此方を見ている。常連なら俺の言いたいこと判るよね?」

この店の人気No.1のバーテンダーの名を出すと、男たちは舌打ちして一様に黙り込んだ。
自分で言うのも何だが俺はニックに愛されている。カラダの関係はない。
彼は桁外れのハンサムでユーモアがあり気も利く。上背のある逞しい体躯はゲイにモテるし、荒くれ者にも一目置かれる存在感を遺憾なく発揮しながら、当人は胸筋の薄い俺などまるで子供扱いのこの店で何故か通い始めた当初から俺にご執心のようだ。その所為で彼目当ての客たちの俺を見る眼は冷たく、何度か裏通りへ連れ込まれたり痛い目も見ている。とばっちりだけど、脅し文句に彼の名を出すだけで本人に話したことはない。男たちが一人の男を取り合って、その一人に愛される第三者の男を妬むなんて御笑い種だが、俺には攻撃的になる気持ちが……少し判るからだ。
「通してやれ」
と言うリーダー格の男の声で俺は男たちの間を摺り抜けるように逃れ、レストルームに閉じ籠った。
やべぇ、捕まって絞られていたら、呆気なくイッちまうところだった。切羽詰っていたのはその、用を足す方じゃなくて育っちまったコッチの方で、まさか、こんな所で自分でヌく羽目になるとは思わなかった。

「……っ!くそっ!テッドのヤツ……ぅ、んっ…と、朝、……」

高校生だったあの頃、俺は寝ても覚めても朝也を追いかけてばかりいた。
追えば逃げる月のように、手を伸ばしても届かない月のようにその存在は焦がれるばかりのもので、やっと掴まえた月も水面に映る月のように危ういものに思えていた。
どちらからともなく当たり前のように触れた唇の熱さも、思い出すたび俺の頭をフワフワさせる。
卒業式、まだ蕾も堅い校庭の桜の樹の下で、ずっと傍にいると誓った。誓う心のうちでサヨナラを繰り返した。画家を志していた俺は『絵を学ぶために3年くれ』と切り出し、
『翌月にはイングランドの親許へ行く』
そう、デタラメを言って、その足でひっそりと渡米した。
今思えば、浅はかな嘘だったかも知れない。けれど、親許だと言えば朝也も安心すると思ったし、俺は自分が弱いのを知っていたから誰にも引き止めて欲しくなくて、もっとも引き止められることを想定する自体、甘えちゃいるけど、誰にも居場所を報せず自分に逃げ場を作らないようにしたつもりだった。7年間は予定外に離れすぎたけれど、今でも気持ちは変わらず、ずっと朝也の傍にいる……。
朝也と肩を並べられる自分に成りたかった。
俺がアイツを必要とするように朝也にも俺を必要だと感じて欲しかった。
守られる自分でなく、俺も朝也を守れる存在に成りたかった。
その力が欲しかった……。

「朝也。俺たち、まだ繋がっているかな……?」

嗚咽の声を上げそうになって奥歯を噛み締めた。だって可笑しいじゃないか。今更、何を泣くんだ。
朝也から離れて行ったのは俺の方。無性に逢いたくて今すぐにも帰りたくて、こんな思いは今までにも何度も繰り返しては踏み留まってきたはずなのに気持ちが逸る。

「朝也。俺、帰ってもいいか?」

握りしめる記憶の糸が未だ朝也と繋がっているのなら、手繰り寄せて、また会えるだろうか?
濡れた手を見て苦笑い、ポリ…と、頭を掻いた。

「やっぱ、そろそろ……潮時」

そういえば、あの日、あの桜の樹の下で朝也は、どんな表情かおをしていただろうか……?

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「お待たせ!ごめん、ちょっと、ヌいてきた」
「ぁ?お前さん、今、何を言った?」

軽やかな足取りでカウンターに戻ると、テッドはずんぐりした猫背の身体を捩るように俺に振り向いて唖然とした顔をした。

「いや、シェーン、今のは聞かなかったことにしよう」
「んー?だって、我慢できなかったんだもん」

その首にごく自然に腕を絡めて、父親に懐く子供のように甘ったれた声で囁くと、テッドは「やれやれ」と呆れ顔で俺の腕を解く。

「若いな」
「若いねぇ」

悪戯めいて笑み掛け、俺は隣に座り直してバーテンダーにPale Aleを追加で3本、注文した。
酒に強い方では無いけれど、この時の俺は思い立ったが吉日とばかりに帰国で頭が一杯だったし、それをテッドに切り出すなら一揉めして今夜は長くなるだろうと思われたからだ。とても素面では彼に理屈で勝てそうにない。けれど、まとめて何本か注文して、それきりバーテンダーを呼ばないのは俺には良くあることだったからテッドは怪しみもしなかった。

「シェーン?その、さっきはゲイだなんて言ってすまなかったね。気を悪くしたかい?」
「気にしてないよ。夜通し、そうやって謝るのなら本当に気を悪くするかもね」
「そうか。良かった」

テッドはホッとしたようだ。

「ところで先程、お前さんが入って行った方をニックが怖い顔で見ていたが、何かあったのかい?」

ギクッとした。全く、このオッサンは何にでも目敏くて困る。

「そう?気付かなかったな。別に何も無いけど?」
「しかし、いつもはシェーンが店に来れば飛んでくるのに今夜は顔も見せないじゃないか」
「売れっ子に何を言ってるの?忙しいだけだよ」

正面を向いたまま関心なさげに「やしないよ」と日本語で呟いた俺と注文のビールを差し出しながら「忙しいだけでしょうか?」と尋ねてきた茶髪に 顎鬚あごひげ のバーテンダーの声が重なった。口許は笑みを湛えているが眼の奥は笑っていない。

「どういう意味だね?」

と、俺より先に何にでも首を突っ込む好奇心旺盛なテッドが直ぐさまバーテンダーを問いただす。Russell Cox ラッセル・コックス、ニックに紹介されてから俺は『Russ』と愛称で呼んでいる。
普段は口数の少ない物腰の柔らかな男で、俺は彼のいるカウンターを選ぶことが多かった。楽しい酒は要らないからだ。俺にとって酒は内省の糧であり、空想への入口であり、朝也への想いをはぐらかすものであり、安眠の術に過ぎないから元より一人で家飲みが多かった。この店へもテッドに誘われでもしなければ来ることもなかったし、それだけに彼の寡黙さが好もしかった。少なくとも、この日のように挑戦的な眼を不躾に向けてきたり、話に割り込んでくることなどなかったのに……。

「ご機嫌斜めみたい。原因は俺にあるのかな?」

カウンターに片肘をついたまま上目遣いにラスを見上げると、彼はシニカルな笑みを浮かべて俺へ一瞥をくれた。思い当たる節に苦笑が漏れる。きっとラスは先週、俺がニックからの何度目かのアイシテルを断ったことを知っているんだ。そして、彼はニックのことを……。

