蜂蜜色の紙袋を提げた女性の足取りはモデラート。
すれ違いざまに焼き菓子の甘い香りがして、俺たちは彼女が出てきた石畳を入って行った。
芝に猫足フレームのエレガントなガーデンテーブルセットが置かれていて、花壇や植木鉢にはデイジーの白やピンクが、まだ冷たい二月の風にも可憐に咲いている。

「環、ほんとうに入るの?」
「入るよ?何のために来たんだよ」

俺を苗字で呼ぶこの人は四室艶夜さん。
高校時代の二年先輩で、彼のDarlingの虎先輩と俺の朝也と何かにつけ四人で集まっては、旅行したり飲み会をして楽しんでいる。シャイでいつもどこか自信なげな人だけど、今日みたいに突然、誘っても嫌な顔ひとつしない人の好いところ、俺は好きだ。

「カップケーキを買いに行くって言ったよね?」
「電気屋に付き合えって言わなかった?」
「付き合ってくださいって言ったんだよ」
「言い方はどっちでもいいよ」
「だって、そうでも言わなきゃ、バレンタインのスイーツを買いに行くとか嫌がるでしょ?」
「嫌がると思っていて、誘ったんだ?」

騙したね?という眼をしても、次の瞬間には「しょうがないなぁ」って許してくれるのが艶夜さんだ。だんだん、どうして自分が呼ばれたのか得心がいったという顔つきになって、怒るような拗ねるような困った顔で色白の頬をピンクにするのも可愛い人だ。

「君は、お節介だね」
「どうせ、何も用意してないんでしょ?イベントは楽しまなくちゃ」

いつも、好き好き言って艶夜さんを恥ずかしがらせている虎先輩が『肝心の艶夜からは、一度もチョコレートを貰ったことがない』なんてボヤくから、俺は、そりゃそうでしょ?って言ったんだ。彼は貰う側の人だもん。頭が良くて優しくて、女性が放っておく訳ないだろう?って。
その時の虎先輩の雷雨の中のアヒルみたいな顔ったら面白かったけど、俺はディナーの予約はしてあるの?って訊いたんだ。先輩があげればいいじゃん?俺の育ったイングランドでは食事を共にして、男性から女性に花やチョコレートを贈って愛を伝える日なんだよって言ったら、根が単純な人だから、それなら自分が用意するかって、どこのチョコレートが旨いかを尋いてきた。そうなると、艶夜さんからもサプライズがあったら、ふたりのバレンタインデーはとてもHappyだと思わない?……それが、俺が艶夜さんを誘った理由だ。
こんなに気の利く良くできた後輩の俺はShun.こと環俊平。NY仕込みの新進画家で、今は活動拠点を日本に移して、絵と朝也で頭がいっぱいの毎日を過ごしている。

 


閑静な住宅街に一際、愛らしいフラミンゴピンクの外壁。
真白の扉を押して足を踏み入れた頭上は天井の一部が吹き抜けになっていて、大きなアンティークのシャンデリアが特別な一日を演出してくれる。

「すごいね」
「当たりかもしれない」

バレンタインデーに西洋菓子を求める女性たちのキャッキャする声に包まれて、パステルカラーの華やかな店内は焦がしバターの香りと、仄かに花の香りがした。四室さんは場違いに思うのだろう。一瞬、足を止めて居心地悪そうな顔を俺に向けたけれど、俺はそのあたり頓着しないから、にっこり微笑んで彼を苦笑させた。
Doigts de féeドワ ドゥ フェ』という店名はフランス語で『妖精の指』を意味するらしい。
クグロフやケーキ、とりわけ、本場イングランドのカップケーキに出会える知る人ぞ知る名店と聞いて来たけれど、これは期待以上かもしれない。マダガスカル産のバニラや厳選された小麦粉を使って焼き上げられたカップケーキはフレーバーも豊富で、どれも見た目にキュートだ。

「ここのクリーム、着色料を使ってないんだって」
「えっ~、こんなにカラフルなのに?」

ふと、隣の女性ふたりのそんな会話が聞こえてきて、

「へぇ?そうなんですね。じゃ、何を使って色をつけるんだろう?」

俺はごく自然に話しかけたつもりだけど、慌てた様子の艶夜さんが後ろから俺の服を掴んで「ごめんね」と引き離す。「いえいえ、大丈夫です~」と返ってきた声は全然、迷惑そうじゃないのに、艶夜さんに「めっ」て顔をされた。

