コッコッと音がして、いやな人に捕まった。
硝子戸を外からノックした虎さんが、面白いものを見たという顔で狭い店内に入って来る。
嫌と言うこともないが、女性に前後を挟まれてレジに並ぶ俺を揶揄うに決まっている。高校時代からそういう子供みたいなところが、この二歳年上の藤丘先輩にはあった。

「奇遇だな、朝也もホワイトデー?」
「も、ってことは貴方もですか」
「そ。麻衣ちゃんからのリクエス……って、お前、そんなに買うの?」

一番大きな四角いギフトボックスには小ぶりのカヌレが三十個入っている。
それとは別にオーバルの十五個入りを二つ、その一つは俊平のために此方でフレーバーを指定したものだ。ラム酒ベースのプレーンにカカオ、抹茶パウダーをまぶして黒豆を添えたもの、日本酒を使った柚子、クラッシュした果肉が甘酸っぱそうなフランボワーズと絶対に外せないクランベリー、ブランデーベースのアプリコットやリキュールを使った季節限定のサクラ……。
俊平が好みそうなものを詰めて貰ったら、桜の樹を閉じ込めたようにピンクと緑と茶色で埋まって、鼻先を出会った頃の春の校舎の香りがかすめた気がした。

「ホワイトデーのお包みで宜しいですか?リボンは、こちらからお選びください」
「では、白でお願いします。ひとつは判るように変えてください」

シャンパンゴールドの箱に掛かるリボンはホワイトデーのメッセージが入った純白のものとピンクの二色から選べたが、俊平には通常の店のロゴが入った中から、箱と同色のリボンでシックに纏めて貰うことにした。勘処のいい虎さんが直ぐにそれと気づいて、背中をバンと叩いてくるのが、どうにも居心地悪い。

「俊平からのリクエスト?」
「いいえ。この店は知らないと思います」
「秘蔵の店ってやつ?」
「そういう店の一つや二つ、あっても良いと思いませんか?」

「生意気」と鼻で笑った虎さんが、肘で腕を突いてくる。
会計を済ませてラッピング待ちの番号札を受け取ると、俺は他の客の迷惑にならない隅へ虎さんを押しやった。さもなくても、右にも左にも頭頂ばかり見下ろすような店内で、長身の男が二人、邪魔にも程があるだろう。

「この店は初めてですか?」
「そ。このあと、麻衣ちゃんに会うんだけど、一緒に来れば良かった。店探すのにこのへん二周もしたし、こんなに種類があるとは思わなかったしさ……」

確かにこの辺りは商業ビルが多く、人垣に隠れて見逃すような小さな店だ。
通路側は硝子張りになっていて、通りを行き交う人々が一様に此方を見るのが面白い。窓越しに整然と並ぶ菓子の華やかさが目を引くのだろう。店内はこぢんまりとした箱のようで、ブラウンカラーを基調とした洗練された佇まいをしている。
虎さんが何を選んで良いか迷いそうだと言うので、初めてなら店に任せるのも手だろうと言うと、

「それだな」

彼はアッサリ頷いた。

「今日は休みですか?」
「そ。艶夜に振られちゃってね」

休日に虎さんが一人でいる時は、大抵、艶夜さんに用事があるか趣味のバイクに興じている時で、それでも丸一日ひとりでいることはないと、以前、艶夜さんが言っていた。退屈と独りが嫌いな虎さんの周りには好きな時に好きなだけ付き合ってくれる友人が年齢や男女を問わず大勢いて、麻衣さんもその一人らしい。街で一緒にいるところへ出くわしても紹介されたぐらいだから、後ろ暗い関係ではなさそうだ。

「カヌレって旨い?」

と、訊かれて、僅かに返答に困った。この『旨い?』の答えはあまりにも人それぞれで、甘党だと聞いて饅頭が苦手だった人もいたから、少し身構えてしまう。もっとも俺の知る限り、虎さんの味覚の幅は雑食ほどに広いから問題はないと思うが……。

「ええ。手土産にも喜ばれますよ」
「艶夜も食うかな?」
「いいんじゃないですか?」
「オススメは?」
「プレーンとラムレーズン、あと、ブランデーチェリーですね」
「俊平には?」
「入れましたよ」

シレッと恋人の名を口にして、もう意識は『麻衣ちゃん』へのお返しより艶夜さんに買うカヌレでいっぱいなのが、顔を見れば判る。どんなに友人が多くて女性にモテても、虎さんの頭から彼の存在が離れることはない。艶夜さんは特別中の特別だ。

「クランベリーは入れた?」

今度はバレンタインデーに俊平が俺にくれたカップケーキのことを持ち出して、あいつの好きなクランベリーは入れたか?と訊いてくる。
「ぬかりなく」と答えた俺に、彼は「上出来」と満足そうに笑った。
ひと月前、俺はそのバレンタインギフトを夕食のあと、俊平が『紅茶を淹れるよ』と言ったごく日常的なさりげなさの中で受け取った。一足早く春が訪れたかのような色とりどりのカップケーキに、俊平が部屋いっぱい広げたカンバスや大きなパレットに絞り出した絵具の色を思って、七年ものNY留学を血肉にした画家、環俊平の背中を誇らしい気持ちで眺めたものだ。
ところが、そんなすげぇヤツが自分に向けられる好意には呆れるほど自信がない。
『お前の好きな物なら何でも知っている』と言わんばかりに俺が好みそうな味ばかり集められた中に、ひとつだけ、俊平が好きなクランベリーが混ざっていた。俺は、またかと思った。俊平は事あるごとに俺の関心が離れていた七年を経ても尚、自分に在るかを試したがる。だから、ヤツの中で正解は、

『俊平はクランベリーだよな?』

と、俺が言うことだったはずだ。
きっと、性格の判りやすさで言えば、自己主張の激しい俊平のほうが俺以上に好きも嫌いも考えていることも明け透けだと思うけれど、アレは自分ばかりが周囲にアンテナを張っているという顔をして、逆の眼に本当に疎い。俺とて俊平の好きな物は解っているつもりだし、今のあいつが何に興味があって、どんなふうに見ているのか、劣らず関心があるんだが……。そう思ったら、好きだと知っているクランベリーを好きだよな?と確認するのは俺の中で不自然に思えて、俺は何も訊かずに俊平にクランベリーのカップケーキをサーブした。
その時のあいつの顔、
初めて出くわした食べ物を見るようなソワソワした調子で、俺に『合格』って笑ったな……。

「艶夜さんから聞いたんですか?」
「クランベリートラップ……?環は判りやすいねって、あいつ眼ぇ細めてよ。お前がちゃんと気付くか心配だから電話しようとか言い出して、ほっとけって言ったんだ」