「色々とワケ知りみたいね。ニックはそんなことまで話しちゃうわけ?お喋りだなぁ」
「あ、否!そんなことは……」
「隠すことないよ。アイツ『このオレがフラれた』って凄い剣幕だったし、胸の内で消化できるタイプじゃなさそうだもんね。洗い浚い聞かされた?ウンザリしたでしょ」

図星だったみたいだ。一瞬、素の表情を覗かせた彼がそのまま仕事の顔を取り戻し損なって、苦虫を噛み潰したような顔で堅く口を閉ざしている。

「いつも、そうやって泣きつかれてんの?二人は何処まで仲良しさんなわけ?何もかも筒抜けでさ。そんなこと、アイツの口からは聞かされたくないよね?」

含みを持たせた言い方をすると、ラスは虚を衝かれたように眼を剥いて満面に朱を注いだ。

「そういうことなんじゃないの?」

ニックを愛しているんだよね……?
苦々しく微笑ったラスは溜息をついて、やれやれと首を横に揺すっている。否定ではなく、図星を突かれたことへの自嘲めいた顔つきだった。

「一つ、伺っても宜しいでしょうか?」
その声に俺は黙ったまま、物臭に頷いた。
「ニックほどの男が貴方の初めてになりたいと願っているのに、頑なにNOを突きつけるのですね?」
「そうだよ。だって、出来ない話だもん」
「『出来ない話』?ですか」
「そ。察してくれないかなぁ?」

既に『初めて』のいる俺の初めてには成りようがない。
それを曖昧な言葉で濁したのは下手に首を突っ込まれて迂闊にも朝也の名を巻き込みたくなかったからだ。日本を発ってずっと、この胸に大切に仕舞い込んできた彼の名を俺は最後まで誰にも明かすつもりはなかった。それまで黙っていたテッドがガタッとスツールを揺らして、

「おかしなことに巻き込まれているのかい?」

と、不快感を露わに訊いてきたが、俺は人差し指で彼の唇を塞ぎ、かぶりを振った。意を察したテッドは渋々引き下がってくれたが、ラスは納得がいかないと言うより何かを思案する顔つきでいる。

「Shun?貴方はニックを拒んでおきながら、何事も無かったような顔で来店される。彼に笑顔で話しかける。本当に受け入れる気が無いのですか?私には気を引くための浅知恵に見えます」
「ジョークにしてもセンスがないね。その気になれば直ぐ手に入る男に俺が媚びるわけないだろう?」
「仰いますね」
「無愛想なツラで無視すれば表沙汰になってカッコつかないのはアイツの方だ。店のNo.1にケチがついて赤札貼ってバーゲンセールなんて目も当てられないと思わない?」
「お気遣い戴いたというわけですか」

さぁ?と小首を傾げて軽薄な笑みではぐらかした。肯定しても、また何かしら噛み付いてくるに決まっている。馬鹿正直に応える必要のない相手には少々扱い辛い印象を持たれるくらいが丁度いい。そもそもニックへの配慮と言うより、波風立てて彼のフォロワーに逆恨みされたくない思いの方が強かった。男の嫉妬は時にバイオレンスで付き合いきれないからね。ヘラッと笑うと、その態度が癇に障ったのかラスは眉を顰めたが、一呼吸置いて突拍子もない言葉を頭上からサクッと振り下ろして来た。

「では、二番目なら構いませんか?」
「は?」

唐突すぎて、一瞬、言われた意味が解らなかった。何だって?

「次の恋にニックを選んで下さいと言っているのです。初めての男とは別れているのでしょう?」
「どうしてそうなるの?」
「貴方が彼を『初めて』に出来ないのは既に『男』を知っているからでは?でも、今はフリーですよね?まだ続いていると仰るなら、ゲイバーに貴方を一人で寄越せるでしょうか?」

何をどう結論付けたのか、少し前まで俺の『出来ない話』の意味を考えあぐねていた顔が訳知り顔の不遜な笑みに変わって、まるで悪びれる様子が無いのも鼻につく。

「どうしても、俺はゲイにされちゃうみたいね。本日、二度目よ?」

この店で俺がゲイだと真しやかに噂されている事は早くから気づいていた。
隠していた訳ではない。いや?ゲイでもない。そもそも男も女もなく、俺は神月朝也しか愛さない。まぁ、ゲイもストレートも個性の一つぐらいにしか思っていないから何を言われてもいいけれど、夜を売る気はないから、ここでは意識的にストレートを匂わせているだけだ。

「つまり、俺に好きでもないヤツに抱かれろって言うの。アンタに同じことが出来る?」
「はぁ……」

気の抜けた返答は罪悪感はゼロってことか。無神経な要求に腹が立つ以前に気が滅入った。

「どうかしているよ。ニックにも失礼な話だ。自分で堕とせないのをオトモダチに貢がれるとかザマァねぇだろ。いいの?ラスが仕組んだってこと、ベッドでペラペラ喋っちゃうかもよ?」
「それは、私の頼みを聞き届けて戴いたと解釈して宜しいのでしょうか?」
「んふふふー、アンタ面倒臭い。じゃあさ、愛のないSEXが、どれだけツマンナイか教えてやればいい?傷つくだろうなぁ、アイツ。で、いくら払ってくれんの?」
「いくらって……」
「当然でしょ?カレシに貢ぐプレゼント代なら弾めよ。ナマモノだし俺って案外、繊細だし?プライドもカラダも傷モンにされんだから、対価に色つけて迷惑料込みで払いな。俺は相当、高いよ」
「シェーン、よしなさい!」

突然、堪り兼ねたように落雷級の大声で俺を驚かせたのはテッドだ。普段は滅多に取り乱すことのない彼が憤怒とも悲哀ともつかない強張った顔で俺の両肩を掴み「自分を大事になさい」と、抱き寄せ嘆息する。少々、面食らった。

「下卑た物言いで自分を貶めるのはやめなさい」
「そんなふうに思ったの?俺は捨て鉢になったわけじゃない。手を放して」

視界に整然と横一列に並べられた空瓶が俺を苦笑させる。テッドの仕業だ。自分をいつまで待たせるつもりだという嫌味か、俺とラスの不毛な遣り取りに辟易しての暇潰しか。

「テッド、良くない酒になってる。ちょっと、ピッチが速いんじゃないの?」
「さっきから、ちっとも旨くないのでね」
「悪かったよ。ごめん、揉め事を起こす気は無かったんだ。俺のこと朝まで好きにしていいから、もう少し味わって飲んでくれない?」
「お前さんは、そういうことを言うから誤解を受けるんだ」
「だって、この空瓶が胸に刺さるんだもん。一晩中でも詰って良いから、俺のために身体を壊すなよ?」

