「で?上手くやれそうか?」
油の匂いに顔をしかめた朝也がネクタイを解きながら、例の如くスーツやシャツを脱ぎ捨てていく。昨夜も帰宅が遅くて疲れているようだったから、俺は一日遅れでBeau Talentボータロンでの一部始終を話していた。

「手応えは感じたよ。作風に理解を示して貰えたし、予定の時間を過ぎて次はもっと大きな仕事を見ながら話の続きを聞きたいって言うんだ。訊き足りないと思わせられたなら上々だよ」
「お前は弁が立つんだな」

ヘンリーネックのスウェットの上下に着替えた朝也は、冷蔵庫にミネラルウォーターのペットボトルを取りに行く。この後は風呂のスイッチを入れて軽く夜食でもというのがルーティンなのだと、俺は最初の3日間で知った。その動きは定規で線を引いたように無駄がなく、神経質でもなく、むしろ優雅に見える。

「俺ね、商業デザインとかもするの」
「広告とか?」
「そう。ポスターとか看板、包装紙とかさ。でも、企業に属しているわけじゃないから自分で売り込んで仕事を取りに回るんだ。それで鍛えられたのかも?」
「逞しいな」
「だろ?描きたい物のために稼ぐ絵も描くの。俺の収入源はそれらに頼るところが大きい。どーだよ、朝也が建築士になるって言ったから俺も夢を諦めなかったよ」
「俺?」
「そう。朝也がいなかったら、世界は『Shun』という画壇の逸材を永遠に知ることはなかったんだ」

朝也は「良く解らんが」と呟いたが、道化た俺の大層な物言いに堪り兼ねたふうに笑った。

「成程。それは大変な損失だ」
「その通りさ。だから朝也、礼を言う。……ううん、」

そして俺は大真面目に、いつか伝えたいと願ってきた7年越しの思いをようやく届けることが出来た。
今までの誰に向けた礼よりも深々と、俺はこの同級生に心の底から頭を下げた。

「感謝している。ほんとうに……本当に有難う」

朝也は何も言わない。その胸にどんな思いが去来するのかは判らないが、少しして、一音一音が胸に打ち込まれるような深く力強い声が言った。

「俺は俊平を尊敬する」
「え?」

俺は眼を屡叩しばたたかせた。何を言われたか、すぐには解らなかったからだ。

「どうした?」
「『尊敬』って、何?」
「可笑しなことを言ったか?」
「言ったよ!いつも手を引いているヤツが引かれて歩いちゃうくらい可笑しいよ!だって俺は今、自分が朝也の何処にいるのかも判らなくて……」
「お前は自分を過小評価しすぎだな」
「……?」
「俺の進路がキッカケだったとしても努力をしたのは、お前だ。俺はその努力に敬意を表すると言っている」
「ぁ、……うん」
「で、自分が俺の何処にいるか判らないって?前を歩いているからとは考えないのか?」
「え?……ぁ、んん?」

眼を白黒させて首を右に傾けたり左を仰いだり俯いてみたり……、嬉しくて泣きたくて朝也に抱きつきたくて、そうやって完全に感情の均衡を失っている俺を落ち着かせたのは、
「俺もウカウカしていられないな」
と、背を叩いてきた朝也の大きな掌だった。新たな力が湧いてくる。

「やっぱり、朝也は大きいな……」
「お前が小せぇんだよ、今、何センチ?」

俺は人としての器が大きいと言ったのだが、ピンッと指で額を弾かれた。
咄嗟に眼を瞑った次の瞬間には、もう朝也は目の前にはいなくて、

「本格的に仕事を始めるとなると、ここでは狭いだろう?」

と言う声が廊下から聞こえてくる。俺は散らかした書斎を見られたら追い出されるんじゃないかと、慌てて追いかけた。

「契約は一旦、事務所に持ち帰るって言われて、まだ本決まりじゃないんだ」
「そうか」

明らかに落胆した声だ。朝也の性格だと、それなら無下に追い出せもしないと思ったのだろうか?
イーゼルの前に立った朝也の背に俺は畳み掛けた。

「でも……頭の中で鳳仙花の実がパチンと弾けたの」
「花の絵には見えないが?」
「花なんて描いてないよ?」
「え?」
…………………………。
「んぁー、こう……有るんだよ、インスピレーションの湧く瞬間の音っていうか」
「あ?……あぁ」
「でも、この臭いが迷惑をかけるなら油彩はしない。だからその……だから……」

俺は『ここにおいて』と言いたくても図々しくはないか、時期尚早じゃないか、と言葉を選んでしまって上手い言葉が見つからない。すると朝也は、俺の心中などアッサリ見透かしてしまった。

「待て。追い出しやしねーよ?」
「ほんとうに?」
「あぁ」
「そっか……良かった」

心底、ホッとしていたら、朝也の片腕が無造作に俺の頭を抱き包み、
「強気の俊平は何処に行ったんだろうな?」
なんて笑う。強気の俺なんて端から居ないのに……。

「で、この絵は?」
「えっーと……俺の脳内イメージ?」
「いい加減、ぶっ飛んでいるな」

笑った朝也がクシャミをした延長で「ううむ」と低く呻き、鼻をこする。

「そんなに臭う?それより、腹減らない?」
「お前、よく、この匂いの中でメシを食う気になれるな?」
「だって、何も食ってないもん」
「は?」
「絵に没頭して忘れてた。今朝は起き抜けに朝也が黙って出社するの慌てたし、お前、起こせよな」
「どうして。寝ていればいいだろう?」
「ダメだよ!ちゃんと、いってらっしゃいしたいじゃん……って、何?今のキモって顔……」
「えーと……そのまま?」
「朝也、コロス!」