カップケーキを買うのに艶夜さんを誘ったと俊平から訊いていたから、話の出処はそこしかないが、クランベリートラップなんてゴシップ記事の見出しにもならないようなネーミングは虎さんが、ふざけたものだろう。失笑しかない。

「好物ひとつ忘れたぐらいで変わるような関係ならそれまでだし、あの理屈屋の俊平の思惑は、もっと別の所にあったのかもしれねぇけど、どのみち、お前らのドラマにチャチャ入れるとか無粋だろうよ?」
「色々バカで、可愛いことしてくれますよね」
「可愛いなんて言ってるお前も大概だと思うけどな?俺だったら、七年間音沙汰なしで好物も何も憶えてられっかコノヤローだし、面倒臭ぇわ」

そんな言い方をしても、何だかんだ仲間内で一番、面倒見が良いのはこの人だ。一ヶ月も前の、それも他人のクランベリートラップ?なんて、ふつうは気にも留めないだろう……。

「おかげさまで平穏です」

苦笑いした俺に、顛末は見届けたと言わんばかり、虎さんは「おう」と笑った。

 

 

レジの奥では店員が扱いにくそうなオーバルの箱にリボンを掛けている。

「今日、俊平は?」
「ダンナの留守中に美人妻とデートだ、って浮かれていましたよ」
「は?それ、やばい話?あいつが休日に、お前より優先する相手がいるとか有り得ねぇだろ」
「俺は遣り残したことがあって、出社していたので」
「止めるだろ、ふつー」

一連の動きに無駄はなく、端を揃えてハサミで切るチョキンという音が小気味良い。
店員に気を取られて虎さんへの返答がなおざりになっていたことに、少しして俺は気付いた。俺の言葉が不十分だったせいで彼の想像が良からぬ方へ逸れて行くのが、喜怒哀楽が表に出過ぎるその表情に見て取れる。たぶん俊平は今、虎さんの頭の中で人妻を誑かすけしからん男になっていて、本当ならここで修正するべきところを虎さんの反応が可笑しくて、つい悪戯心が湧いてしまった。

「年下で、まだ小さなお子さんがいるそうですよ。俊平も隅に置けませんね」
「魔が差したにしろ、人妻はルール違反だ。やめさせな」

ほう、そう来ますか……。

「ベビーカーを押すの初めてとか喜んでいたけど、あいつにもそういう気はあったんですね……」
「ぁあ?何だよ。お前さ、俊平もやっぱり女がいいんだとか考えんじゃねーよ?今すぐ呼び戻せ。本気になっちまったら、カヌレぐらいじゃ釣れねーぞ?」

イヌネコじゃないんだしそりゃそうだろうと出かかったが、口を開けば笑ってしまいそうで、俺は天井を仰いだ。ダメだ……。この人は根が善人すぎて俺の言葉を疑うことを知らない。たとえ担がれているにしても、いっそ、その方がマシぐらいなつもりで本気で、心配していそうな気がする。

「虎さん」
「あいつ、マジでそんな女いるのかなぁ?」
「と、言うと?」
「いつものアレ。お前の気を引きたいだけの小芝居?……にしちゃ、タチが悪いか」
「ホワイトデーのお返しを一緒に選んだので確かなんじゃないですか?幼児は何を食べる無添加なら平気かと、キャラクターがついたお菓子も買い込みましたからね」
「うわ、そんな俊平、見たくねぇわ……」

虎さんには憎まれ口ばかりきいて尖がっている俊平だから、本当は案外、子供好きなのをイメージ出来ないのだろう。もっとも、子供好きと子供に好かれるかは別問題のようで、笑いかけては泣かれ、抱きあげてはお漏らしされているようなヤツだが……。

「残念なのは、彼女、俺に顔が似ているらしいですよ?」
「は……?」

いい加減、気付くだろうと思ったが、俺には妹がいる。
俊平は今日、妹が好きなフィナンシェと紅茶のギフトを持って、姪には沢山のお菓子と途中で絵本を買っていくと言っていた。俺も一緒に行くつもりだったが、俺がいると更に姪に懐いて貰えなくなるのが不服らしい。今日は天気も良いし、今頃、危なっかしい調子で意気揚々とベビーカーでも押しているのだろう。
虎さんは怪訝な顔つきで俺を見る。いい加減、種明かしをして、俊平を姪っこに獲られない内に呼び戻そう……。

「虎さん、俊平は俺の妹に会いに行ったんですよ」
「ぁあ?」

鳩が豆鉄砲を食ったような顔が、みるみる、やられたって顔になって、

「朝也、お前な……」

彼は心底、安心したというふうに笑った。
札の番号が呼ばれてレジへ行くと、思った以上に気恥ずかしい大荷物になっている。
リボンが傷まないように紙袋を二手に分けてくれたようだが、手渡し用の余分な袋は職場へ持って行くための大き目の一枚だけ貰って、あとは断った。エコだ何だと云うけれど、こういう慣習は中々、なくならないのだなと思う。
このあと、俊平と落ち合って外で食事も悪くないとジャケットの上から携帯の在処を確かめたとき、通知音がポンと鳴って、キラキラの眼をしたネコがジタバタするスタンプが送られてきた。……俊平だ。

『顔が見たくなった。まだ、オフィス?』

同居していて顔が見たいもないもんだが、こういうことを臆面もなく言ってくる。
つい、口許が綻んだ俺の横合いから虎さんが覗き込んできて、両手で顔を覆うと「恥ずかしい」と道化た。どこにいる?と返信すると、妹を家まで送って出たところだと言う。続けてポンポンと『迎えに行く』『何時?』と入って、アホ面したペリカンみたいな鳥が『オツカレェエエ』と叫んでいるスタンプが俺を労って?くれた。

「アホだな、あいつ」
「いつものことです。車で行ってるので呼びますけど、麻衣さんとは何処で?乗って行きます?」
「お前んちの二駅手前。俺まで便利使いして、あいつ、むくれねぇ?」
「カヌレで釣れるので平気です」

話す間も俺は俊平と遣り取りをしていて、居場所を言うと『30 mins』と返って来た。
それなら買い物しちまうわと虎さんは俺の傍を離れ、家の近くまで戻ることになるなら夕食はどうしようと思ったところで、また、俊平からヘンなスタンプが入る。今度は、あまり可愛いとは言えないハシビロコウが親指を突き立てていて、

『色々おかずくれた』
『コロッ』
『カボチャの』

コロッケとカボチャの何かなのか、カボチャのコロッケなのかは判らないが、どこかに車を停めたタイミングで急いで送信してきたのだろう。
『了解、急がなくていい』と手短に返信したが、それは、しばらく既読にならなかった。

 