いつだったか、朝也にこの声がいけないと言われた。誘ってんのか?って。
そんなこと普段は微塵も口にしないヤツが「綿飴みたいだ」なんて真顔で言うもんだから、俺は顔が火照って何も言えなくなったのを思い出す。耳元でスウッーと溶けてくすぐったいという意味だったらしいけど、ピロートークなら此方も雰囲気に呑まれてやるものを朝也のは何の気なしに不意を突く言葉で、いやらしくないのがいやらしい。

「そーそ。タチが悪いんだ、アレは……」
「ん?何だね」
「何でもない。テッドが不機嫌だと俺は逆に冷静になれそうだ。それとも計算尽く?年嵩の誘導に俺が嵌められているのかな?ねぇ、そんな顔しないでよ。俺、そんなに空気凍り付かせてた?だって、ゲイだの貢ぎ物だの嫌気も差すだろ?だったら、どんな顔をすればいい?」
「……」
「なんてね。……ごめんね」

何となく、ごめんねという言葉が口をついて出た。卑屈さの表れでも巻き込んだ詫びでもなく其の心根は静かなもので、俺的には『ありがとう』に置き換えられる類の『ごめんね』……。
父親風を吹かすという言い方は適切でないと思うけど、実の親にも心配されない俺をテッドは過保護なまでに案じてくれる。出会った当初は口喧しいと思っていた心配も今では温かい。
テッドは俺が身売りしかねないと危惧したのだろう。そして、心配してくれるぶん俺は彼を傷つけた。ホント、気づかなくていい事には察しが良いくせに、気付いて欲しい意図には鈍感なんだから……。

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俺が神経を逆撫でするような言い方でラスに皮肉混じりの受け入れを仄めかしたのは、わざとだ。
彼の要求が如何に不毛で有るかを気付かせたい思いが烏滸おこがましいが無かったわけじゃない。
そもそも、他人任せに出来る愛って何だ?
愛のカタチは人それぞれだと頭じゃ解っていても、到底、理解しがたいラスの思考に俺は疲弊しそうで、所詮はその程度の想いかと毒突きたくなる。

「茶番も嫌味も通じないなんて本当に気障りだよね。何なの?この左脳が壊れてく感じ……」

ネクタイの結わき目を解いて襟元を寛げると地下の澱んだ空気さえ肌に触れるのが心地よくて、そんなに窒息しそうに苛立っているなら、こんな厄介な男など適当に遣り過せばいいものをと我ながら呆れもする。けれど出来ないんだ、歯痒いんだ、無性に腹が立つんだ。他人事で片付けるには俺はラスの気持ちを知りすぎたし、根っこじゃ悪い男でないのも解っているだけにもどかしい。

「ねぇ、ラスは一度でも想いをぶつけたことある?どうして何も伝えないまま諦めようとするの?俺が居なくなったらアイツはまた違う男を好きになるかもしれない。そしたら、次はそいつに頼み込むの?」
「貴方が居なくなる?」
「そこは物の例えだから一々引っ掛かんなくていいの。でもさ、ニックが諦めてくれないなら会うたび、竿おっ勃てて追い回されてみ?もう、店には来られないだろ?」
「貴方は相当、彼を誤解していますね。ニックはそんな野蛮人では有りませんよ」
「ラスは相当、アイツを買い被っているね。穴掘られそうになったコッチの身にもなってみてよ」

ラスは、まさかとでも言いたげに困惑の色を見せたが、彼より反応が早かったのはテッドだった。椅子から転げ落ちそうに驚いて、

「いつの話だ?何をされた」

と、まるでレイプされた娘を案じる父親の形相で詰め寄ってくる。

「あはは、失言。今の聞かなかったことにして。平気だし、俺も逃げ方が上手くなかったんだよ」
「笑い事じゃないぞ、シェーン」
「まぁね。でも、ニックにも気の毒なことをしたし、もういいよ。俺も焦ったからつい、股間を蹴り上げちゃって。空手の心得があるし、それなりにボディーブローあったと思うんだけど」

ヘヘッと気まずさを誤魔化すような苦笑を漏らすと、テッドの大仰な溜息とラスの信じられないとでも言いたげな顔にぶつかった。

「Shun、使いモノにならなくなったら、どうしてくれるのです?」
「え?お大事に、って言うよ」
「ふざけないで下さい。ニックの本気を踏みにじったばかりか、貴方が彼をそこまで追い詰めたんだ」
「良く言うよ。ラスのおふざけ振りったら、俺の比じゃないと思うけど?自己満足のために他人を巻き込めるなんて大した酔狂じゃないか」
「自己満足……」
「そうでしょ?犠牲愛のつもりか知らないけど『彼を想えばこそ黙して心を偽るのです』みたいな顔してさ。そんなの知ったことじゃないし美徳でも何でもない。自分に酔っているだけだよ」

言いすぎなのは判っていた。ただ、こうもヒートアップ気味なのは俺が彼を羨んでいるからだ。好きな人に毎日、会えるくせに。掴む気になれば、チャンスは毎日でも拾えるくせに……。

「追い風を捉える気のないヤツには、そのうち、風も吹かなくなるね」

苛立ちまぎれに吐き捨てると、勢いカウンター越しに身を乗り出してきたラスに腕を掴まれた。
かわす間もなく引っ張られ、つんのめって、スツールから尻の浮いた不安定な態勢で間近に剣呑な眼とぶつかる。自分も不本意なのだと言いたげな形相だった。慌てたテッドが咄嗟に俺の服を掴んでラスと取り合う恰好になったが、その振動で倒れたビール瓶が床へ落ち、辺りは騒然となった。

「わかったような口をきかないで下さい!誰もが貴方と同じにはならないんだ」
「何それ、劣等感?馬鹿にしてんの?アンタこそ俺の何を知っている。俺をどう見ているの?ニックが惚れたなら自分には勝てるはずもないヤツ?それともニックを誑らかしたワルい男?」

身長差を考えないラスに胸倉を掴まれて、反り上がった喉から絞った声は掠れ声になった。

「二人とも、よしなさい!」

と、テッドが直ぐに身体を割り込ませて俺たちを引き離す。
周囲の客たちのあからさまな好奇の眼にチッと舌打つと、ヒソヒソと陰口を叩いていた三人が慌てて目を逸らした。事情を見ていたのか、せせら笑う者もいる。面白がって「もっとやれ!」と囃し立てる者もいれば、俺に向かって「嬢ちゃん、三角関係なら俺にしとけよ!」と下半身を指差して無遠慮に誘ってくるバカもいた。

「くそったれが!テメエのモノ握るより絵筆とる方が余程、快楽を得られんだよ、バァーカ!」

ムシャクシャした感情そのままに吐き捨てたのは日本語で、それなのに横合いからスパーンと手が飛んできて、テッドに頭を引っぱたかれた。何で通じたんだ?
不足そうに睨みつけると、テッドはなだめすかすように俺の頭をグシャと撫でた。

