やすらはで寝なましものをさ夜更けて
             かたぶくまでの月を見しかな
          (百人一首 第59番歌 赤染衛門)


『いますぐ会いたい』って言ったよね。
『部屋で待っていて』そう言ったよね?
期待してバカみてぇ、ちっとも来ねーじゃん。
移り気な男だって解っていたけどさ、
『俺を忘れやしないか、気が気でなかったよ』なんて、よく言えたもんだよね。
あーあ、寝ないで待っているとか俺もどうかしていた。白々明けの空の隅っこで月が沈もうとしている。こんなことなら、さっさと寝ちまえば良かった。
珈琲、何杯飲んだと思う?
吸っては捨てた煙草が灰皿に溜まってさ。
クサいと眉を顰める顔も嫌いじゃねぇけど、二度もシャワーを浴びたのによ。
アテの外れた躰は貫かれる熱ばかり求めて、脳天まで真っ二つさ。痛いよね……、痛いんだ。
二人でいることを知って、一人でいるのが下手になった。こういうとき、出逢うんじゃなかったって思うのに、同じタイミングでアンタに抱かれることばかり考えている。よくないね……、よくないよ。
障子を開けて縁側を覗くと、庭先の笹がそよそよと騒ぐんだ。
『身勝手な男など門前払いにしておしまい』
『そうよ、そうよ』
忘れられてしまったのは、俺の方かもしれねぇな……。


浮かれた着信音、変えておけば良かった。
十を数えて、手を伸ばす。
「もしもし、お掛けになった電話番号は現在、使われておりません」
「それ『もしもし』要らなくないかな?」
そうじゃねぇだろって思うのに、俺の口許は綻んで顔が熱い、熱い……熱い。
「いま、どこ?」
「空港についた。もうすぐ会えるね」

え……?

「やっぱり忘れていたね?二ヶ月のバンコク出向……」
朝靄を斜交いに朝の光が射しこんで、手指の冷たくなった俺の芯に陽だまりをつくる。
ギュッと目を瞑って畳を三度踏み鳴らし、声をあげたい衝動を抑えて緩みっ放しの頬を叩いた。
そうして、待っているをこう伝えるんだ。

「シーツ、替えてあるよ……」



   ※※※※※※※※※※※

Twitterで不意に盛り上がった『百人一首でBL一次創作』に参加しました。
100人の書き手で一首ずつ、和歌に込められた古今変わらぬ人の心をBLにしようという企画ですw
歌意の侭ではしのびなく、続きをハピエンにしてみました(〃艸〃)ムフッ

【歌の解釈】(こんなことなら)ぐずぐずしないで寝てしまえば良かったのに貴方をお待ちしているうちに夜が更けて、とうとう西に沈もうとする月を見てしまいましたよ。

赤染衛門は藤原道長の繁栄を描いた『栄花物語』の作者とされる才媛です。
この歌は関白・藤原道隆公が少将だった頃、赤染衛門の姉妹に「今夜、行くから」と約束したが待てども訪れることはなく、翌朝、赤染衛門が代筆した歌とのこと。
文字通り、待つばかりの女性の悲哀ともとれますが『やすらはで寝なましものを』が小気味よく、軽い嫌味を含んで拗ねてみせたという解釈もあるようで、そちらの方が明朗で面白みがあるなぁと、このようなアレンジをしてみました。如何でしょう?(* ´艸`)
   

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11か月の執筆、全14話(約55000)字の『また、あした。』完結いたしました。
最後まで、お付き合い戴いた皆さん、ありがとうございました。
『完結』と言っても、同時に『始まり』と言いたい物語。如何でしたか……?


本作の執筆にあたり常に脳裏にあった心配事は、実際に今、病と闘っておられる方が万が一にも御覧になって不快に思われはしないかという事でした。私も健康診断で「心臓が弱い?」と言われた事があり、結果的には肋骨の位置が悪く差し込む為の痛みと診断されたのですが、感情移入できそうな大病という事で心臓病を取り上げたのです。不謹慎に思われたらごめんなさい。
『手術』という言葉を出す為に初動処置、手術方法、検査を含めて掛かる入院日数、経過、リハビリなど調べていく内に、これは当事者の方が目にされたら空々しく思われるに違いないと、センシティブな表現を避けつつ神経を使って描きました。言い訳じみていますが、上っ面だけの描写の理由は其処にあります<(_ _)>