腕まくりをして念入りに手を洗った朝也が俎板まないたを取り出し、冷蔵庫の野菜室から大根や人参やネギや……もう、何を作るのか見当もつかない色々な野菜を抱えてくる。

「今から作るの?俺、カップ麺でいいよ」
「お前、昨夜も食わなかったか?」
「日本のカップ麺は旨い。問題ない」
「問題、大アリだ。時差ボケはないなんて鏡を見ろ。疲れた顔をしているぞ?」
「それは……」
理由が違うんだが。
「とにかく、メシは食え。青白い顔をして具合が悪そうだ」

朝也の顔つきが本気で心配していると判って、ますます、本当のことが言いづらくなった。
だって、溜まっているだけだなんて流石に言いづらいだろう……?

「わかった、善処する」
「善処じゃない。絶対だ」
「朝也って、案外、鈍いよね?」
「ぁ?」
「世話好きだね、って言ったんだよ」

もう何日、ヌいてないっけ……?
自分で始末する努力はしたんだ。けれど、この家は何処も彼処も朝也の匂いで一杯で、最強のパートナーであるはずの右手がまるで効かないんだから仕方がない。俺の脳は馬鹿に精巧に朝也に抱きしめられた再会の夜を憶えていて、カラダが節操なしにその手を求めるんだ。

「ニューヨークにいた頃は、もう少し聞き分けが良かったのに」

わかってるよ、もう自慰じゃ満足できないってこと……。

「はぁ……俺、寝る」
「メシは?」
溜息をついた俺に朝也が振り返りもせずに言う。何だかイライラした。
「いらない」
「勝手にしろ」
抑揚のない声が突き刺さる。

……どういうつもりなんだか……。
俺はこの数日、朝也の深意を量りかねていた。7年越しの再会も朝也には7年の時を経たという他に何の意味もなく、互いを求め合った関係も、もう狂ってしまったように思われた。そもそも、その関係そのものが狂っていたと言われたら、引き摺り込んだ俺は苦笑うしかない。それでも、後悔の種にはなりたくなかった。
この日の朝也の帰宅はいつもより早かったが、残業残業でいつ帰っているのかも判らない。待ち草臥れて寝てしまっては未明に目を覚まし、シャツのままソファーの背もたれに斜めになって眠りこむ朝也を見つける。解きかけのネクタイを首に絡めて、良くもまぁ落ちずにいるものだと思う不安定な姿勢で寒さに広い背を丸める姿は愛おしい。
『不用心だな、風邪ひくよ……』
それは、高校生の頃、校舎の屋上に忍び込んで陽だまりに包まれ眠っていた、あの顔だ……。
起きている間は到底、俺の好きになるヤツじゃなくて、それはもう適わない男で、けれど、その寝顔を見ている時だけ手中に納まる気がしていた。
『あの頃みたいに俺を抱かねぇの?』
素振りひとつ見せなくてさ。俺のこと今はどう思ってんの?
『襲うぞ、バァーカ』
そっと毛布を掛け、髪に、その肩にキスをして……そんな夜をもう幾夜、過ごしただろう?
嫌がらせかと思うほど噛み合わない俺たちのライフスタイル。時間がきて腹が減れば冷蔵庫を開ける。朝也の作り置きを適当に摘まんで空腹を満たし、朝也の香りを消すように油彩具を広げ、ただ無心に絵を描く日々……まるで動物園で飼われているのと変わらない。愛想を振りまいて金が獲れるだけヤツらの方が余程、役に立っている。俺は何のために帰って来た。いっそ、俺を抱けと言えばいいのか?

『自分が生まれた意味を分かち合える人と共に生きていけるとしたら、至上の人生だと思わないか?』

ジニーにうそぶいた言葉を反芻する。
朝也の現在いまにアンテナを巡らせて、訪れるかどうかも判らない好機に期待するなんて、全くナンセンスに思えてきた。リビングの扉に手をついて吐き切れるだけの大きな溜息をひとつ「ねぇ……」と、朝也に振り向いた。

「何だ」
「お前、今でも男を抱くの?」

俎板に林檎でも落としたような、ごとりと鈍い音がして、

「なんだ?その訊き方……」

朝也の冷え切った声が静かに俺を震わせる。散漫な頭で馬鹿な言い方をした。
気まずい空気にシマッタと言い訳を探した俺と、付き合いきれないとキッチンを出た朝也、咄嗟にその腕を掴んで壁に追い詰めたのは良いけれど、逃すまいと突っ張った両腕は緊張で無様に震えていた。
この男は少しも動じない。微かに口角を引いて、その涼しい眼の奥で俺を嗤うんだ。

「言い直せ」
「……どこでだっていいよ」

今は恋とか愛とか、そんなものどうでも良かった。ただ、欲しかった。この男の熱が欲しかった。
懸命に伸び上がるのも久しぶりで、高校生の頃より足を踏ん張らないとキスをせしめることも出来ない長身が恨めしい。……カチッと鳴って朝也が背中で部屋の灯りを消したのだとわかった。

「来い」

俺はその言葉を待っていたように思う……。

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