「やれやれ、お前さんは綺麗な顔に似合わず口が悪い。汚い言葉は雰囲気で伝わるものだ。慎むんだね。それにさっきから、どうしてそう悪い子になりたがる。もう少し穏やかに話しなさいよ」
「……わかったよ」

俺の不貞ふてた言い方にもテッドは眼を細めて満足げに頷いた。
落ちた瓶を拾うためにしゃがみ込むと、その頭上でテッドの声がおっとりとラスに向けられる。

「さて、君もだよ。確かにシェーンの言い方は捻くれているが、一貫して君にエールを送っている事に何故、気付かない?無理を言ってないで、自分が本当はどうしたいのか今一度、考えてみるんだね」

ラスは唇を噛んで押し黙っている。集めた瓶をカウンターへ戻していると、誰が報告したものか1階へ通じる階段をチーフらしき男が別のバーテンダーの案内で足早に降りてくるのが見えた。

「ちっ、余計なマネしくさって。テッド、俺が絡み酒でラスの手を煩わせていることにして、あの人たちを上手く追っ払ってくれない?絶対に近づけないで」
「やれやれ、人使いの荒い子だね」

気が立っていたとはいえ、偉そうに言っても俺に滅法甘いテッドは笑って席を立つ。俺が出向くより、年の功でのらりくらりと穏便に片付けてくれるだろう。

「どうして?」

と、ラスが俺を見る。どうして、自分を庇うようなことを?と。

「別に?クビを切らせたくないだけ。客の不始末なら出入り禁止で済むけど、アンタはね」
「……申し訳ない」
「頭、下げんなよ。バレんだろ」

俺は背後のチーフたちに聞こえるように「酒出せって!」と、くだを巻き、片腕を枕にカウンターに酔い潰れるフリをした。見上げると零れる前髪の隙間から悄然と俯く顔が此方を見ている。

「そんな顔するなよ。俺の名演技が無駄になる」
あ、少し笑った……。
「なぁ、このまま話すけど、テッドが戻るまで素知らぬフリで聞かないか?」
「ええ、そうしましょう」

ラスは短く言って俺の手許の瓶が汗をかいているのを拭い始めた。カウンターに肘をつく俺の癖を良く知っている彼は、いつも袖を濡らさないようマメに配慮してくれる。けれど、常の優雅さを欠いたその機敏過ぎる動きは冷静でいようとするほど動揺を隠しきれないことを窺わせた。

「大丈夫?そんなに身構えないでよ。俺ね、誰かを好きになるのって、もっと貪欲なものであって良いと思うんだ。どんなハッピーエンドもアクション起こさなきゃ迎えようがないしね」

ラスは片眉を上げて、口を引き結んだまま怪訝な表情で俺を見下ろしている。

「色々、間違ってると思うんだ。身を引くのも心を偽るのも勝手だけど、だったら黙ってスッ込んでいるべきだろ?陰から見守るとか為を思ってとか余計なことをするのはやめた方がいい。だって、そんなアンタに気付いた時、アイツはどうすりゃいいの?」
「……」
「日本語で偽るという字は『人の為』と書くけど、一字だと『ニセ』と読むんだ。俺はラスのしている事が二人の為になるとは思えないし、好きでも追うばかりじゃ、ずっと後ろをついて行くことしか出来ない。だって、並ぼうとしないのに寄り添える?寄り添わないのに感情を共有できる?一緒に同じ方向を見る気がないなら、完全に想いを殺すことだね」

俺は高校生の頃、それに気付いた。
他には目もくれず朝也だけを追いかけて、けれど、朝也しか要らないと本気で思うような自分に彼が心底、惚れてくれるとも思わなかった。魅力がないからね。言い換えれば旨味、俺を隣に据えるメリットみたいなもの。だって、俺ならこう言うもん。

『だったら、俺を欲しがらせてよ』

想いを断ち切れないなら肩を並べる。愛したいなら愛される自分になる。
それは好みに添うという意味ではなく、対等の立場で必要とされるってことだ。でないと、俺は朝也に愛されることを自分に認めない。

「好きな人に愛される実感みたいなもの?それって、自分の存在を確認することかもって俺は思うわけ。だから、犠牲愛って自分で自分の存在価値を否定するようで解りたくないんだよね。一種の執心のカタチかも知れないけど、劣等感の正当化みたいでさ」

ラスは口惜くやしさと情けなさをい交ぜにした顔つきで俺から目を逸らした。図星を指された時というのは視線を交わしたくないもんだ。俺も、そっと目を伏せる。

「Shun、貴方なら、どうします?」

ラスは思案声に訊いてきた。もし、俺が彼の立場なら?
俺と朝也は俺の中では未だ終わっていない。でも、帰国して運良く再会できたとして、彼が別れたつもりでいたら?新しい恋人がいたら?既婚だったら……?簡単に諦める気は無いけれど、それでもどうしようもない時もある。一方的に姿を消した代償は計り知れないし、俺は失恋するために帰国するのかも知れない。それでも、一縷の望みに縋って俺は帰国する。朝也が俺を待っているなんて虫のいいことは思っちゃいない。ただ、俺が逢いたいだけだ。

「そうだねぇ……アカイイトとか信じちゃうかな?」
「は?」
「隣にいるべきは俺だ。そうに決まっている」

そう信じることから再出発しないと、俺は朝也の傍を離れたこの7年間を自分で否定することになる。けれど、そんな想いなど知る由もないラスは訝しげに俺を見た。自信家とでも笑うかと思ったら、

「それは、何です?」

だって……。伝説自体、知らないみたいだ。拍子抜けして愛想笑いで御茶を濁す。
『運命の赤い糸』と言うけれど、そんなものが本当にあるなら俺の持つ糸の先は朝也に繋がっていなくちゃならない。たとえ、無数の糸が絡み合って彼が掛け違えた糸を引きそうになっても、俺は横槍の糸の全てにハサミを入れて自分の糸を固く結び直すだろう。俺は欲しいものは欲しいんだ。叶わないと絶望するのは悪足掻きの後でも遅くはない。
それをラスは確かめもせずに手放そうとする。
どうして、ニックとの幸福のヴィジョンを描けるのは自分かも知れない可能性を少しも信じようとしない?何故、何もしない内からもがくことを諦めてしまうんだ?糸が解れていくのを指を咥えて、ただ見過ごすなんて、今に完全に手からスルリと落ちてしまう。これ以上、逃げて突っ張らせたら、終いには切ってしまうかもしれないのに……。

いびつだねぇ……」

ダルいほど、歪な愛情表現だ。

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ニックにとってラスは何でも話せる良き同僚に過ぎないのだろう。
そして、ラスはそれを十分に理解している。
それでも、抑圧の反動からその均衡を保てなくなった時、彼は想いを伝えなかったことを必ず後悔するだろう。いくら惚れた男の気に入りとはいえ、俺を宛がうために捨て身になるバカだ。やり方は無神経でもニックへの想いの深さは解ってやれなくもない。