日が傾き始めて、客足の減った店内に飴色の風が吹く。
薄らと疲れを滲ませた店員たちも二言三言、交わし合って、時折、やわらかな笑顔を見せるのが好もしかった。

「そういえば、バレンタインデーに艶夜さんにチョコを贈ったそうですね?」

カヌレを物色中の背中にだけ聞こえるような声で問うと、待ってましたとでも言いそうな満面の笑みを浮かべて、虎さんは「その話、訊く?いいぜいいぜ」と、唄うような調子で言った。

「俊平の付け知恵に乗っただけなんだけどさ。何となくバレンタインっつーと、一緒にチョコケーキでも食う?みたいな空気だったのが、今年はそれらしい感じで過ごせたよ」
「艶夜さん、驚いたんじゃないですか?」
「それがさ、余り物を寄越す気?って顔されたの、最初は」
「それは、どういう……?」
「俺が女の子から貰った物を食べきれないから横流しした、みたいな?慌てて、ちげーよ、俺がお前に買ったんだよっつって、もう、こっ恥ずかしいから後は笑うしかなくて……」

艶夜さんを思うとき、この人は少しだけ幼い顔をして良く笑う。

「いい時間だったようですね」
「うん、上々」

好奇心旺盛な虎さんの買い物は大雑把なようで、理に敵っている。
この日、店頭に並んだカヌレは十二種類。十五個入りの箱に決めると端から全種類をひとつずつ、そこへ、自分が気になるものを追加していく。相手の好みはお構いなしかと思えば、

「好きなものしか食わねぇとか冒険心が足りねぇよ。自分で買うと、毎回、同じもの買っちまうとか無くね?それ、新しい物を知るチャンスを逃してっから!」

と、いうことらしい。虎さんから貰い物をすると、いつも、統一性のないものが入っているのは、気の置けない相手ほど有ったら有るだけか直感に頼る、この買い方によるものだと知った……。

 


俊平から、もうすぐ着くと連絡が入った時には予定を五分ほど過ぎていた。
信号の傍のドラッグストアの駐車場へ停めると言うので、俺たちも場所を移る。今年の桜の開花は例年を一週間も早まりそうだと今朝のニュースで言っていたが、街路樹の葉を揺らす風はまだ冷たい。今夜は長めの湯に浸かって、食後にカヌレでも食べながら、ゆっくりと俊平の話を聞こう。妹と何を話したのか、姪には懐かれたのか、送られてきたスタンプの数が多いときはテンションの高いことが多いから、きっと今日はゴキゲンで、話したいことがいっぱいあるに違いない。
甘い香りに鼻孔をくすぐられながら、俺は俊平の迎えを待った。


Happy White Day to someone special.

 

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蜂蜜色の紙袋を提げた女性の足取りはモデラート。
すれ違いざまに焼き菓子の甘い香りがして、俺たちは彼女が出てきた石畳を入って行った。
芝に猫足フレームのエレガントなガーデンテーブルセットが置かれていて、花壇や植木鉢にはデイジーの白やピンクが、まだ冷たい二月の風にも可憐に咲いている。

「環、ほんとうに入るの?」
「入るよ?何のために来たんだよ」

俺を苗字で呼ぶこの人は四室艶夜さん。
高校時代の二年先輩で、彼のDarlingの虎先輩と俺の朝也と何かにつけ四人で集まっては、旅行したり飲み会をして楽しんでいる。シャイでいつもどこか自信なげな人だけど、今日みたいに突然、誘っても嫌な顔ひとつしない人の好いところ、俺は好きだ。

「カップケーキを買いに行くって言ったよね?」
「電気屋に付き合えって言わなかった?」
「付き合ってくださいって言ったんだよ」
「言い方はどっちでもいいよ」
「だって、そうでも言わなきゃ、バレンタインのスイーツを買いに行くとか嫌がるでしょ?」
「嫌がると思っていて、誘ったんだ?」

騙したね?という眼をしても、次の瞬間には「しょうがないなぁ」って許してくれるのが艶夜さんだ。だんだん、どうして自分が呼ばれたのか得心がいったという顔つきになって、怒るような拗ねるような困った顔で色白の頬をピンクにするのも可愛い人だ。

「君は、お節介だね」
「どうせ、何も用意してないんでしょ?イベントは楽しまなくちゃ」

いつも、好き好き言って艶夜さんを恥ずかしがらせている虎先輩が『肝心の艶夜からは、一度もチョコレートを貰ったことがない』なんてボヤくから、俺は、そりゃそうでしょ?って言ったんだ。彼は貰う側の人だもん。頭が良くて優しくて、女性が放っておく訳ないだろう?って。
その時の虎先輩の雷雨の中のアヒルみたいな顔ったら面白かったけど、俺はディナーの予約はしてあるの?って訊いたんだ。先輩があげればいいじゃん?俺の育ったイングランドでは食事を共にして、男性から女性に花やチョコレートを贈って愛を伝える日なんだよって言ったら、根が単純な人だから、それなら自分が用意するかって、どこのチョコレートが旨いかを尋いてきた。そうなると、艶夜さんからもサプライズがあったら、ふたりのバレンタインデーはとてもHappyだと思わない?……それが、俺が艶夜さんを誘った理由だ。
こんなに気の利く良くできた後輩の俺はShun.こと環俊平。NY仕込みの新進画家で、今は活動拠点を日本に移して、絵と朝也で頭がいっぱいの毎日を過ごしている。

 


閑静な住宅街に一際、愛らしいフラミンゴピンクの外壁。
真白の扉を押して足を踏み入れた頭上は天井の一部が吹き抜けになっていて、大きなアンティークのシャンデリアが特別な一日を演出してくれる。

「すごいね」
「当たりかもしれない」

バレンタインデーに西洋菓子を求める女性たちのキャッキャする声に包まれて、パステルカラーの華やかな店内は焦がしバターの香りと、仄かに花の香りがした。四室さんは場違いに思うのだろう。一瞬、足を止めて居心地悪そうな顔を俺に向けたけれど、俺はそのあたり頓着しないから、にっこり微笑んで彼を苦笑させた。
Doigts de féeドワ ドゥ フェ』という店名はフランス語で『妖精の指』を意味するらしい。
クグロフやケーキ、とりわけ、本場イングランドのカップケーキに出会える知る人ぞ知る名店と聞いて来たけれど、これは期待以上かもしれない。マダガスカル産のバニラや厳選された小麦粉を使って焼き上げられたカップケーキはフレーバーも豊富で、どれも見た目にキュートだ。

「ここのクリーム、着色料を使ってないんだって」
「えっ~、こんなにカラフルなのに?」

ふと、隣の女性ふたりのそんな会話が聞こえてきて、

「へぇ?そうなんですね。じゃ、何を使って色をつけるんだろう?」

俺はごく自然に話しかけたつもりだけど、慌てた様子の艶夜さんが後ろから俺の服を掴んで「ごめんね」と引き離す。「いえいえ、大丈夫です~」と返ってきた声は全然、迷惑そうじゃないのに、艶夜さんに「めっ」て顔をされた。

