碧、碧、碧……、
目の前に広がる碧は俺が見るはずだった海の碧だ。
見たことのない見た景色に、佇む俺はただ、
ただ……。

面会謝絶の解けた朝の静けさが優しかった。
手首に揺れる菫青石アイオライトのブレスレットがカーテンの隙間から差し込む朝の光にコロコロと表情を変える。まるで、笑っているみたいだ。
救急搬送されて一命を取り留めたものの、AED(自動体外式除細動器)の使用と迅速な人工呼吸が無かったら、脳障害を起こしていたか、最悪、手遅れになっていたらしい。誰が?と思っても、颯介しか有り得なかった。ブレスレットは搬送時には手首にあったと言うから、どういう意図が有るかは判らないが颯介が付けたものだろう。体力の回復を見て手術に臨みICUを出るまでに数日掛かったけれど、これを看護師から返された時には、とても心強くて安心感を覚えた。
一般病棟に移ったとは言え、二人部屋の隣のベッドは空いていて話し相手もない。
「颯介。俺、まだ生きていていいみたいだよ……」
痩せた腕で枕を引き寄せ縋るように頬を埋めると、あの雷雨の夕暮れに抱きしめられた颯介の精悍な胸と枕にするにはゴツゴツと硬い肩骨と、シナモンの香のする力強い腕を思い出して泣きたくなった。
俺は一度でも颯介を諦めてしまった……。
Xデーも過ぎて、今頃は須崎の本当の気持ちを知って颯介も胸を熱くしているだろう。そもそも二人は両想いだったんだし、これで良かったんだ……、これで……。
「それじゃ、海晴。母さん一旦、帰るけれど大丈夫ね?」
朝から担当医の説明を受けに来ていた母が、扉から顔を覗かせて俺を見もせずに言う。
手術で痩せたり浮腫んだり、顔つきが変わってしまった息子の顔を見るたび涙ぐんでいるから「見んなよ」って言ったら、寝顔ばかり見に来るのを寝たふりの俺は知っている。
「うん、大丈夫。父さん、間に合ったかな?」
「さっき、連絡があったわ。週末にまた来るって」
「仕事、忙しいのに来なくていーよ」
「そんなこと言わないの。じゃ、また昼から来るからね」
「母さんもいいって。少し寝ろよ」
「はいはい」
手を振る母を見て、これはまた来るなと頬が緩む。
父は昨夜遅くに鹿児島へ戻った。救急搬送の報せを受けた時は取るものも取りあえず駆けつけてくれたらしいけど、あんまりヨレヨレのスーツで来たから母はビックリして俺の容体が安定して安心した途端、笑い話になったと聞いている。
仕事を投げ出して来た父は翌日には一旦、職場に戻り、俺の緊急手術が決まるや今度は数日分の有休休暇を消化して飛んできた。ただ、台風の影響で到着が遅れ、着いた頃には俺はICUにいて直ぐには会えなかったのだけれど……。あんまり青白い顔で心配するもんだから、
「暫くコッチにいられるなら、俺、弟が欲しいな」
と、冗談を言ったら、目尻にグシャグシャの皺を刻んで「馬鹿者」と、泣いてんだか笑ってんだか判らない顔をしたっけ……。
手のかかる息子に奔走して、余程、倒れやしねぇか心配になる慌ただしい両親に、いつか、してやれることが有ればいいなと今は思う。まだ思いばかりで頭の中はマッシロ、何のビジョンも描けないけれど『いつか』なんて思える贅沢を俺は今、噛み締めている。
「ありがとう……」
母が閉めて数分経った扉を俺は暫く見つめていた。