「何だか、運命の赤い糸もエグい絡まり方してるよね……」

独りごちて干上がった喉を手近なビールで潤おそうと手を伸ばした時、うしろから肩を抱かれた。

「赤い糸が、どうしたね?」

戻ったテッドが納まりの悪い尻でスツールをギシギシいわせ、ゴシップ記者がネタを拾った時のような笑みを浮かべて俺の耳元へ囁く。

「奇談のえにしなど求めそうにないシェーンが、赤い糸を語るとはね」

テッドは赤い糸の意味ばかりか『定婚店』を知っているようだ。月老ユエラオ赤縄せきじょうを結ぶ話『赤い糸伝説』の発祥と言われている。ただ、意味深な言い方が単に俺を揶揄からかったわけではなさそうで気になった。

「含みのある言い方するなよ。人払いにいつまで掛かってんだ。年の功も頼りにならねーな」
「横柄なヤツめ。いや、含みは有るのさ。怒らずに聞いてくれるかい?」
内容ことによるけどな」
「私は、お前さんが女は要らないと言った時、女性を愛せない性癖たちなのだと思った。けれど、数多の男に言い寄られても駆け引きを楽しむばかりで心を許す様子はない。これは相当、場数を踏んだ男が値踏みをしているのか、そもそも、人そのものに関心がないのかと気になってね。だから、お前さんから『赤い糸』なんて言葉を聞いて、いささかホッとしたのだよ」
「ふぅん?そう」

気のない返答をしたが、そう思われていても仕方がなかった。仕向けたのは俺だ。
東洋仕込みの婀娜めいた子猫ちゃん、それが物珍しさからターゲットにされがちな俺の店でのスタンスだ。恋愛対象というより、ペットショップの愛玩動物でも愛でる調子で近づいてくる男たちを扇情的な言葉で誑かすのなんて造作の無いこと、酒の席でのれ言に過ぎない。誰が手を握るのキスを奪うのと、くだらないことに盛り上がって結局は俺に酒を振舞うばかりなのに、それでもゲームの景品として非売品の俺は魅力的らしい。高嶺の花きどりじゃないけれど無視をするのも興褪めだし、逆恨みされて怪我をするのもつまらない。一人一人に心を砕けるほど人が好くもないし、だったら、中立に楽しむのが賢明だと思った。そして、番犬然と彼らのブレーキになっているテッドが結果的には俺の価値を釣り上げている。彼には、けしからん奴だと叱られるけれど、諧謔かいぎゃくを弄して飢えが凌げるのだから貧乏人の俺は助かっていた。そうでもなきゃ、毎度こんな茶番は続かない。欠伸が出ちゃうよ。

「シェーン。やっぱり、怒ったかい?」

怒りはしないが正直、あまりの心証の悪さに落胆はしていた。いつもの俺なら笑って済ませられるはずなのに、他でもないテッドに言われたことが胸に応えて顔に出てしまったらしい。

「すまなかったね」

謝らせてしまった。俺は、かぶりを振って笑みを繕った。

「今日は良く謝るな。テッドに非は一つもないのに」
「いやまぁ、そこでだ。お前さんの赤い糸はもう、繋がる相手を見つけ出しているのかとね?」
あ゛?
「さぁ、どうかな?目に見えるものじゃないし……」

言ってからシマッタと思った。
朝也のことをおくびにも出さないつもりなら『そんな人はいない』の一言で良いものを、わざわざ歯切れの悪い言い方で分を悪くした気がする。他のことならシレッと誤魔化せるのに、朝也を意識すると嘘が下手になるんだ。テッドが俺の朝也への想いなど知るはずないと判っていても言葉尻を捉えればいくらでも勘繰れそうで、色々見透かされるんじゃないかと鼓動が高鳴る。
彼の言葉が只の好奇心で無いことはその真剣な眼差しから窺えた。自然と背筋が伸びる年長者の眼をしていた。その視線の先でラスが此方を見ていたが、その眼は俺の言動一つ一つまで見落とすまいとするように注意深く感じられた。

「そんな興味津々な眼をされてもね。しばらく、後ろを向いていてよ」

暗に聞くなと伝えると、ラスは一瞬、物言いたげな眼をしたが黙って身体を反転させた。
俺は身体ごとテッドに向き合った。相手が大切な話をしようとしている時は全霊を傾けて聞く姿勢を見せるよう、子供の頃から養育係に言われて育った。必要に迫られたら朝也のことも話さざるを得ないだろう、それぐらいの気構えでいたんだ。ところが、テッドは全く別のことを考えていた。まるで、ピクニックの計画でも話すような大らかな口振りで突拍子もない話を持ちかけて来たんだ。

「シェーン。ウチの末娘と結婚する気はないか?」
「は?ちょっと待ってよ。何を言い出すの?」
「思いつきで言っているのではないのだよ。女性を愛せるなら此方としては願ってもない話だ」
「それ今、ここでする話?末娘ってアリッサは未だ14歳だろ」
「もうじき15だ。追っつけ大人になる。3年もすれば、あの子は美人だし頭も良い、きっと良い伴侶になる。もちろん、アリッサもシェーンが好きだと言っている。いい話だろう?」

テッドは本気とも冗談ともつかない明るさで、サンタクロースが笑う時のようなウオッホッホという声をあげた。目眩がする。いつからそんなことを考えていたのか見当もつかないけれど、彼の面子を傷つけないカタチで穏便に断るには、どう言えばいい……?
少し考えて俺は答えた。

「ダメだよ。俺には出来ない。……ごめんなさい」

深々と頭を下げて精一杯の誠意だけは示した。穏便にとか面子を傷つけないようにとか、頭をフル回転させて言葉を探したけれど、探せば探すほど直球が一番、真摯な言葉のように思えた。

「惜しいね……」

それは胸に迫る声だった。
朝也のことがなくても俺はこの申し出を断ったと思うけれど、収入の不安定な俺に愛娘を託そうなんて大博打を本気で考えるほど俺を買ってくれていることは有り難かった。それ以上、詰め寄るでも理由を問うでもなく、ただ、承知したと言うふうに俺の肩を叩いたテッドは、

「思った以上にストイックな男だね」

と、相好を崩した。恥ずかしいくらい内実を見抜かれている。
確かに明日も見えないその日暮らしの現状で、あと3年頑張ったところで大して生活は変わらないだろう。そんなに甘い世界じゃないことぐらい解っている。一人飢えてブッ倒れるのは構わないが、誰かを巻き添えにするのは荷が重い。と言って援助を受けることも考えられない。俺はそこそこプライドが高いんだ。テッドはそれを良く解ってくれている。