タイトルの『また、あした。』は普段、何気なく口にしているけれど、身も心も健康でないと言えないなって、実は贅沢な言葉だよなって思ったんです。
私の執筆はライヴみたいなもので(;^ω^)いつもプロットを立てない、或いは立てても変化していくのですが、ラストだけは常に初めに決めた通り……。
本作では、ラストシーンで海晴がどんな顔でどんなトーンで颯介に「また、あした」を言うだろう?と、その表情がくっきり見えてくるのを楽しみながら彼の気持ちに添うて参りました。
思いがけず、投稿サイト『エブリスタ』様にて2019.7.25付の新作セレクションに挙げて戴き、『fujossy』様でもレビューや感想を沢山戴いて、多くの皆さまの心の数だけ海晴の「また、あした」が有るのだと思うと、ワクワクソワソワと嬉しい私です(*´▽`*)
作品って、こうして育っていくんですね……、有難うございます♡


ところで、リンドウの花言葉はいくつかあるんです。
須崎が海晴に贈った紫のリンドウには健康への願いが込められ、颯介はかつて『勝利』の花言葉を愛し、須崎作の『紫紺の華』には蕾のリンドウが、海晴には『あなたの悲しみに寄り添い慰めたい』という青いリンドウが贈られるなど、本作には色、形状の異なるリンドウが登場します。
『竜胆』と『瘧草』の表記の違いも心理の見せ所……感じて戴けたら幸いです。
そして、第3話で颯介からの青いインクの感想メモにあった『キミは泣いてばかりいる、どうして?』が、颯介が海晴に心惹かれた最初だったんですよね……。
3つの『蒼・碧・青』の連続と『シャガール・ブルー』『ダイビングの看板』『青朽葉色のリブニット』『シーフード』から『青春』を意図する『あお』に行きつくまでブルーに拘ってみたのも、モブの名前の頭をとって四字熟語にする仕掛けも、地味に自己満足的な拘りでした(〃艸〃)ムフッ
朝井、雲谷は海晴の文芸部仲間、暮沼曇天は海晴作の小説の作中人物、雨宮はクラスメート……。
この4人の名前の頭の文字を登場順に繋ぐと、ラストの須崎先生からの手紙にある『朝雲暮雨』になります。ざっくり言えば『情交・情愛』のことですね。楚の懐王が昼寝の夢で巫山の神女と情を交わし、別れ際に神女が「朝には雲に夕には雨となって参りましょう」と言ったという故事に由来しています。
颯介と海晴が末永く寄り添い幸せでいられますように……。
そんな願いを織り込むように物語に忍ばせてみました。気付かれた方、おられるかな?いらっしゃると嬉しいな……。


『また、あした。』の表紙はTwitterで親しくして戴いているアガさん(@ag66000)に戴きました。
2年前にアガさんがツイートされた絵に惚れ込んだ私が本作を執筆するにあたり、海晴という人物像に自然と当て嵌めて思い描いていた絵なんです。
そこで思い切って表紙に欲しいとお願いしましたら、本作用に仕上げて下さって嬉しい共演となりました。また『視線』の表紙でもご覧戴いている紅さん(@xdkzw48)が颯介の、紅と碧湖さん(@n3X35)が須崎のキャラデザをして下さったも同然の素敵なファンアートを寄せて下さり、いずれも、fujossyさまにて御覧戴けます。皆さん、本当に有難うございました<(_ _)>♡


そして、上の画像のSS『届けぬ想い』ですが、その紅と碧湖さまと共演させて戴いたものなのです♡
キッカケは「須崎先生が高校生だった頃の本心が知りたい」という紅とさんからのリクエスト。
SSで応えたら、何と!こんなに綺麗な絵に文字を載せて戻してくださったんですヾ(*´∀`*)ノ
折角なので皆さんにも見て戴けたら嬉しいなと、こちらに挙げてみました。
13話の須崎から海晴への手紙に《自分の為に守りたいもの》とある時点で須崎自身、自分でもその何たるかを意識しています。須崎も前を向いています。彼は初めて《自分の為に守りたい》と思った海晴を颯介に託すことになりましたが、それは後ろ向きな感情ではなく、最後の最後まで好きだった人の其の時々の『大事な一番』を尊重する……、それもまた須崎にとって自然な心の機微だったのではないかと私は思います。きっと、笑みを浮かべて神奈川へ赴任し、この守るばかりだった男がひょっこり守り愛される喜びを、その新しい感情を得るかもしれません。そんな想像を抱かせてくれた(たぶん須崎ファンのw)紅とさまと素敵な共演をさせて戴き、心から感謝申し上げます<(_ _)>


脱稿するのが寂しくて長い後書きになってしまいました(;^ω^)
最後まで読んで下さった皆さん、本当に有難うございました。
さて、問題です。宙水は何回『ありがとう』を言ったでしょう(・・?