あんまり、食欲がない。
世話になってこんな言い方も無いけれど、看護師も管理栄養士も俺の顔を見れば馬鹿の一つ覚えみたいに『食事は食べれた?』と聞いてくる。昼ご飯も残したのを午前中の回診や検査で疲れた所為だと言い訳したが、本当は咀嚼するのが辛い……。食べなくちゃいけないことは解っている。術後は寝返りも打てないほど肋骨が痛くてナースコールを押すにも脂汗を掻いていたけれど、これから、6㎏落ちた体重を戻す為に筋肉を回復させないといけない。
リハビリはベッドの上で手足を動かすことから始めている。早い段階で始めた方が合併症を起こすリスクが低いのは解っているから、今朝は病室の扉まで自分で食事を取りに行った。どんなに小さなことでも出来ることから頑張ろうとは思うけれど、今は未だそれがやっとだ……。
眠れない夜も続いて、うとうとしては背中のビリリに呻いている。それでも、限界が来ていたのだろう、ブレスレットにアイオライトの玉が幾つ有るかを数えている内に眠っていたらしい……。
俺は海を見ていた。
テレビや写真でしか見たことがない碧い碧い海を見ていた。
曇天を鏡に映したような漠々とした海に音はなく風もない。そして、俺は潮の香りを知らない。
あのダイビングスクールの看板にあった海の青が目の前に広がることはなく、ただ、暮色と溶けあう碧が寄せて、波打ち際に放った青の竜胆を呑み込んで行った。
「……晴、……」
誰かに呼ばれている。