「俺が画家で無かったら、目の付け所は悪くなかったのにね」

冗談交じりに言うと、テッドは可笑しそうに声をたてて笑った。彼は、いつも優しい。

「シェーンは娘の初恋を失恋にした憎らしい男だ。とんだ見込み違いだったな」

なんて俺が罪悪感を覚えないように軽口を叩いて、一笑にして引き摺らない。

「アリッサがマリッジ・ライセンスをとれる頃、俺は30手前のオッサンよ?その頃、捨てられてみ。泣いちゃうから」
「そうかね」
「そうだよ。それに……違うと思うよ?アリッサの『好き』は長い長いショッピングに文句も言わずに付きあって、荷物を持ってくれる便利で優しいオニイチャンが好きって意味。だって、恋の相手ならランジェリーショップの前で1時間も待たせる?彼女は可愛いから良いけど、目の遣り場に困ったよ」

テッドの眉間に皺が刻まれていく。あれ?まずかったか……。

「いや、近くのカフェで待っているって言ったんだよ?でも、店の前に居てって言うから。あ、買った下着は見てないからね。じゃなくて、あー……もう、ごめんなさい」

何で謝っているのかは自分でも解らない。ただ『考える人』になってしまったテッドと堪らず噴き出したらしいラスの笑い声が妙な空気を漂わせていた。

「どうやら、娘の赤い糸は未だ赤く染まりもしないようだ。シェーン、付き合わせてすまなかったね」
「ううん。お礼にランチを御馳走になったし」

ポロッと言うと、ラスが背を向けたまま呆れ声で口を挟んできた。

「貴方は14歳に払わせるのですか」
「だってアリッサ、いい小遣い貰ってんだもん。一食、浮くと絵の具が一本、買えるの」
「ダメな大人ですね」
「何とでも言えよ。そのへんの小さなプライドは俺、捨てているから」

俺たちの遣り取りを聞いていたテッドまで笑い出して、その場は何となく収まった。

「赤い糸も良いかも知れませんね」

態度を軟化させたラスが、俺たちに迷惑をかけた詫びだと綺麗な色のカクテルを作ってくれた。
もっとも、俺との会話でコタエを見つけた訳ではなく、不毛な問答に終止符を打ったと言う方が正しいのだろう。それでも何処か晴れ晴れとして見えるのは少しは気持ちを整理するキッカケになったということだろうか?シェーカーを振る鮮やかな手つきに見蕩れていると、ラスの吹っ切れた声が「どうぞ」とグラスを差し出してきた。テッドにはウィスキーがベースと判る芳醇な香りを放つ琥珀色のカクテルを、俺にはすみれのリキュールがベースの透明感のある紫が美しい『ブルームーン』を……。

「最後まで嫌味なんだから」

月形のレモンピールがグラスの中でユラユラしている。
俺がニックを振った時にオーダーしたカクテルだ。『出来ない相談』『叶わぬ恋』という意味がある。

「味な真似をされるじゃありませんか。ニックが悔しがっていましたよ」
「本当に何でも聞いているんだね。でも、これを最初に教えたのはアイツだよ」
「おや、そうでしたか」
「この店に通い始めた頃ね、遊びの解らないヤツが本気で口説いてくるのが興醒めだって言ったら、黙ってブルームーンをオーダーするのがスマートな断り方だとアイツが言ったんだ。実践したのは初めてだったけど、そうスマートでもないよね。逆上させちゃったし」
「貴方という人は本当に人を怒らせるのが、お上手だ」

ラスは露骨に嫌な顔をしたが、

「だって、もう断る言葉がついえてしまったんだもん。耳鳴りめいた『アイシテル』が胃を悪くするんだから仕方ないでしょ?俺の何を愛してるの?と訊いても気の利いた台詞一つ返せないところに彼の本気を感じなくも無いけど、俺は愛せないもの……」

あっけらかんと言うと、ラスは苦々しく口許を引き結んで頷いた。

「でも、反省はしているよ。やっぱり、これは良くなかったよね」

喉奥を伝うブルームーンのほろ苦さ。
朝也に恋する以前の俺なら、きっと、好きだと言われた時点で酷い言葉を投げかけ秒殺したと思う。
人から寄せられる好意に懐疑的と言うか、人の感情の機微に無関心と言うか、恋や愛や、そんな不確かなものに何の期待も持てなかった。そんな俺を朝也が変えた。心を掴まれて嫌悪感でなく喜びを感じたのは初めてだった。絶対的な存在を得て、俺は人の気持ちを汲みとることを意識するようになった。
だから、ニックには出来れば穏便に諦めて欲しいと言葉を尽くしたつもりだった。
結局は意思の疎通が上手くいかず、ホテルのバーでブルームーンをオーダーした嫌味が彼を激昂させ、ルームキーを見せられたのが運の尽き。彼は心に、俺は肩に傷を負った。襲い掛かってきた彼との体格差は歴然で、狭い室内で抗う内に壁に打ち付けられた衝撃で剥き出しになった金具が皮膚をえぐった。慣れないことはするもんじゃないね。
まだ痛むのは肩の傷か、それとも……。

「こんなことなら老け専だからノーサンキューで通せば良かったかな?アイツ、折角、俺とテッドがソッチの関係だって誤解しててくれたのにね」

フフッと笑うと、顔を赤くしたテッドが「気味の悪いことを言いなさんな」と呆れ声を上げた。

「……そーね。出来なかったよ」

嘘をつけなかった。朝也に。たとえ方便でもテッドと関係のあるフリすらしたくなかった。
けれど、そんな真意を知らないラスは俺の『出来なかった』という言葉を好意的に解釈したらしい。

「貴方なりに嘘のつけないほど、真剣にニックと向き合っていてくださったのですね」

面映ゆかったが、そのままにしておいた。

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テッドは笑みを浮かべていたが、その笑みに俺の好きな皺を刻んだ人好きのする陽気さはなく、目が合うと、じっと見透かすような眼差しを向けてきた。身じろぎ出来ず目を逸らすことも侭ならないほど神経が高ぶる。何か言いたげなのは、一目瞭然だった。

「ラス、外してくれる?」

促すと彼も張り詰めた空気を感じたのか、一礼して座を外した。去り際に「貴方と話せて良かった」と笑ってくれたのが、せめてもの救いだったかもしれない。
彼が気を利かせたものか潮の引くように辺りから人が消えて、余計に落ち着かない静まりようだった。互いに黙ったまま時間にして5分ってトコか、居た堪れなくなった俺が新しいビールに手を伸ばしたところでテッドが口を開いた。

「ニッポンに帰るのかい?」

言葉も無かった。
動揺した俺は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えて固唾を呑んだ。

「どうして?」
どうして気付いたの?と、俺はテッドの横顔に訊いた。

「逢いたい人がいるね?誤解を嘘にしてしまえなかったのは、その人を愛しているからだろう?」
「……ダメね、オレ」

身体の奥深いところで桜が香る。
朝也を想うだけで胸が苦しい。いっそ、正体もなく酒に酔ってしまいたいと思うほどに……。
伏し目がちになったのは顔を見られたくなかったから。酒で喉を潤したのは上擦った声を隠したかったから。そして、瞼を閉じたのは目頭が熱くなるのを殺してしまうためだった。
俺は朝也を想い始めると病的なまでに脆い。