それでは、いつも、あなたのお傍に『Attic.』を。

また、あした……。
                                                

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青、青、青……、
インク壺を返したように沖へ沖へと藍を深めていく大海に真昼の陽が差す。
波は玻璃を砕いたように踊り、
踊る……。

 

季節は12月、復学後もリハビリを続けて、ようやく遠出の許可が下りた。
「海晴、走るなって!砂に足を取られるぞ」
「平気、平気!颯介、竜胆の青が溶け出したみたいだ!」
砂を蹴って大きく両手を広げ、身体いっぱいに青を吸い込む。
こんなに全速力で走ったのは何年ぶりだろう?
手首に馴染む菫青色のブレスレットは選手時代に颯介が身につけていた物を譲り受けた。
『バイキングの羅針盤』とも言われ、不安を解消し目標に向かって正しい道へ進ませてくれるという。太陽光にキラキラと表情を変え、映す空の青と海の青が俺をあしたへ導いてくれるようだ。
水天を渡る風は冷たく、波打ち際まで来て俺は耳を澄ませた。ゴウと唸る風も寄せては返す波も磯の香も、俺には初めてのものばかりだ。
『青春』なんて古臭い言葉を叫びたくなる。


あしたをくれた颯介がくれた、
もうひとつの『あお』……。
                                   
                                  Fin.
                  
       

青いリンドウの花言葉 
I love you best when you are sad.
   ~あなたの悲しみに寄り添う~
      

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まだ、したいことがあった。出来ることがあった。
けれど、出来ないことも多かった。しなかったことも多かった。
夢を語るには短い人生になるだろうと思っていたし、誰かを好きになることもない方がいい、そう思ってきた。明日が来ることも俺には当たり前じゃなかったし、ネガティブな発言は良くないと笑っても、どこかいつも薄ら寒くて渇いていた。そんな後ろ向きだった俺が……、友達からの『また、あした』に返事も出来ないような俺が、今は颯介との未来を想像している。
そして復学後、須崎にどんな顔をして会えばいいのかを考えている。
「あのさ、Xデーに会った?」
「その言い方はよせ。酒を飲んだ。俺もアイツも正気じゃなかったし、お前のことで頭が一杯で酒に逃げた。須崎はお前が可愛かったんだ。だから、俺みたいな悪い虫がつくのを恐れたんだよ……」
俺は、この男の鈍さに呆れて須崎に同情した。
どこからそういう発想になるのか、悪い虫というなら須崎にとって俺の方が悪い虫に違いない。
「まだ解んねぇの?俺といたら颯介が一人残されるのが解っていたから、先生は雲谷が『凪』だなんて嘘を言って、俺から離そうとしたんだ」
「それは違う」
怒色すら感じる低い声に息を呑む。首を軽く左右に振って思案気に窓の向こうへ眼を遣った颯介は、僅かな沈黙のあと、意を決したように俺に向き直った。
「まだ、報せるつもりは無かったんだけどな……手紙を預かっている」
廊下を配膳車の音が忙しく行き来し始めて、コンソメのような匂いが近付いて来た。
颯介は椅子から腰を浮かせると、
「夕食を取って来るよ」
と、パールホワイトの封筒をシーツの上に残して病室を出て行った。

『急啓、神奈川へ赴任が決まりました。
君の退院を待たずに去るのは心残りでは有るが、合併症もなく経過は良好と聞いて安堵しています。
本当は説教の一つもしたいところだが、物分かりの良い顔で何でも直ぐに諦めてしまう君が自分の為に守りたいものを見つけた事は幸いです。教師が言って良い事ではないが、朝雲暮雨を急ぐことはない、待たせておけば良いとだけ伝えておきましょう。
君を卒業まで見守りたかった。くれぐれも身体に気を付けて、お元気で。不一。 
鹿野を頼みます。                    須崎真詩
時枝海晴 様 』  