『帰ろうか……』

どこへ?と空を仰いだ背に温かいものを感じて、俺は海に背を向けた。
「颯介……?」
夢から覚めると目の前に颯介がいた。
一瞬、誰だか判別できないぐらい文字通り『目の前』の鼻がくっつきそうな近さに颯介がいた。温かいと思ったのは彼の大きな手で、椅子に座ればいいのに中腰で、ずっと背中を擦っていてくれたらしい。
「気持ち、い……」
と、眼を細めたら手が止まって、俺が起きていたことに驚いたのか上擦った声が、
「感じるとか言うなよ?」
と、控えめに笑って俺も噴きだした。
「バッカでぇ~……。どうして、ここにいるの?」
「……っ、……くっそ……」
堪えきれずといったていで俺の手を取った颯介は掴んだまま眼を覆って、俺は颯介の涙を絡めた指先に自分が生きていることを今更ながら、ひしひしと感じた。
「大人が泣くのかよ?」
「大人だから泣くんだ。本当に……生きた空も無かった……」
「別に死んだって恨まねーよ……って、ごめん。今の悪い言い方した……」
颯介は苦笑して頷いた。
「なぁ、もう少し擦っていてくれよ。久しぶりに良く寝た……」
「背中が痛むんだってな。母親から聞いた」
「会ったの?」
「1時間くらい前かな。今日は面会時間いっぱい居させて欲しいって言ったら、お願いしますって。美人だよな。お前が母親似で良かった……」
「サイテーだな、アンタ」
笑うと背中がビリビリして、慌てた颯介が背中を擦るついでに何故か頭も撫でてくる。
会えてホッとしたら甘えたくなったから、させるがままにしておいた。
「あのさ……、青の竜胆、あれ、颯介だよね?」
ふと、夢の中で海に流してしまった理由を考える。
『決別』という言葉が真っ先に浮かんで、俺は竜胆の青が波間に消えていくのを、どうして追い掛けなかったのかと溜息をついた。その溜息の意味を颯介は違うふうに捉えたらしい。
「あれは……合わせる顔が無くて持ち帰った」
沈痛な面持ちはその……俺のアレを握った事が引き金で発作が起きたとでも責任を感じているのだろうか?だとしたら、俺は何て慰めればいい?カッコ悪くて合わせる顔が無いのは俺の方だ。実際は初めて他人から与えられた刺激に感じまくった俺の脳がポンコツな心臓をオーバーヒートさせた自業自得で、颯介は何も悪くない。
「……花びらが落ちていた、綺麗な青だった」
「そうか」
「看護師さんが拾ってくれててさ。ほら、栞を作ってくれたんだ」
サイドボードの上の読みかけの文庫本から赤と紺の2組の栞紐が出ている。ゆうべ、消灯前の巡回に来た若い看護師がくれた物だ。俺が捨ててくれと言った見舞いの竜胆と、手術室へ向かう日に颯介が病室の前に散らして行った青の竜胆の花びらが押し花にしてある。ずっと、頭の隅で後悔していたから、その親切心に胸が詰まった。
『勝手なことしてゴメンね。枯れていくの忍びなくて……』
『いえ、有難うございます。たぶん……とても大事な花でした』
申し訳なさそうに謝る彼女に、俺はICUで意識が戻ってから竜胆の贈り主のことを考えない日は無かったから有難くて心の底から礼を言った。
思いがけず戻ってきた二つの竜胆は本当に今、手許に有るのが奇跡のような宝物だ……。
「須崎か」
颯介は紫の花びらを見て言ったのだろう、やっぱり、俺の予感は当たっていたらしい。
「たぶんね。先生には会えなかったけど『病気に打ち克つ』という意味があるって、看護師さんが教えてくれた」
「いや……」
思わずといったていで否定の言葉を言い澱んだ颯介が、怒気を孕んで声を低める。
「須崎から全部、聞いた。どうして言わなかった?」
「ぁ……、えっーと……」
「5分遅れていたら死んでいたかもしれないんだ。どうして、持病を隠していた?」
さっきから廊下を行ったり来たりしているらしい点滴スタンドの車輪の音が止まり、たぶん、2部屋ばかり向こうの扉へ入って行った。替わってナーシングカートと数名の足音がバタバタと病室の外を通り過ぎ、俺の思考は颯介の問いかけに明瞭な解答を持ちながら、言って良いものか躊躇う気持ちの方が強くて、緊張にやたらと喉が渇く。
「……先、…生より先に颯介との夜を奪うため……かな」
「何?」
「もう、いいじゃん!須崎の本当の気持ち聞いたんだろう?だったら俺にはイクが何かレクチャーしてくれただけ、それでいいじゃん!しょーがねーだろ?俺、こんなだし……好きで、でも好きで、解んねーけど、あの時、一緒にいたいって思っちゃったんだから……でも、もう……」
もう、行っていいよと言おうとして顔面を覆う勢いの掌に黙らされた俺は、次の瞬間には、ゆっくりと征服する緩慢さで唇を重ねられていた。
「……っ……ん」
女の子になったみたいに濡れた可愛い声が漏れて、マジで自分の声か?と恥ずかしくなる。
一度、憶えてしまった快感はムズムズとアレを湿らせ、すぐに離れた唇の物足りなさを恨めしげに睨むと、憔悴しきった顔で颯介は俺をそっと抱き寄せた。
「頼むから、俺を諦めるな」
絞り出した声は掠れていて、背を撫でてくれる手はひどく優しい。
「勝利、だ。紫の竜胆の花言葉は『勝利』だよ、海晴……」
颯介の胸中にあるものを俺が理解するのはきっと難しいけれど、彼を得た勝利者が自分だという意味でないのは颯介の心が遠く須崎に向けられてるような語調で察することが出来た。二人だけに解る何かが有るのだろう。けれど、それは嫌な気分のものではなく、何と言うか……感謝?みたいなもの……。
だって、魂ごと包まれるような抱擁ってのは、こんなにも甘やかで安らぐものかと、俺は未だ夢と現の狭間に微睡む心地でいたのだから……。
「……いいのかな?」
ずっと、この人の傍にいたいと思った瞬間、歯がカチカチ鳴り出した。
「ほんとうに俺でいいのかな……?」
「お前がいいんだよ」
颯介は間髪入れず即答した。
「Sex出来ないかもしれないのに?」
「お前ね、病院で何てこと言うんだ」
「だって、他の男とシていいって言えるほど、俺、寛容じゃねーもん」
虚をつかれたって顔で、次の瞬間には「バカだ、バカだ」と颯介は笑った。
「俺は『凪』の小説を読んだ時から、傍にいたいと思っていたんだ」
肩を抱かれて、ヒュッと息を呑む音すら聞こえそうに緊張を高めると、視線の先で重ねられた手と手が互いの脈動を分け合うように強く結ばれた。室温を保っているはずの病室が急に汗ばむほどに温まっていく。栞の青い竜胆に長い指を触れた颯介は西日の茜を背に微笑った。
「君に寄り添いたい」
と……。

花びらと颯介がくれた沢山の感想文の青いインクは、同じ色をしていた。

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