「環はすぐ声掛けるんだから。聞き耳立てたみたいなの良くないよ」
「聞こえただけだし」

そして、やっぱり「しょうがないなぁ」って、この人は笑うんだ。

「虎先輩が艶夜さんは時折、口うるさいって言ってたの本当なんですね」
「アイツ、そんなこと言ったの?虎のガス抜きに付き合わせて悪かったね」

軽い嫌味のつもりが、あはははーと笑われて、結構喰えない性格をしていると可笑しくなった。お互い気になる所が違ってねと虎先輩を想うとき、艶夜さんはとても幸せそうだ。俺と朝也もそうだろう?って訊かれたけど、どうかな?朝也は可愛げがないぐらい完璧で、仕事も家のことも人間も、今のところ非の打ち所がない。

「朝也がガス抜きに艶夜さんを頼る日が来たら、水母クラゲの骨を浮かべて一杯、ご馳走しますよ」
「つまり、そんなことは有り得ないって言うんだね?」
「だって、俺が朝也に小言を言うところ想像できる?」

逆なら有りそうだけど、と思った瞬間、今朝、洗濯物を干すのを頼まれていたことを思い出して、朝也の「お前な……」という低い声が脳裏をのっそりよぎって行った。夕方には戻ると言っていたけれど、帰ってから洗濯し直して乾燥機に放り込めば、たぶん間に合うだろう。

「寄り道でもして来ればいいのに」

いつもは早く帰れと急かすのに、こういうときは身勝手なことを思う。シマッタとは思ったけれど、艶夜さんからトレイを渡されて、今はこの夢のようなパティスリーを楽しむことにした。
パレットを広げたような色とりどりのクリームは、店員さんの話では果物由来と言うから驚きだ。
定番のバターリッチとヘーゼルショコラは絶対に入れるとして、朝也に贈るカップケーキはギフトボックスの大きさを考えたら可愛いのは六つ。進物っぽくなりすぎない個数で欲張っても十二個までがベストだろう。朝也が好きなピスタチオ、彩の良いラズベリーヨーグルトやハニーレモン、キャロットも良いかも知れない。俺の好きなクランベリーに、バニラやブルーベリークリームチーズも美味しそうだ。アップルシナモンにストロベリー、ショコラオレンジも捨てがたい。レッドベルベットはこの店では食紅でなくビーツを使っているらしいけど、朝也は赤が強すぎて眉間に皺をつくるかもしれないな……。抹茶ホワイトチョコや鳴門金時、栗やカボチャの和のフレーバーも一つは入れたいし、アールグレイやココナッツ、メイプルピーカンナッツに……、ああ、バナナウォルナッツも外せない気がする!
フレーバーが多くてこれは迷いそうだと思ったら、隣で艶夜さんも試験当日の受験生みたいな顔をして食い入るようにショーケースを覗き込んでいた。

「折角だから買って帰りたいけど、環、これは困ったね」
「うん。日持ちするなら、全フレーバー揃えたいぐらい」
「さっき聞いてみたら、今日を入れて三日みたいだよ?」

さっきまで、居心地悪そうな顔で周りを気にしていたのに、艶夜さんの眼は真剣だ。
きっと、頭の中では虎先輩とのこれまでのティータイムをフル回転で振り返っていて、彼が好みそうなフレーバーを集めることに全神経を注いでいるのだろう。この真剣な表情のぶん、虎先輩は愛されていて、俺はくすぐったくて茶化したくなってしまう。

「艶夜さん、艶夜さん」
「何?」
「顔、カタイ。スイーツは嬉しい顔して買うもんだよ?」
「……え゛」

俺がニィって笑ったら、つられて頬をヒクヒクさせた艶夜さんがぎこちない笑みを浮かべて「ムリ」と天井を仰いだ。

「さっさと買って、ここを出よう」
「えーっ、カフェスペースもあるのに、お茶しないの?」
「しないよ。神月を誘って、またおいで」

朝也を……、それも良いかもしれない。
風が誘う花や果実の爽やかな香りに、この店は紅茶も良い茶葉を揃えていそうだと思った。次の週末にでも誘ってみよう。

「環、いくつ買う?こういうの買ったことがないから、どう、組むのがいいかな?」
「人気商品を店員任せが、てっとり早くて間違いないと思うけど……」
「君の言葉にしては雑だね」
「だよね。間違えるのもアリだと思うから、俺は選ぶの楽しむよ?九個入りなら正方形の箱があるみたいなんだ。カードを真四角に作ったから、合うと思わない?」
「カード?……って入れる意味ある?」
「え?カード、大事でしょ?見る?結構、上手く作れたんだよ?」

「猫にゃあ~」と、コートのポケットから朝也へのカードを取り出すと、虎先輩がよく『リスみたいな眼』と言うクリクリした瞳が、一層、まんまるになった。

「自分で作ったの?画家って工作も得意なんだね」
「彫紙アートって言うの。作家さんの講習会に参加して教わったんだけど、俺、器用だって褒められちゃった。猫、カッコイイだろ?」

紙を重ねてアートナイフで切り抜いていく彫紙アート。
重なる色目も奥行きのある断面も美しくて、紙の種類も色も豊富な日本だから、こんなに繊細なアートが生まれたのだと思う。モチーフはバラの花束を担ぐクールな猫。細かい所で粗が目立つから完璧とは言えないけれど、艶夜さんは「すごくいいね」って笑ってくれた。
店内の曲がオルゴールの可愛い音から懐古調の落ち着いた音色に変わって、窓辺を温める午後の陽射しをまるくする。ティータイムを楽しみに訪れる客で表の待ち合いの椅子も座りきれないようだ。

「ねぇ、艶夜さんの好きなフレーバーって何?」

艶夜さんのトレイには、好奇心旺盛な虎先輩が喜びそうな派手なフレーバーばかり五つのカップケーキが乗せられていて、きっと、この人は自分のぶんなんて考えもしないのだろうと思った。その答え合わせのために聞いてみたんだ。

「艶夜さんなら、どれ食べたい?」
「俺?うーん……シンプルなもの。バニラとか……、ぁ、アップルシナモンは美味しいかもしれない」

ほらね、どっちもトレイにない。俺だったら自分の好きなフレーバーも混ぜちゃえとか、そのぶん余計に買っちゃおって思うけど、艶夜さんは只々、虎先輩のことしか頭にないんだ。
彼が九個分の虎先輩の好きを詰めて、頬張る彼にお茶を淹れて眼を細めるとしたら、俺は八個分の朝也の好きに一個の自分の好きを混ぜて、朝也がそれに気づくかを見ていたい。