結語の後の一文は書き足されたものか署名の上というのも配置が悪く、几帳面な須崎らしくなかった。添えること自体、最後で迷ったのか『す』の文字が歪に震えている。俺には『今でも颯介を想っている』という先生の最後の主張に思えた。悪意で見れば、これは頼みじゃなく嫌味だし、好意的に見れば大人の颯介を俺に《頼む》と言うのは先生の大切な人を任せたという、もっとオーバーな言い方をすれば、任せるためにも生きろという俺へのエールともとれる。
その飛躍した解釈の根拠は、俺を《卒業まで見守りたかった》というのが先生が最も書きたかったことだと感じたからだ。須崎は流麗な文字を書くが、その一文だけ思念を感じる強い筆跡に思えたからだ……。
「何も聞いてねーじゃん、いつ……」
動揺した声は独り言のつもりだったけれど、
「予定が早まって本人も慌てている」
と、グリーンのトレーを運んで来た颯介がベッドのテーブルを出した。
「先生に会えない?」
「会わないでくれないか?俺が会って欲しくないんだ」
二人の間でどんな話が交わされたかは判らないが、手紙を見る限り須崎は俺たちが一線を越えたことを知っている。『朝雲暮雨』とは情交のこと、親密な交際、肉体的な交じりの意味が有るのを、四字熟語バカの異名を取る俺は知っている。前後の文脈を見ても須崎がSexを指しているのは明白だ。
「お喋り。何もかも白状することないのに……」
「何の話だ、アイツ、何を書いて来たんだ?」
見ればいいと手紙を遣って、俺は不貞腐れた顔でスプーンを取った。
颯介は怪訝な顔つきでベッド脇の椅子を寄せ、手紙を開く。
「育ち盛りが足りるのか?」
「動いてないもん。でも、今日は颯介と一杯話したから腹が減ったかも……」
嘘じゃなかった。
幸い咀嚼の辛そうなメニューじゃなくて、具沢山の野菜スープを潰して潰してスプーンで掬った。
嚥下する一瞬の緊張を気付かれたはずはないが、颯介が背中を擦ってくれるのも助かった。
「おいおい、これが高校生に宛てた文面か?《待たせておけ》って何を?」
「そこはいい。解っている」
「《鹿野を頼みます》って、おかしいだろ。逆じゃないか?」
「17歳に任された気分はどーよ?オッサン」
真意は俺だけが判れば良かった。
手紙を取り返してさっさと畳むと、颯介は釈然としない顔つきで俺の食事を如何にも不味いものを見る眼で眺めている。
「その顔、やめてくんない?そんなに不味くないよ?」
「俺……、お前のアレがそこそこ立派ってこと、言ってねーからな?」
「……っぶ!っごほっ……、な、何言って?本気で不味くなるわっ、ボケ!」
「口が悪いねぇ、海晴は……」
「颯介が変なこと言うからじゃん!」
「いや『白状』って俺はただ、将来的な意味で海晴を大切にしたいと言っただけだ」
えっ……?身体ごと傾がってフリーズした俺の肩を颯介の逞しい腕がズシリと抱く。
「須崎に海晴を愛していると言った。俺は海晴と生きたい」
真剣な面持ちで言われると、ずっと一緒にいられるという安心感と、いつか竹箆しっぺ返しを食らうんじゃないかという不安に心を乱されるから、俺は上手く笑えなくなってしまう。
「そういうの、まず、本人に言わね?どうして、須崎が先に聞いてんだよ」
「ぁ……、」
間の抜けた声をあげた颯介に振り向かされて、けれど、颯介は期待した表情が見れなくてガッカリしたと思う。俺は素直に『傍にいて』と甘酸っぱい台詞を吐くことが出来なくて、戸惑ったつまらない表情を見せてしまった。少し困ったふうに俺を覗き込んだ颯介がギュッと腕に力を込めて、俺の身体に沁みこませるようにゆっくりと語りかけてくる。
「なぁ、海晴。『Time is money』って言葉、解るか?」
「時は……金なり、だろ?」
「意味は?」
「時間は、お金と同じくらい価値があって大切なもの……?」
「じゃ、本当の意味は?」
「え?」
「手術は成功したし、お前はこれからも生きるんだ。もう、悲観するのはよさないか?そうする間にも時間は過ぎていく。その時間で何かを成せたかもしれない。それを、お前は無駄にしている。ナーバスになるのは理解するさ。でもな、生は誰にも有限で未来は誰にも判らないんだ。一分一秒先のことすら誰にも予測なんてつかないんだよ……」
颯介は俺を励まそうとしている……。その気持ちは、ちゃんと伝わっている。
けれど、幸せな未来を描くことに不慣れな俺は、むしろ、描くことを拒否して生きて来たんだ。
「颯介。その有限が近いことをずっと意識してきたヤツは、これからどう生きればいい……?」
どうせ、模範的な同情心と鼓舞の言葉でも聞かされるのだろうと思っていたら、颯介は瞬時には理解が追い付かないまでも俺の背筋を伸ばすのに十分な言葉を与えてくれた。
「俺がその質問に答えることは難しいが、海晴には答えを見つけ出せるんじゃないか?」
「大人に解らなくて俺に解ることがあんのかよ?」
「あるよ。『大人』は関係ない」
その自信に満ちた顔を見ていると不思議と活力が湧いてくる。案外、俺も乗せられやすいと口の端の綻ぶ思いがして、少し考えて俺には颯介の言うことに答えが出せた気がした。