「おいおい、シェーン!泣かせるつもりは無かったんだがな」

狼狽てたテッドが胸から尻からポケットを叩いて拭くものを探している。
そのバタバタした仕草が可笑しくて、俺は泣きながら笑ってしまった。

「いらないよ。スマートじゃないね」

目元を袖で雑に拭うとテッドに手を取られ、そっと肩を抱かれて俯いた。

「お前さんのこんな顔は初めて見るな。誰を想って泣くのだろうね」

その声にまた涙腺がバカになりそうで、俺はテッドの腕に縋って顔を押し付けると気持ちが落ち着くまで動かずにいた。髪を撫でるゴツゴツした手や子供をあやすようにポンポンと背を叩く温かい掌、朝也に抱かれるのとは違った安心感が妙にくすぐったかった。例えばそう、幼い頃に憧れた父親像とはこんなふうだったかもしれない……。

「いつから?」
いつから気付いていたの?と、俺は顔を伏せたまま、テッドに訊いた。

「そうだね。お前さんが、いつになく他人事に熱心だったから、何かあると思ってね」
「まるで、俺が不実みたいじゃないか」
「いつものシェーンなら面倒臭がって取り合わなかったさ。それが出来ずにあれほど熱くなったのは、あのバーテンダーに自分を重ねたからじゃないのかい?」

顔が熱い。
触れられる手の心地よさに懐いていると、段々、恥ずかしくなって顔を上げるタイミングに窮してしまったが、この察しの良いオッサンはそんな俺の自尊心すら配慮するにもソツがない。

「息子も良いものだな」

なんて冗談を言って、そっと俺を放した。

「一緒に酒を飲んで、たまに、こうして頼られるのも悪くない。今、ワイフに息子も産んで貰うのだったと後悔しているところだ。まだ、間に合うと思うかい?」
「年上女房を殺す気かよ。ガキが酒を飲める歳になる頃、オッサンは棺桶に片足突っ込んでいるね」
「わははは!口の悪いヤツだ」

大好きなテッド。自分の我儘で離れるとはいえ、余りに深く関わり過ぎた。
これまでにも沢山の人に出会ったが、他人で居られる距離を保ってきたからか、これほど感傷的になることはなかった。

「……俺に甘え癖をつけるからだ」

思わず口をついて出た声は自分でも意外なほど幼いもので、テッドの顔に刻まれた皺が動くと、その大きく引き結んだ口許がたるんだ頬を押し上げていた。

「笑ってやがる」
「可愛いことを言うからさ。何て顔をしているんだ、シェーン。そんなにしょぼくれて。それが、これから好きな人に逢いに行こうってヤツの顔かね?」
「だって……俺、許されていいのかな?」
「妙な言葉を使うんじゃない。許すも許されるも無いもんだ。全ては、お前さんの意志によるのだよ」
「そうだけど……」
「お前さんは良く頑張ったよ。仕送りの十分な資産家の坊ちゃんが、どうして、その日の飯代と画材代を秤にかけるような貧乏をするのか察し兼ねたがね。気骨のある子だ。ひょっとすると、親にも頼る気はないのかもしれないと思うと得心がいった。違うかい?」

違わないから、声も出なかった。

「驚いた顔をしているね。実は、お前さんの素性は知っていたよ。一度、兄だという人がギャラリーを訪ねてきて、仕送りはしているから必要以上の援助はしないでやって欲しいと頼まれてね」
「いつの話?何で居場所がバレてんだ?」
「さて、お前さんと出会った翌年だったかな?随分、探したと言っていた。チェルシーには若い芸術家が多く集まるから、運良く行き当たったのかもしれないね」

5年は前の話だが『運良く』ということはないだろう。
その頃、俺はミッドタウンの美術大学に通っていて、食費を削ったり小銭稼ぎをしては美術館巡りをしていた。特にバワリーSt.にはコンテンポラリーアート専門の美術館があって足繁く通った。マンハッタンには父の会社の支社が在るから、そこから手が回ったのかもしれない……。

「テッドの機転に感謝するよ。俺が今も此処にいるってことは、その時、大学も寮も伏せてくれたってことだからね。喋られていたら間違いなく連れ戻されていた」
「そうでもないと思うがね?彼には暮し向きこそ訊かれたが、居場所は遠慮すると名刺だけ置いていったからね。出来た兄さんだと思ったよ。弟の絵を感慨深げに見ていたな。いい顔で微笑っていた」

わらった?それは、俺の生き方を応援してくれるってことなんだろうか。

「ったく、人の絵を勝手に見せないでよ」
「嬉しそうな顔をして……」
「ちげぇーし!」

11も歳の離れた兄は当時、父の会社からシリコンバレーの協力会社に出向していて、サニーベールにいた。カリフォルニア州だし、まさか、偶然にも見つかるわけないって俺は高を括っていたんだ。

「アメリカ、狭ぇ……」

テッドは可笑しそうに笑いながら、項垂れた俺の頭を上からグリグリ押さえつけてくる。

「どうして、教えてくれなかったの?」
「彼の意向だ。世間知らずで心配だと言っていた。早く帰国を報せて安心させてやるといい」
「ハッ、温室育ちが何、言ってんだか。兄さんだけが俺に過保護なの。俺はガキの頃から放っとかれてんの。雑草は逞しいんだよ」
「よく枯れる雑草だがね。お前さんは今までに何度、倒れた?どうして、そこまで無茶をする?」
「どうして、って……。絵を描きたい他に何があるの?」

本当の理由なんて知らなくていいと思った。
画家という職業に懐疑的な親との確執なんて聞こえの良いものじゃないし、聞かされる方も迷惑だ。
僅かに言い淀んだ俺をテッドは物言いたげに見据えたが、拒絶の色を察したのか深入りして来ない代わりに大きな溜息をついた。そして、両の掌で俺の頬を包み込むと、年端のいかぬ子供に何事か言い含めるような慎重さで、こう言った。

「いい加減にブレーキの掛け時を覚えておくれ。お前さんは仕事をし出すと寝食を忘れるのが心配でならない。これからは、私もジニーも居ないんだ。ちゃんと食べて身体に気を付けるんだよ」