『俊平はクランベリーだよな?』

って寄越したら、合格って、いっぱいキスしてやろうと思う。そんな馬鹿げた『好き』の確認に意味なんてないけど、気持ちのどこかで安心できるなら、俺はいっぱい朝也を試すのだと思う。朝也の気持ちを疑うとか足りなく思うとか、平穏そのものの共同生活に何ら不満はない。ただ時々、俺は欲張りになって、もう、うんざりするぐらい愛されたくなってしまうんだ。

「甘えてるよなぁ……」
「うん、甘そうだよね、アップルシナモン」
「え?」
「ん?」

首を傾げて俺を見る黒真珠のように綺麗な眼が、次の瞬間、糸のように細くなって、

「環は、わかりやすいね」

朝也のぶんと俺のぶん、無意識にトレイの上で分けていたのを笑われた。

 


蜂蜜色の紙袋を提げた帰り道の足取りはアダージョ。
駅前の大通りへ出た横断歩道の手前で電車が近付くのを見て、けれど、艶夜さんも俺も急ごうなんて気はさらさらない。今日は付き合ってくれてありがとうって言おうと思ったら、先に「誘ってくれてありがとう」と言われて、うんと言ったきり、どうしてかその先が続かなかった。

「神月がどうして環がいいのか、君とこうして出かけるようになって分かった気がする」
「ぇ?」
「君は飽きないよね。時々、冷や冷やしたりビックリさせられるけど、たぶん、一緒じゃなかったら、経験しないようなことや面白い考えとか、色んな意味で刺激的で飽きないよ」
「……」

そよぐ風は甘やか。
そして、艶夜さんは「また、誘って」と、青信号を指差した。


I hope it will be a good Valentine’s Day.

                          

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 階下で遠慮がちにガラリと玄関の引き戸を開く音がする。……虎だ。
 俺たちが住むこの家は年代物の古民家で、商業ビルやオフィスビルの林立する中心地から少し外れた下町にある。近年、レトロな雑貨屋や洒落たカフェが増えて、フォトジェニックな町として若い女性に人気があるようだ。先に住み出したのは虎。藤丘虎ふじおかとら。俺、四室艶夜しむろえんやの一応……恋人。家主は寿司屋の元店主で、虎は何処まで本気なのか、今は賃貸契約のこの店舗兼住宅をゆくゆく正式に譲って貰うと言っている。
 大晦日も夜遅くなると静かだ。
 近所迷惑を考えて、いつも住宅地への路地を入るまでにエンジンを切る虎が、駐輪場に使っている一階店舗の玉砂利へ車体を入れる気配がする。降りようかと思ったけど、読みかけの小説があと二頁でキリが良かったから俺は自室のベッドを離れなかった。膝下を布団に突っこんで枕元のチョコレートをひと粒、口へ放る。

「冷やこいのぅ」

 ミシと軋む廊下の方で声がして、背を丸めた長身がのっそりと襖を開けた。今朝、見送った俺でさえ、そのダウンジャケットの黒々とした威圧感にギョッとするのだから、視界の悪い夜に表の曲がり角で出くわしたりしたら、さぞ怖いんじゃないかと思う。

「ただいま、艶夜。起きていたのか」
「おかえり、久しぶりに聞いた」
「何が?」
「虎の方言」
「ぉ?……おぉ。外、めちゃ、さみーよ」

 照れ臭そうに笑って腰を折った虎が、俺の身体には触れないように唇にキスをした。相当、身体が冷えていて俺に移すまいとしたのだろうけど、近付いた顔から冷気が伝わってくる。袖を引くと夜露か雪か湿っていて、両腕に抱き寄せたら驚いたのか虎は僅かに腰を引いた。

「ちょっ、いつになく積極的なの嬉しいけど、俺、冷えてっから」

 だから、抱きしめてる。
 だから、抱きしめてる。
 だから……、
 グシュンとクシャミが出て、カッコつかない俺を虎は大笑いして押し離した。

「だから、言ったじゃん」
「……、お茶でも淹れるよ」
「先に風呂入ってくるわ」

 余程、外は冷えていたらしい。
 虎がいなくなると、部屋の空気が一段と冷たくなった気がする。今年もあと一時間を切った。

 


 湯上りの虎を待って、下の和室で緑茶を呑む。
 炬燵こたつに蜜柑、テレビでは歌合戦がもう終盤で、時折、ヒュォオオと強い風が小さな中庭の方で硝子戸を震わせた。実家暮らしの学生時代から時代が逆行しているんじゃないかと思う今の暮らしを俺は案外、気に入っている。



「明日も仕事なんて大変だね」
「今日明日が踏ん張りどころ。俺は早出の15時アップでいいってさ」

 虎が働く美容室は場所柄、ホステスさんたちの利用もあって閉店時間が遅いんだけど、大晦日から三が日は初詣や年始の挨拶で着物の着付けを予約する客が多く、早朝から店を開けるんだ。腕の良い師範がいて、ヘアセットやメイクも一処で整うのが好評らしい。

「早出って何時?」
「準備もあるから、6時。着付けの助手な。お嬢さんたちの髪、綺麗にしてやんねーと」
「嬉しそうだね」
「晴れ着の美人祭、羨ましいだろ」

 好き者のツラで笑っても、俺は本当の理由をわかっている。虎は美容師の仕事が大好きなんだ。女の子が自分の手で綺麗になっていくのが嬉しくて堪らないんだ。彼女たちが帰り際、来た時よりも顎を上げて『ありがとう』って店を出て行くのが誇らしいんだ。そのために技術を磨いて日々、努力しているのを俺は知っている。そんな虎がカッコイイと思う。たとえ今、うつらうつら寝かかって、年上の美人演歌歌手にやに下がっていようとも……。

「虎、好きだね。この人」
「色っぽいよな」

 毎年、こんな調子だ。
 画面の向こうでは良く口に入らないなと思う大量の紙吹雪が舞っている。銀糸の贅を尽くした着物姿は凛と気高く、和傘を手にした舞人を従えて、蠱惑的な眼差しを彼女は此方へ向けていた。

「母親と歳、変わらなくない?」
「ぁあ゛?もーっ、今、母さんの顔が邪魔した」
「あははは、馬鹿だ」

 虎が好きだ。
 飾り気がなくて真っ直ぐで、俺の何が良いのか好き好き言って、全然、好きを返させてくれない虎が好きだ。俺はタイミングをいつも逃してウンとか曖昧にしてしまうけど、拗ねたツラで恨めし気に見てくる、そんな虎が好きだ。そして……俺に、俺でいさせてくれる虎の傍が好きだ。
 今年の初めは、もう少し俺からも好きを伝えようと思っていたけれど、たぶん、一度も言わないまま、また一年を終えようとしている。