経験だ……。


俺には生死を彷徨った経験がある。命を失うこととは常に隣り合わせだったし、失くす瞬間を想像して怯えた夜も一度や二度じゃない。だから、命の尊さが解る。多くの人に見守られ甘やかされて育った、その優しさや感謝の気持ちが解る。病弱で勉強も遅れがちで誇れるものなんて何もないと思っていたけれど、俺には物語を紡ぐ頭がある……。
颯介が言った言葉の延長上に有るのは、ないものを嘆くより有るものを生かすことを考えろと言うことじゃないだろうか?
それしかないってことは、それがあるってことだ。
生は有限でも俺は未だ生きている。時間がある。寝ている場合じゃない気がする。一時の前向きで直ぐにまたポッキリ折れてしまっても、それこそ生きているってことだろう?
「……原稿用紙が欲しいな」
と言ったら、颯介は「答えが見つかったか」と嬉しそうに俺の肩を抱き寄せた。
「ううん、そんな大層なものじゃないけど、この悲観も経験なら生きる糧にしてみようと思って。颯介が言いたかったのは、そういうことじゃないの?」
その時、俺は『慈しむ』という顔を見た気がした。
親との血縁愛とは違う、こっ恥ずかしい言い方をすれば人が人を愛する眼とはこういう眼を言うのだろうという情愛深い眼差しに、身体の奥が何とも落ち着かなかった。
困って目を反らした俺に颯介は、
「何冊でも買ってきてやる」
と、顔中グシャグシャにして泣きそうなツラで笑っていた。
何度も何度も、脳震盪を起さないか心配になるほど、頷きながら笑っていた……。

 

退院したら何をしたい?と言うから、
「海を見たことがない」
と言ったら、颯介とドライブする約束が出来た。
「天国より遠いと思っていた……」
思わず言って、口を手で塞ぐ。
「バァーカ……、地獄に墜ちるとは思わなかったんだな」
額にコツンと手の甲骨が振ってきて、俺は颯介の冗談にそれもそうだなと笑った。
「海の中を見てみたい……」
「じゃ、まずは海中展望塔だな」
「波打ち際なら泳げなくても平気?」
「手、引いてやるよ」
「やだよ、カッコ悪い……」
「海の家でイカ焼き食うか」
「オシャレなシーサイドレストランで夕日を見たい」
「女みたいなこと言うんだな?」
「女に言われたことあんのかよ?」
「あるよ、バーカ」
「バカバカ、口が悪いんだから」
軽口叩いては、いつになるかも判らない夢物語に笑い合う。
退院したら暫くはリハビリだ。まずは家の中で、それから近所を散歩、少しずつ距離を伸ばして身体をつくっていかないと復学が遅れてしまう。颯介は今月一杯で購買部の臨時職員ではなくなると言うから、俺が復学する頃にはもういない……。
「寂しい?」
なんて聞くから余計に寂しくなって頷いたら、いつの間にそんな話になっていたのか、俺は退院の翌日から母親が仕事で留守の間は白兎堂の預かりになるらしい。
「今のアパートは仮住まいでね、店の裏が実家なんだ。離れの改修工事が終わったから戻って来いって。本格的に修行に入るからそう構ってやれないが、復学したら下校先は白兎堂だ。人目のある方が安心だし気兼ねはいらない。いいね?」
母親の承諾は得ていると言うが、颯介が俺を家に一人で置きたくないらしい。承諾どころか迷惑なんじゃないかと冷や汗をかいたけれど、既に決定事項みたいな調子で言うから、ここは好意に甘えて後のことは白兎堂の人たちの様子を見て考えようと思った。
「店……手伝えることある?」
「嫁修行か?前向きで良いな」
「そんなんじゃ……。そーすけのバカ!」
「赤くなって可愛いね」
「バッカじゃねーの?バカ、バァーカ、これ、とっとと片付けて来いよ!」
入院して初めて完食した夕食のトレーを突きつけると、
「ハイハイ」
と、笑って病室を出ていく広い背中に頬が緩む。
どうして、俺の周りの人間は、こんなに優しい人ばかりなんだろう……?
白衣の天使に未だ居たのかって顔をされたと苦笑いで戻って来た颯介はインディゴのジャケットを取って片腕に俺の背を支え、静かにベッドへ横たえた。
「疲れるから少し休みな」
「帰るの?」
「原稿用紙が要るんだろ?」
腕の解かれるのは心許なくて、咄嗟にジャケットの袖を掴む。
「どうした?」
「……、万年筆も要る」
「わかった」
「あと……!」
手紙を仕舞った抽斗ひきだしに万年筆があるのを見られていたのかもしれない。颯介は引き止めたい俺の気持ちなんて御見通しとばかりクスッと笑った。
「明日、また来るよ」
髪を撫でてくれる手は優しく、俺は『あした』という言葉を怯えもなく信じられた。
「うん。颯介、また明日な」