「環はすぐ声掛けるんだから。聞き耳立てたみたいなの良くないよ」
「聞こえただけだし」

そして、やっぱり「しょうがないなぁ」って、この人は笑うんだ。

「虎先輩が艶夜さんは時折、口うるさいって言ってたの本当なんですね」
「アイツ、そんなこと言ったの?虎のガス抜きに付き合わせて悪かったね」

軽い嫌味のつもりが、あはははーと笑われて、結構喰えない性格をしていると可笑しくなった。お互い気になる所が違ってねと虎先輩を想うとき、艶夜さんはとても幸せそうだ。俺と朝也もそうだろう?って訊かれたけど、どうかな?朝也は可愛げがないぐらい完璧で、仕事も家のことも人間も、今のところ非の打ち所がない。

「朝也がガス抜きに艶夜さんを頼る日が来たら、水母クラゲの骨を浮かべて一杯、ご馳走しますよ」
「つまり、そんなことは有り得ないって言うんだね?」
「だって、俺が朝也に小言を言うところ想像できる?」

逆なら有りそうだけど、と思った瞬間、今朝、洗濯物を干すのを頼まれていたことを思い出して、朝也の「お前な……」という低い声が脳裏をのっそりよぎって行った。夕方には戻ると言っていたけれど、帰ってから洗濯し直して乾燥機に放り込めば、たぶん間に合うだろう。

「寄り道でもして来ればいいのに」

いつもは早く帰れと急かすのに、こういうときは身勝手なことを思う。シマッタとは思ったけれど、艶夜さんからトレイを渡されて、今はこの夢のようなパティスリーを楽しむことにした。
パレットを広げたような色とりどりのクリームは、店員さんの話では果物由来と言うから驚きだ。
定番のバターリッチとヘーゼルショコラは絶対に入れるとして、朝也に贈るカップケーキはギフトボックスの大きさを考えたら可愛いのは六つ。進物っぽくなりすぎない個数で欲張っても十二個までがベストだろう。朝也が好きなピスタチオ、彩の良いラズベリーヨーグルトやハニーレモン、キャロットも良いかも知れない。俺の好きなクランベリーに、バニラやブルーベリークリームチーズも美味しそうだ。アップルシナモンにストロベリー、ショコラオレンジも捨てがたい。レッドベルベットはこの店では食紅でなくビーツを使っているらしいけど、朝也は赤が強すぎて眉間に皺をつくるかもしれないな……。抹茶ホワイトチョコや鳴門金時、栗やカボチャの和のフレーバーも一つは入れたいし、アールグレイやココナッツ、メイプルピーカンナッツに……、ああ、バナナウォルナッツも外せない気がする!
フレーバーが多くてこれは迷いそうだと思ったら、隣で艶夜さんも試験当日の受験生みたいな顔をして食い入るようにショーケースを覗き込んでいた。

「折角だから買って帰りたいけど、環、これは困ったね」
「うん。日持ちするなら、全フレーバー揃えたいぐらい」
「さっき聞いてみたら、今日を入れて三日みたいだよ?」

さっきまで、居心地悪そうな顔で周りを気にしていたのに、艶夜さんの眼は真剣だ。
きっと、頭の中では虎先輩とのこれまでのティータイムをフル回転で振り返っていて、彼が好みそうなフレーバーを集めることに全神経を注いでいるのだろう。この真剣な表情のぶん、虎先輩は愛されていて、俺はくすぐったくて茶化したくなってしまう。

「艶夜さん、艶夜さん」
「何?」
「顔、カタイ。スイーツは嬉しい顔して買うもんだよ?」
「……え゛」

俺がニィって笑ったら、つられて頬をヒクヒクさせた艶夜さんがぎこちない笑みを浮かべて「ムリ」と天井を仰いだ。

「さっさと買って、ここを出よう」
「えーっ、カフェスペースもあるのに、お茶しないの?」
「しないよ。神月を誘って、またおいで」

朝也を……、それも良いかもしれない。
風が誘う花や果実の爽やかな香りに、この店は紅茶も良い茶葉を揃えていそうだと思った。次の週末にでも誘ってみよう。

「環、いくつ買う?こういうの買ったことがないから、どう、組むのがいいかな?」
「人気商品を店員任せが、てっとり早くて間違いないと思うけど……」
「君の言葉にしては雑だね」
「だよね。間違えるのもアリだと思うから、俺は選ぶの楽しむよ?九個入りなら正方形の箱があるみたいなんだ。カードを真四角に作ったから、合うと思わない?」
「カード?……って入れる意味ある?」
「え?カード、大事でしょ?見る?結構、上手く作れたんだよ?」