「ぁ……」

 茶柱が立った。

「虎、あのさ……、」
「お前も食う?」

 蜜柑の甘い香りが暖房で温まった部屋にパッと広がって、

「あっ!」

 ポーンと天井に弧を描いた蜜柑に俺が気を取られた隙に、もう一個、凡そ炬燵を挟んだ近距離の人間に寄越したとは思えないスピードで投げつけてきた。子供なんだ。
27歳なんて嘘だろう?ってくらい、虎は子供なんだ……。

「虎ァー」

 畳に転がった蜜柑を拾って呆れている俺に、虎は大欠伸を一つして、ゆったりと腰を上げた。

「すまんすまん、わかってるって。年越し蕎麦だろ?」
「眠たいならやめとく?」
「平気。お前のトロくせぇの笑ったら、目が覚めた」

 口も悪いけど、虎の笑った顔は屈託がなくて、俺はつい何でも許してしまう。
 テレビでは賑々しい歌合戦のグランドフィナーレも終わり、料理の得意な虎は出汁から拘った旨い蕎麦を食わせてやるとキッチンへ入って行った。残された俺は、

「また、言えなかった……」

 番組が変わって、ゴォーンと一発目の除夜の鐘を聞いたところで、大の字に転がるしかなかった。

 


 年が改まった。

「「せーの!あけましておめでとうございます」」

 ふたり対峙して、大真面目に頭を下げ合う畏まった挨拶は毎年のこと。

「……っふ、ぁははははは……」

 照れ臭さ60%、可笑しくて深夜に構わず笑ってしまうのも恒例だ。

「何で、こんなことするようになったのかな?」
「実家の決まりっつーか、これやんねーと正月がキターって気がしねぇんだよ」
「どうして、俺が付き合わされてんだ?」
「俺一人で、どこ向いて挨拶しろってんの」

 いいから食えと、虎は食べかけの蕎麦を指差した。きっかり、0時。
 毎年、蕎麦を食べていようと作っている最中だろうと、電話中もトイレもお構いなしに声が掛かる。
虎の実家は老舗の旅館で、正月の挨拶まわりも欠かさない、ちゃんとした家なんだ。

「蕎麦、いい味してる」
「トーゼン。俺の腕がいいからな」

 汁を飲み干す勢いの俺に満足げに目を細めた虎は調子づく。ふわっふわの玉子とじが夜更けの腹に優しくて、柚子の皮を刻んだのが仄かに香って爽やかだ。わざわざ、枕崎の木枯れ節を手配する拘りようといい、本当に食に対して貪欲なヤツだと思う。

「あんまり舌が肥えたら、どうしようって思うよ」
「何で?いつでも、作ってやるじゃん」
「ぁ、うん……。そうだね、期待してる」

 意味が違うんだけど、今、話すことでもないから呑み込んだ。
 跡取りの一人息子が女将になる嫁さんを迎えて旅館を盛り上げてくれる日を、彼のお母さんが心待ちにしていることを俺は知っている。虎の味に慣れてしまったら、いつか独りになった時、俺は何を旨いって思うんだろう……?

 ドガッ!

「……っ痛」
 炬燵の下で脚を突き蹴とばされた。

「っぶな……虎、なんっ……?」

 何だよ、と言いかけて追い討ちの足蹴りをもう一発食らった俺は、手を温めていた余熱の丼鉢を離してしまい、それはゴトンと音を立てて天板の上で揺れた。

「俺、もっと上達して、一生、満足させてやんよ?」
「へ?」
「年越し蕎麦。あと50食、いや、100食、目指しちゃう?」

 虎はニイッと笑って、向こう側から俺の両手首を挟みこむように掴んでくる。その眼は本気だ。
言う事の大半、大雑把で根拠がなかったり突拍子も無かったりする虎が、たまに見せる本気の静かな光を宿した眼だ。たとえ、言っていることがやっぱり途方もなくても、言霊のように信じさせてくれる……そんな瞬間が虎にはある。
 目頭がカッと熱くなって、ヤバい、コイツ好きってなったけど、今、口を開いたら、みっともないことになりそうで俺は困ってしまった。

「虎ってカッコいい!今のはズルいわ、惚れ直しちゃう、とか思った?」
「思、うわけないだろ」
「お前、顔、赤いよ?」
「嘘だ」
「赤い赤い」
「うそだ」
「……うん。嘘だな」

 子供を諭すように嘘にしてくれた虎に胃や鳩尾みぞおちでも火がついた。
 「手首細ぇ、ツルッツル」とか言って俺の手を弄っている虎が、体温の高い手で指を一本一本マッサージするように開いていく。思わず手を引っ込めそうになるのを絡められた五指に阻まれ、ギュッと握られた。その指先が割れてガサガサに荒れているのを愛しく思う。美容師という仕事柄、客に不快な思いをさせないよう指先のケアは一入、念入りな虎が、それも追いつかないほど忙しく頑張っているのは、やっぱり、すごくカッコいいと思う。

「……嘘。ちょっと思った」
「え?」
「さっきの……少し思った」
「俺ってカッコいい」
「うん」
「マジ?」
「少し」
「そこ大事?」
「だいじ」

 手を取り合って、フフッとか笑って妙な気分だ。恋愛ドラマならここで盛大に主題歌が流れて、ふたりはキスをするのだろう。けれど、疲れを滲ませている虎は自分の腕に頭をもたげ、うっそりと笑うばかりだ。重い瞼に抗って首を緩慢に捻る姿は猫のようで、離すまいと繋がる手指の爪が俺の皮膚に食い込むほど立てられている。

「知ってた?猫って飼い主といてリラックスしている時にも爪を立てるんだって」
「何オレ、艶夜に飼われちゃうの?」

 それもいいな、なんて虎は笑って、頭を撫でようとした俺の手をニ゛ャとあんまり可愛くない濁声で払った。二度三度と猫じゃらしのような攻防を繰り返し、炬燵の下では行儀の悪い足がウリウリと指で膝を突いてくる。

「虎、そろそろ寝たら?」
「正月早々、ひとり寝させんのかよ?」
「だって、朝、早……っ、ちょ、足癖わるっ!」

 ゲシッ、ゲシッゲシッと蹴られて、態勢を崩した拍子に長い脚に膝を割られて俺は焦った。
 すかさず股座を嬲ってくる無作法な足にたじろいで逃げを打っても、天板の上では虎の手に捕まって他愛なく腰が揺れる。炬燵の温度がひとりでに上がるはずはないけど、熱くて、遣る瀬なくて、グリグリと踏みつけられるペニスが大きく脈打つのを絶望的な思いで堪えようとした。