また、あした……。

 

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碧、碧、碧……、
目の前に広がる碧は俺が見るはずだった海の碧だ。
見たことのない見た景色に、佇む俺はただ、
ただ……。

面会謝絶の解けた朝の静けさが優しかった。
手首に揺れる菫青石アイオライトのブレスレットがカーテンの隙間から差し込む朝の光にコロコロと表情を変える。まるで、笑っているみたいだ。
救急搬送されて一命を取り留めたものの、AED(自動体外式除細動器)の使用と迅速な人工呼吸が無かったら、脳障害を起こしていたか、最悪、手遅れになっていたらしい。誰が?と思っても、颯介しか有り得なかった。ブレスレットは搬送時には手首にあったと言うから、どういう意図が有るかは判らないが颯介が付けたものだろう。体力の回復を見て手術に臨みICUを出るまでに数日掛かったけれど、これを看護師から返された時には、とても心強くて安心感を覚えた。
一般病棟に移ったとは言え、二人部屋の隣のベッドは空いていて話し相手もない。
「颯介。俺、まだ生きていていいみたいだよ……」
痩せた腕で枕を引き寄せ縋るように頬を埋めると、あの雷雨の夕暮れに抱きしめられた颯介の精悍な胸と枕にするにはゴツゴツと硬い肩骨と、シナモンの香のする力強い腕を思い出して泣きたくなった。
俺は一度でも颯介を諦めてしまった……。
Xデーも過ぎて、今頃は須崎の本当の気持ちを知って颯介も胸を熱くしているだろう。そもそも二人は両想いだったんだし、これで良かったんだ……、これで……。
「それじゃ、海晴。母さん一旦、帰るけれど大丈夫ね?」
朝から担当医の説明を受けに来ていた母が、扉から顔を覗かせて俺を見もせずに言う。
手術で痩せたり浮腫んだり、顔つきが変わってしまった息子の顔を見るたび涙ぐんでいるから「見んなよ」って言ったら、寝顔ばかり見に来るのを寝たふりの俺は知っている。
「うん、大丈夫。父さん、間に合ったかな?」
「さっき、連絡があったわ。週末にまた来るって」
「仕事、忙しいのに来なくていーよ」
「そんなこと言わないの。じゃ、また昼から来るからね」
「母さんもいいって。少し寝ろよ」
「はいはい」
手を振る母を見て、これはまた来るなと頬が緩む。
父は昨夜遅くに鹿児島へ戻った。救急搬送の報せを受けた時は取るものも取りあえず駆けつけてくれたらしいけど、あんまりヨレヨレのスーツで来たから母はビックリして俺の容体が安定して安心した途端、笑い話になったと聞いている。
仕事を投げ出して来た父は翌日には一旦、職場に戻り、俺の緊急手術が決まるや今度は数日分の有休休暇を消化して飛んできた。ただ、台風の影響で到着が遅れ、着いた頃には俺はICUにいて直ぐには会えなかったのだけれど……。あんまり青白い顔で心配するもんだから、
「暫くコッチにいられるなら、俺、弟が欲しいな」
と、冗談を言ったら、目尻にグシャグシャの皺を刻んで「馬鹿者」と、泣いてんだか笑ってんだか判らない顔をしたっけ……。
手のかかる息子に奔走して、余程、倒れやしねぇか心配になる慌ただしい両親に、いつか、してやれることが有ればいいなと今は思う。まだ思いばかりで頭の中はマッシロ、何のビジョンも描けないけれど『いつか』なんて思える贅沢を俺は今、噛み締めている。
「ありがとう……」
母が閉めて数分経った扉を俺は暫く見つめていた。