そんなふうに言われると本当にサヨナラなんだとしんみりもして、俺は催眠術にでも掛かったように彼の双眸から目を離せなくなっていた。
画家を志して家出同然に日本を出たものの、チマチマ貯めた軍資金なんて3年もすりゃ底をついた。それでも学びたいことは未だ山ほど有ったし、諦めきれずに俺はそれまで無い物としてきた親からの金に手をつけた。俺に干渉はしても関心はないと思っていた父からの送金は相当額、貯まっていて、俺の自立心など嘲笑うように魅力的だったからね……。その時、日本を離れて初めてイングランドにいる親に電話をしたけれど、1分にも満たない親子の会話はそっけないもので、俺の返済の意志は「不要」の一言で一蹴された。志を解って貰おうなんて期待はとうに捨てていたけれど、どういうつもりであれ、居場所も判らない息子の口座に振り込んでくれることに感謝はしていたんだけどな……。
落胆はしたけれど、父の冷たい言葉に俄然、奮い立った。
返済の申し出は親の七光りで周囲にちやほされてきた俺の卑屈さの表れでもあったが、兄のように経営の一端を担う生き方を拒否した俺の意地でもあった。今思えば、その態度が父の感情を逆撫でしたのかもしれない。俺は全く可愛げのない息子だ……。

「色々と世話になったね」
「そういうの、よしなさいよ」

俺の言葉にテッドは目尻に皺を寄せて照れ臭そうに笑ったが、俺には泣き顔に見えた。

「いつ、発つ?」
「出来るだけ早く」
「そうか、忙しくなるな。何から始める?」

世話好きのテッドは当たり前のように準備を手伝う気でいるらしい。矛盾しているが、あまり協力的になられると帰国を急かされるようで口を尖らせたくもなる。

「んー?まずは髪を切るよ。新しいステージへ踏み出すなら、視界は良好でなくちゃね」

テッドは一瞬、ポカンと俺を見つめたが、チョキチョキと髪を切る仕草を見せると「そいつぁ、いい」と言って笑い出した。

「プロポーズも見てくれからか。よし、餞別にスーツを仕立てよう。お前さんは彼女の心をガッチリ掴むセンスの良い台詞でも考えるんだな」
「へ?」
「結婚式の招待状を待っているぞ。シェーンの愛しい花嫁に会える日が楽しみだ」

あ、……れ?ちょっ!
無理もないが、テッドは完全に俺の逢いたい人が女性だと思い違いをしていて、情熱的な言葉を用意しろとか、花を忘れるなとか勝手に盛り上がっている。俺は今更、正す気にもなれず、自分でもハッキリ自覚するほど赤くなった顔を誤魔化そうと更にビールを含んだ。

「可愛いねぇ」
「茶化すな。酔っただけだ」

プイッと顔を背けたが、テッドの気配は言葉とは裏腹に消沈して感じられた。気の優しいオヤジだから、俺に気を遣わせまいと明るく振舞うのだろう。俺は本当に大事にされている。




それからの俺たちは感傷的な気分を払拭するように酒を呷り、今後について語り合った。
仕事は俺が望む限り、これまで通りサポートしてくれると言うし、神戸に知り合いのギャラリストがいるから紹介状を書こうとまで言ってくれる。
本当は俺を責める気持ちも有るはずだ。出会って6年、日々、多彩な芸術が泉のように湧くこのニューヨークで、何の後ろ盾もない無名の新人に卵の殻を割らせるのは並大抵のことじゃなかったと思う。
それなのにテッドの物言いは俺を手放すことも視野に入れているように聞こえるんだ。
テッドにとって俺が失っても惜しくない存在であるはずがない。彼は誰より俺の絵を認めてくれているし『Shun』を愛おしんでもくれている。

「Shunがテッドの最高傑作になるように頑張るよ」

真っ直ぐにテッドを見据えて口角を引き上げると、

「何て綺麗に笑うんだい、お前さんは」

額に一撃、ペシッと指で弾かれて咄嗟に眼を瞑った。
次に開いた時に見たテッドの表情は何とも慈愛に満ちていて、時々、セントラル・パークで見掛ける散歩中のマスティフを思い出させた。その飼い主は良く妻とバギーで眠る赤ん坊を伴っていて、犬は傍をクルクル回っては大きな顔を近づけ、静かに赤ん坊を見守っている。テッドの眼は何処となくそのマスティフの眼を彷彿とさせて優しかった。俺がクスクス笑っていると、

「お前さんは、また余所事に考えを巡らせて笑っているな?」

と、眉根を寄せて苦笑する。
こんな些細な遣り取りでさえ胸が熱くなるなんて少々酒が過ぎたらしい。瞼の熱っぽさも、この泣きたい気分もきっと酔いのせいだ。ほどなく視界もユラユラし出すのだろう。

「日本へ発つ前に俺がテッドに出来ることはある?」

せめてもの礼のつもりで聞いてみたが、テッドは深く目を閉じて黙って首を横に振った。
あるいは俺の言い方が惜別の情を助長させて、答えたくなかったのかも知れない。

「そうか……。欲がないんだな」

残念だ、と言う言葉を呑み込んで、そう言い換えた。努めて、あっけらかんと言ったつもりだったが、上擦った俺の声は馬鹿正直に落胆していて、テッドに申し訳なさそうな顔をさせてしまった。

「じゃあ、俺から一つ頼まれてくれない?」
「あぁ、何でも言ってごらん?」
「当日、見送ってくれないか?」

これまで誰にも見送らせなかった俺には意味のあることだった。
なるべく人を懐に入れずにいた所為もあるし、何よりやっぱり、自分が苦手で避けて通って来たのだと思う。ただ、この別れは区切りと言うか……特別なものに感じていた。

「背中を押してくれないか?」

テッドは口許をキュッと引き結んで、ウム、ウムと何度も頷いた。

「泣かないと約束するなら、行ってやらなくもない」
「じゃ、決まりだね。そっちこそ、俺にハンカチを出させるなよ?」

突然、上階で低く唸るようなどよめきと手拍子が沸き起こると、腹の中がズドンと跳ね上がるような大音量で軽快な音楽が鳴り出した。ショーの始まりだ。パフォーマンスに興じる客たちの足を踏み鳴らす振動が店を揺らし、階段の踊り場からチカチカと色とりどりのライトが差し込んでくる。

「始まったね。テッド、見に行こうか」
「珍しいな。お前さんは大抵、このタイミングで店を出ようと言い出すのに」
「だって、このバカ騒ぎも見納めだ」

スツールから腰を浮かせてテッドの腕を掴むと、彼は意外そうな、けれど、愉快なものに出くわしたような笑みを浮かべた。
連れ立って席を立つ俺たちを見て「Hi!Shun.」と口々に声が掛かる。
追い越しざまにケツを撫でて行くヤツもいれば、どさくさに紛れて連絡先を書いたメモを胸ポケットに捩じ込んでくるヤツもいる。いつもの景色なのに今夜は一際、愛しく思えて、いっそ閉店まで夜通し遊び明かそうかという気になっていた。階段を上がる途中で保護者然と従うテッドに振り向くと、俺は片手で手摺りを掴んだまま、やや不安定な態勢ではあったが彼の頬にキスをした。ほら、グリルパルツァーの詩にあるだろう?万感の思いを込めた『厚情のキス』ってやつだ。
その時のテッドの表情かおは見ていない。
俺は勢いよく階段を駆け上がり、吸い込まれるように音と光の渦に呑まれていった。

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