「猫にゃあ~」と、コートのポケットから朝也へのカードを取り出すと、虎先輩がよく『リスみたいな眼』と言うクリクリした瞳が、一層、まんまるになった。

「自分で作ったの?画家って工作も得意なんだね」
「彫紙アートって言うの。作家さんの講習会に参加して教わったんだけど、俺、器用だって褒められちゃった。猫、カッコイイだろ?」

紙を重ねてアートナイフで切り抜いていく彫紙アート。
重なる色目も奥行きのある断面も美しくて、紙の種類も色も豊富な日本だから、こんなに繊細なアートが生まれたのだと思う。モチーフはバラの花束を担ぐクールな猫。細かい所で粗が目立つから完璧とは言えないけれど、艶夜さんは「すごくいいね」って笑ってくれた。
店内の曲がオルゴールの可愛い音から懐古調の落ち着いた音色に変わって、窓辺を温める午後の陽射しをまるくする。ティータイムを楽しみに訪れる客で表の待ち合いの椅子も座りきれないようだ。

「ねぇ、艶夜さんの好きなフレーバーって何?」

艶夜さんのトレイには、好奇心旺盛な虎先輩が喜びそうな派手なフレーバーばかり五つのカップケーキが乗せられていて、きっと、この人は自分のぶんなんて考えもしないのだろうと思った。その答え合わせのために聞いてみたんだ。

「艶夜さんなら、どれ食べたい?」
「俺?うーん……シンプルなもの。バニラとか……、ぁ、アップルシナモンは美味しいかもしれない」

ほらね、どっちもトレイにない。俺だったら自分の好きなフレーバーも混ぜちゃえとか、そのぶん余計に買っちゃおって思うけど、艶夜さんは只々、虎先輩のことしか頭にないんだ。
彼が九個分の虎先輩の好きを詰めて、頬張る彼にお茶を淹れて眼を細めるとしたら、俺は八個分の朝也の好きに一個の自分の好きを混ぜて、朝也がそれに気づくかを見ていたい。

『俊平はクランベリーだよな?』

って寄越したら、合格って、いっぱいキスしてやろうと思う。そんな馬鹿げた『好き』の確認に意味なんてないけど、気持ちのどこかで安心できるなら、俺はいっぱい朝也を試すのだと思う。朝也の気持ちを疑うとか足りなく思うとか、平穏そのものの共同生活に何ら不満はない。ただ時々、俺は欲張りになって、もう、うんざりするぐらい愛されたくなってしまうんだ。

「甘えてるよなぁ……」
「うん、甘そうだよね、アップルシナモン」
「え?」
「ん?」

首を傾げて俺を見る黒真珠のように綺麗な眼が、次の瞬間、糸のように細くなって、

「環は、わかりやすいね」

朝也のぶんと俺のぶん、無意識にトレイの上で分けていたのを笑われた。

 


蜂蜜色の紙袋を提げた帰り道の足取りはアダージョ。
駅前の大通りへ出た横断歩道の手前で電車が近付くのを見て、けれど、艶夜さんも俺も急ごうなんて気はさらさらない。今日は付き合ってくれてありがとうって言おうと思ったら、先に「誘ってくれてありがとう」と言われて、うんと言ったきり、どうしてかその先が続かなかった。

「神月がどうして環がいいのか、君とこうして出かけるようになって分かった気がする」
「ぇ?」
「君は飽きないよね。時々、冷や冷やしたりビックリさせられるけど、たぶん、一緒じゃなかったら、経験しないようなことや面白い考えとか、色んな意味で刺激的で飽きないよ」
「……」

そよぐ風は甘やか。
そして、艶夜さんは「また、誘って」と、青信号を指差した。


I hope it will be a good Valentine’s Day.

                          

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