「……っ、ぁ……虎、よせっ……」
「なぁ、ヤんね?」
「怒るよ?」
「だって、お前、可愛いもん」
「ぁあっ?……も、ダメだって。やめ……、やめろ、バカ!」

 疼きが甘い痺れに変わって、不埒な征服者の悪びれる風もない顔に奥歯を噛んだ。子供だ。時折、虎は悪戯の加減が判らない子供になって俺を困らせる。与えられる刺激のスピードが増すにつれ、正月早々、何をやっているんだという呆れた思いと、いっそSexに縺れ込んでしまえばいいという欲情と……、けれど、何より勝ったのは虎に早く寝て貰わないと仕事に障るだろうという、つまらない真面目人間の思考だった。

「悪ふざけは終わりだよ、虎」

 手を振りほどいて転げるように炬燵を出ると、虎は傍へ回り込んでくる。叱られ慣れしてるから、俺が語調を僅かに冷たくしたのを瞬時に察したようだ。

「怒った?」
「怒るよって予告したよね?」
「じゃ、ハグしてよ」
「ぇ……」
「してくれたら、おとなしく寝る」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」

 軽い調子で二度繰り返される言葉なんていい加減なものだ。それに、さぁ、来いとばかり両手を広げられて、ではもないだろう?きっと虎は、俺が然程、怒っていないことも押せば押し切れることも解っていて、わざと俺が照れて動けなくなるようなことを言っているんだ。どうしてそう思うのかと言うと、今、虎にとって困り顔でモジモジする俺を面白がる方が魅力的だからだ。きっと、Sexするには虎の方が体力が限界で、それでも俺とイチャイチャはしたいという……俺に求められているのは、せいぜい湯たんぽになれってことぐらいだと思うんだ。ほんと、甘えたヤツ。

「回れ右して」
「やっぱ、ダメか」
「後ろ向いて」

 要求が却下されたと思っている虎が「残念」と、ちいさく哂う。
 俺はその背中に耳を当てた。ピクッと背筋を伸ばした虎が振り返ろうとするのを、ギュと抱きしめて阻む。……温かい。虎は体温が高いんだ。

「今夜は一緒のベッドで寝よっか」
「マジ?」
「ここを片付けたら虎の部屋に行くから、先に上がってて」
「俺に甘い艶夜、最高」

 さっきまで眠そうにしていたヤツが勢い反転した身体に俺を抱き込んで、その表情は爛々と『嬉しい』が顔からはみ出している。虎がこんなヤツだから俺は絆されるんだけど、あんまりあけすけで、どんな顔して受けとめれば良いのか時折、恥ずかしくなってしまうんだ。

「おやすみ、虎」
「おっ。早く来いよ」

 もったいぶった短いキスのあと、思いのほかアッサリと虎は階段を上がって行った。

「……ハグしたのマズかったな」

 足取りの軽さに俺はシマッタと頭を掻く。あの調子だと元気になって添い寝じゃ済まなくなるだろう。もっとも俺も良い感じに温まっていて、もしかすると、添い寝で済ませたくないのは俺の方かもしれないけれど……どうにも少し時間を置いた方が良さそうだ。
 ゆっくり丼を洗って、観葉植物に水をやって、ズレてもいない鏡餅の位置を整えよう。
 寝酒に一杯、戸締りは二周。そうだ!虎の仕事が終わる頃、店に迎えに行こう。一緒に氏神さんを詣でて、いつもの鯛焼き屋は……正月は休みかな?
 初詣のために集めたピカピカの五円玉をテーブルに並べ、5円、ご縁も9枚数えて始終ご縁、一生の計と言ってもいい『好き』を今年こそ虎に伝えたいと願う。
 そうするうちに静かな寝息を立てて、虎がベッドを温めていてくれるだろう。

「湯たんぽは虎の方だ」


 初日の出は午前7時5分の予定。
 ニュースは正月寒波になると注意喚起を促していた。

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Ding dong , Ding dongと呟いて、夜天に白い息を吐く。
今日はクリスマスイブ。
俺はベランダの手摺りに寄り掛かり、耐熱グラスに注いだモルドワインで温まっている。
赤ワインにシナモン、クローブ、スターアニスのスパイスとオレンジを加えたものが一般的だけど、微量のブランデーを足すのが俺のお気に入りだ。
朝也なら帰宅しているよ。
スーツの肩に雪を溶かして、急いで帰ってくれたのだろう、顔が上気していた。
抱きしめてキスをくれても囁かれた言葉は愛してるではなく「すまん」で、何が『すまん』なのかは、すぐに解ったよ。呑気にディナーもないほど沢山の仕事を持ち帰って、今も部屋に籠りきりだ。
俺は物分かりの良い恋人だから、ただ微笑って「おつかれさま」を言っただけ……本当だよ。

 

今夜は月もない。
パリンと割れてしまいそうな寒波に逃げ出したんだ……なんてね、新月が近いだけさ。
眼前に広がる住宅街は赤や青の電飾に華やいで、中でもシャンパンゴールドに輝く一軒家は群を抜いていた。凍空も白々する中に星を一つ見つけたのを朝也に教えてあげたかったけれど、そろそろ首が攣りそうだし、ワインも温くなったから部屋に戻ろうと思う。
薄暗がりのリビングにチッカチッカと点滅しているクリスマスツリー。赤を誇れないポインセチアはひっそりと息を潜め、開け放した中扉を冷たい風が抜けていく。廊下の奥にポツンと漏れる部屋灯り、間断ない紙擦れの音と腱鞘炎でも起こしそうなキーボードの入力音が、もう二時間近く続いていた。
「俊平、……俊平」
俺を呼び寄せるとは無精者め。
待ってましたとばかり扉を開ける手がウキウキしている。
「何?」
「悪ぃが珈琲、頼む」
「仕事の手を三秒止めるなら淹れてやってもいいよ」
広い背に圧し掛かってギュッーと抱きしめた。
「冷た、お前、またベランダにいたのか」
「雪は止んだよ。珈琲……淹れてくるね」
Merry Christmas.もない唇を指でなぞり、埋めた首筋に恨みがましく噛み痕を残す。
「くすぐってぇよ、何?」
「眠気覚まし。散らかり放題は能率悪いんじゃない?」
デスク上の製図や資料が黒の硝子天板を覆い、山積みのファイルや書籍は雪崩寸前だ。
その中で埋もれるようにノートパソコンを開いている朝也は「確かに」と短く言って、手近な所から片付け始めた。部屋を出て後悔。
半端に体温なんて分けて貰うんじゃなかった……。

 