あんまり、食欲がない。
世話になってこんな言い方も無いけれど、看護師も管理栄養士も俺の顔を見れば馬鹿の一つ覚えみたいに『食事は食べれた?』と聞いてくる。昼ご飯も残したのを午前中の回診や検査で疲れた所為だと言い訳したが、本当は咀嚼するのが辛い……。食べなくちゃいけないことは解っている。術後は寝返りも打てないほど肋骨が痛くてナースコールを押すにも脂汗を掻いていたけれど、これから、6㎏落ちた体重を戻す為に筋肉を回復させないといけない。
リハビリはベッドの上で手足を動かすことから始めている。早い段階で始めた方が合併症を起こすリスクが低いのは解っているから、今朝は病室の扉まで自分で食事を取りに行った。どんなに小さなことでも出来ることから頑張ろうとは思うけれど、今は未だそれがやっとだ……。
眠れない夜も続いて、うとうとしては背中のビリリに呻いている。それでも、限界が来ていたのだろう、ブレスレットにアイオライトの玉が幾つ有るかを数えている内に眠っていたらしい……。
俺は海を見ていた。
テレビや写真でしか見たことがない碧い碧い海を見ていた。
曇天を鏡に映したような漠々とした海に音はなく風もない。そして、俺は潮の香りを知らない。
あのダイビングスクールの看板にあった海の青が目の前に広がることはなく、ただ、暮色と溶けあう碧が寄せて、波打ち際に放った青の竜胆を呑み込んで行った。
「……晴、……」
誰かに呼ばれている。