ピンポーンとインターホンが鳴って「お届けものです」と言うので、解錠した。
品物はケーキで差出人は朝也だ。
声を掛けようとして、受取人が俺になっていたからリビングで包みを解く。
「これ……。朝也に話したっけ?」
たしか、博物館の茶房で隣席の女性が話題にしていたチーズケーキだ。
和歌山の小さな工房で受注生産していて、取り寄せに何ヶ月も掛かるという。気にはなっていたけど、肝心の店名をうろ憶えでそれきりになっていた。すぐにも食べたくてウズウズする。早く珈琲を淹れようとした矢先、また、ピンポーンと来訪があった。
「環俊平さんでお間違いないですか?こちらに受取りのサインをお願いします」
百貨店の包装紙に包まれた箱、差出人は朝也。
沸々と笑いが込み上げて、すぐにも朝也の顔を見たくなった。書斎の扉をノックなしに開け、背後から羽交い絞めに抱きつく。
「お前ね、この状況を面白がるために缶詰していたとか言う?」
どうせXmasなんて失念しているのだと思っていた。ケーキの相談もディナーの予約も聞いていないし、ツリーを飾った時も「もう、師走か」としか言わなかったから。
「この状況を見て、それを言うか?」
と、途方に暮れた様子の朝也の肩はバリバリに凝っていて、
「有り合わせでいいか?少し飲むか」
俺の手に手を重ねると薄らと笑った。疲れを滲ませた声は耳馴染みがいい。
合鴨のスモークと生ハムやチーズのピンチョス、ローストビーフ、温め直した若鶏の唐揚げ、サーモンのカルパッチョをサラダ仕立てにと朝也の手際の良さにはいつも感心する。俺が選んだシャンパンと、早速、ケーキも切り分けて、ソファで肩を並べ乾杯をした。

「「Merry Christmas.」」

朝也からのギフトはザックリとした編み目が柔らかな甘いローズグレイのニット。間違いなく俺に似合う色だし、緩やかなVのネックラインも好きなんだけど……、
「俺たち、仲が良すぎるね」
「持っていたか?」
「ううん、重なっちゃった」
俺から朝也へのギフトは同じ店の同じニットの同じ色。
「たまには、こういう色も似合うと思ったのに」
「欲しくて見ていたんじゃなかったのか」
「俺って愛されてるね」
道化た笑みはシャンパンの温もりに塞がれて、朝也の胸に視界を遮られた。
冬物が店頭に出だした頃、二度三度、足を止めたかもしれない。ほんの数分だったはずだけど、朝也がそんな些細な瞬間も気に留めてくれていたことが嬉しかった。
「ねぇ、明日、これを着て外で待ち合せしようよ」
「お揃い……いや、残業だ残業」
「じゃ、今、着よう。それで……脱がしっこしよ」
朝也は呆れたように微笑って、外はまた雪が降り出した。

May you have a warm, joyful Christmas this year.

                            

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この前は30分も待たせて、寒かったよね?
キミの「遅刻だよ」を聞いたのは、たぶん3度目だけど、
どうしていつも「しょーがないなぁ」って許してしまうの?
一度ぐらい怒った顔を見てみたくて、わざと遠回りをしたって言ったら、
今度こそ可愛い膨れっ面を見せてくれる?

駅前のスタンド珈琲、結構、いけるよ?俺を待つ間、温まってよ。
階段下のベンチ、壁に鏡があるの知ってた?ルージュの色は俺好みにしてね。
頭ん中、俺で一杯になったら口を尖らせて。
待ちくたびれたキミの文句ごと抱きしめてあげる。

それじゃ週末、いつもの改札で。
この予行練習も、いよいよ総仕上げだ。
ワガママが下手で優しすぎるとこ心配だけど、
キミの恋が叶うことを祈っている。

                                                  俊平


退社狙いの待ち伏せも裏の裏をかかれて、やっぱり膨れたこのかばん
隣からもチョコレートの甘い香りがしている。
急ブレーキにも目を覚まさない彼女の重みを右腕に、
なぜか動かないでいてやりたいと、束の間、車窓に並んだ二人の親密げな他人を見る。

それにしても、随分と買ったもんだ。
彼女が抱える紙袋から、どれだけ配るんだという気遣いの包みが、
赤や黄色や溢れそうに詰まっている。
俺の鞄を角っこで突く窮屈そうなコレも、そうした気遣いの一つ一つなのだろう。
ひとりでいた頃には思いもしなかった。
この温かい感情は案外、悪くない……。

ふと、急ぎ足で帰りたくなった。
膨れた鞄を見るなり、アイツは口を尖らせて嫌味を言うだろうが、
優しく抱きしめたいなんて、俺も珍しく浮かれ調子じゃないか。

カーヴに揺れる人いきれ。次の駅で降りたいけれど、
そろそろ、起こしてもいいだろうか?

                                                     朝也            

週末、林檎を家まで届けてくれてサンキューな。
インフルエンザに罹ったのなんて初めてで、伝染うつしてないといいけど大丈夫だった?
鬼の霍乱とか笑ったくせに、林檎の下に隠したリカーボンボン、可愛いことするじゃん。
俺、年上オーケーだけど、その気になっちゃったらどーすんの?

バレンタインデーには店に復帰してるし、良かったら来ない?
昼イチか、15時なら予約に空きがあるから、お礼にヘアセットするよ。
「私なんて青果店のオバチャンだし」って、いつも笑うけど、そんなことねぇし、
俺に任せてくれたら、綺麗倍増しで引き出してやんよ。
林檎、めっちゃ旨かったからさ、
オッチャンのニヤけたツラでも見ついでに、また買いに行くわ。

手短でゴメン。
同居人のアイスノン、替えてやんねーと。
じゃあね。

                     虎

あの日のココアは甘ったるくて、
どうして真冬にアイスココアをくれるかな?って言葉を呑んだ。
だって、バレンタインデーだったんだ。
特別な意味なんて、きっと無かった。
「受験勉強おつかれさん」くらいの軽いエールに違いないと、そう思い込もうとした。
受け取った缶からスウッと消えた僅かな温もり、
「体温、高いんだね」
って、それが不器用な俺の精一杯の照れ隠しだった……。

「ただいま」と声がして、
マグカップのココアも吃驚ビックリするほど足を踏み鳴らしたキミが、一目散に甘えにくる。
抱きつかれた俺は、まるで大きなライオンを飼っているみたいだ。
飲む?って聞かなくても、キミの冷えきった唇はYesを伝えてくる。
淹れようか?って聞かなくても、ココアは俺が淹れるものと、いつの間にか決まっていた。
「寒いな」が「傍に来いよ」のシグナルだってことも、今の俺は解っている。
けれど、あの日のココアの意味だけが、9年経った今も解らない。

「ねぇ、どうしてココアだけは自分で淹れないの?」
何で今更そんなことを聞いたのか、
自嘲気味の溜息にココアパウダーがパッと飛び散った。
つまらなさそうな声が、ぽつりと言う。
「……積年の罰……」
え……?

                     艶夜

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