『帰ろうか……』

どこへ?と空を仰いだ背に温かいものを感じて、俺は海に背を向けた。
「颯介……?」
夢から覚めると目の前に颯介がいた。
一瞬、誰だか判別できないぐらい文字通り『目の前』の鼻がくっつきそうな近さに颯介がいた。温かいと思ったのは彼の大きな手で、椅子に座ればいいのに中腰で、ずっと背中を擦っていてくれたらしい。
「気持ち、い……」
と、眼を細めたら手が止まって、俺が起きていたことに驚いたのか上擦った声が、
「感じるとか言うなよ?」
と、控えめに笑って俺も噴きだした。
「バッカでぇ~……。どうして、ここにいるの?」
「……っ、……くっそ……」
堪えきれずといったていで俺の手を取った颯介は掴んだまま眼を覆って、俺は颯介の涙を絡めた指先に自分が生きていることを今更ながら、ひしひしと感じた。
「大人が泣くのかよ?」
「大人だから泣くんだ。本当に……生きた空も無かった……」
「別に死んだって恨まねーよ……って、ごめん。今の悪い言い方した……」
颯介は苦笑して頷いた。
「なぁ、もう少し擦っていてくれよ。久しぶりに良く寝た……」
「背中が痛むんだってな。母親から聞いた」
「会ったの?」
「1時間くらい前かな。今日は面会時間いっぱい居させて欲しいって言ったら、お願いしますって。美人だよな。お前が母親似で良かった……」
「サイテーだな、アンタ」
笑うと背中がビリビリして、慌てた颯介が背中を擦るついでに何故か頭も撫でてくる。
会えてホッとしたら甘えたくなったから、させるがままにしておいた。
「あのさ……、青の竜胆、あれ、颯介だよね?」
ふと、夢の中で海に流してしまった理由を考える。
『決別』という言葉が真っ先に浮かんで、俺は竜胆の青が波間に消えていくのを、どうして追い掛けなかったのかと溜息をついた。その溜息の意味を颯介は違うふうに捉えたらしい。
「あれは……合わせる顔が無くて持ち帰った」
沈痛な面持ちはその……俺のアレを握った事が引き金で発作が起きたとでも責任を感じているのだろうか?だとしたら、俺は何て慰めればいい?カッコ悪くて合わせる顔が無いのは俺の方だ。実際は初めて他人から与えられた刺激に感じまくった俺の脳がポンコツな心臓をオーバーヒートさせた自業自得で、颯介は何も悪くない。
「……花びらが落ちていた、綺麗な青だった」
「そうか」
「看護師さんが拾ってくれててさ。ほら、栞を作ってくれたんだ」
サイドボードの上の読みかけの文庫本から赤と紺の2組の栞紐が出ている。ゆうべ、消灯前の巡回に来た若い看護師がくれた物だ。俺が捨ててくれと言った見舞いの竜胆と、手術室へ向かう日に颯介が病室の前に散らして行った青の竜胆の花びらが押し花にしてある。ずっと、頭の隅で後悔していたから、その親切心に胸が詰まった。
『勝手なことしてゴメンね。枯れていくの忍びなくて……』
『いえ、有難うございます。たぶん……とても大事な花でした』
申し訳なさそうに謝る彼女に、俺はICUで意識が戻ってから竜胆の贈り主のことを考えない日は無かったから有難くて心の底から礼を言った。
思いがけず戻ってきた二つの竜胆は本当に今、手許に有るのが奇跡のような宝物だ……。
「須崎か」
颯介は紫の花びらを見て言ったのだろう、やっぱり、俺の予感は当たっていたらしい。
「たぶんね。先生には会えなかったけど『病気に打ち克つ』という意味があるって、看護師さんが教えてくれた」
「いや……」
思わずといったていで否定の言葉を言い澱んだ颯介が、怒気を孕んで声を低める。
「須崎から全部、聞いた。どうして言わなかった?」
「ぁ……、えっーと……」
「5分遅れていたら死んでいたかもしれないんだ。どうして、持病を隠していた?」
さっきから廊下を行ったり来たりしているらしい点滴スタンドの車輪の音が止まり、たぶん、2部屋ばかり向こうの扉へ入って行った。替わってナーシングカートと数名の足音がバタバタと病室の外を通り過ぎ、俺の思考は颯介の問いかけに明瞭な解答を持ちながら、言って良いものか躊躇う気持ちの方が強くて、緊張にやたらと喉が渇く。
「……先、…生より先に颯介との夜を奪うため……かな」
「何?」
「もう、いいじゃん!須崎の本当の気持ち聞いたんだろう?だったら俺にはイクが何かレクチャーしてくれただけ、それでいいじゃん!しょーがねーだろ?俺、こんなだし……好きで、でも好きで、解んねーけど、あの時、一緒にいたいって思っちゃったんだから……でも、もう……」
もう、行っていいよと言おうとして顔面を覆う勢いの掌に黙らされた俺は、次の瞬間には、ゆっくりと征服する緩慢さで唇を重ねられていた。
「……っ……ん」
女の子になったみたいに濡れた可愛い声が漏れて、マジで自分の声か?と恥ずかしくなる。
一度、憶えてしまった快感はムズムズとアレを湿らせ、すぐに離れた唇の物足りなさを恨めしげに睨むと、憔悴しきった顔で颯介は俺をそっと抱き寄せた。
「頼むから、俺を諦めるな」
絞り出した声は掠れていて、背を撫でてくれる手はひどく優しい。
「勝利、だ。紫の竜胆の花言葉は『勝利』だよ、海晴……」
颯介の胸中にあるものを俺が理解するのはきっと難しいけれど、彼を得た勝利者が自分だという意味でないのは颯介の心が遠く須崎に向けられてるような語調で察することが出来た。二人だけに解る何かが有るのだろう。けれど、それは嫌な気分のものではなく、何と言うか……感謝?みたいなもの……。
だって、魂ごと包まれるような抱擁ってのは、こんなにも甘やかで安らぐものかと、俺は未だ夢と現の狭間に微睡む心地でいたのだから……。
「……いいのかな?」
ずっと、この人の傍にいたいと思った瞬間、歯がカチカチ鳴り出した。
「ほんとうに俺でいいのかな……?」
「お前がいいんだよ」
颯介は間髪入れず即答した。
「Sex出来ないかもしれないのに?」
「お前ね、病院で何てこと言うんだ」
「だって、他の男とシていいって言えるほど、俺、寛容じゃねーもん」
虚をつかれたって顔で、次の瞬間には「バカだ、バカだ」と颯介は笑った。
「俺は『凪』の小説を読んだ時から、傍にいたいと思っていたんだ」
肩を抱かれて、ヒュッと息を呑む音すら聞こえそうに緊張を高めると、視線の先で重ねられた手と手が互いの脈動を分け合うように強く結ばれた。室温を保っているはずの病室が急に汗ばむほどに温まっていく。栞の青い竜胆に長い指を触れた颯介は西日の茜を背に微笑った。
「君に寄り添いたい」
と……。

花びらと颯介がくれた沢山の感想文の青いインクは、同じ色をしていた。

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