桜が香るから、家へ帰るのをやめた。
夢か現か花弁は激しく渦巻いて、身体を攫うように呑み込んでいく。
甘やかな香りは俺の身体から匂っていて、

「まだ、酔っているのか?」

思わず、苦笑してしまう。
本当は、ただ、帰りたくなかったのかもしれない。
雪曇りの空の下、ジニーに何からどう切り出したものか
さっきから俺は、そればかりを考えている。 いいや?
考えなくちゃと思いながら、俺の浮ついた頭は一人の男の名前ばかり反芻していた。

神月朝也かんづきともや、神月朝也……」と。

昨夜はチェルシーにいた。
ニューヨークはマンハッタン南西部に位置するチェルシーは元倉庫街だった辺りにコンテンポラリーアートのギャラリーが軒を連ね、最新アートの一大発信エリアになっている。国内外のアーティストも多数集まり、絵画を始めパブリックアートやCGアート、ポートレートや版画など、あらゆる芸術に溢れていてエネルギッシュだ。さながら俺にはテーマパークみたいなもので、暇さえ有れば自宅のあるイースト・ハーレムから通いつめ、飽きもせず刺激的な界隈を堪能している。その一角に俺をサポートしてくれるギャラリーがあり、昨夜はそこのギャラリストと行きつけのバーにいて、そのまま朝を迎えてしまった。
そう、俺は画家だ。
まだ駆け出しだけど、高校を卒業と同時に日本を離れて7年、ぼちぼち入選や受賞もして先だって注目の若手アーティストを特集した某アート誌にヴィジョナリーアートの新星として作品が紹介されたことで『Shun』は新進気鋭の日本人画家だと巷に広まった。
現在、25歳だ。
ヴィジョナリーアートとは日本語では『幻視芸術』とでも言うもの。神話や霊的体験、精神世界を軸に幻想的な世界を描き出す芸術と言った方が解りやすいかもしれない。誌面の影響とは恐ろしいもので、サンクスギビングホリデーに開催した『Shun』こと環俊平たまきしゅんぺいの個展は、本人も信じられないほどの反響を呼んで成功を収めた。展示即売会の売り上げも上々で、すっかり気を良くしたギャラリストにロブスターを鱈腹ご馳走になり祝杯を上げに連れて来られたのが、この、いつものバーだったというわけだ。ゲイバーだけどね。
チェルシーのもう一つの顔は、8th Ave.を中心としたゲイタウンであること。中でも度々連れて来られるこの店は、広さ、歴史ともに名店として賑わっている。煌びやかに着飾ったドラァグクイーンが絶妙なトークでショーを盛り上げ、バーカウンターでは顔立ちの整ったバーテンダーが筋肉美を誇らしげにアピールしながらカクテルを出すのが人気のようだ。正直、俺は興味がない。それでもゲイには紳士的な人が多いし客層には年配も多く、店が老舗の度量で興味本位の観光客やストレートも受け入れているためか、東洋系の少なさを気にしなければ居心地も悪くはない。

「ねぇ、テッド。前から思っていたんだけど、どうして俺と飲む時は此処なの?」

親子ほどに歳の違う彼を俺はファーストネームのTheodreを『Ted』と愛称で呼び、慕っている。Theodre Bailey セェオドア・ベイリー、妻子持ちのストレートだが、好奇心旺盛で何でも楽しんでしまうこの風変わりなオッサンは、俺がギャラリーに顔を出すと打ち合わせと称して食事の後には大抵この店に連れてくる。考え過ぎかも知れないけれど、俺は段々それが彼の単なる興味ゆえでない気がしていた。

「どうした、シェーン?夜通し飲むには都合がいいし、楽しいじゃないか。お前さんは嫌いじゃないと思っていたがね?」

彼は俺を『シェーン』と呼ぶ。本名の『シュンペイ』が言いづらいから画家名の『Shun』が通り名になって、けれど何度聞いても『シェーン』としか聞こえない。そのうち、それが俺の呼び名になった。

「やっぱり、そんなふうに思っていたんだ。それって俺がゲイだと言いたいんだよね?」
「違ったかい?」

違うね、とは直ぐに否定できないこのバカ正直さ。
一瞬、言葉に詰まった俺は或る男の面影に胸を突かれて、きっと苦笑いでもしただろう。

「いつから、そんなふうに思っていたの?俺は此処の連中とだって寝てないし、むしろ、テッドがいつもこの店を選ぶからケツ貸せってサインなのかと半年は疑ったよ。俺、抱かれんの?って。断ったら契約も破棄?絵を売るためにカラダを売るのはマズくね?って葛藤しちゃったよ」

誤魔化したいが為の饒舌。くだらないことをペラペラ捲し立てている内に苦笑いし出したのはテッドの方で、笑い飛ばす俺の隣で彼は飲んでいた酒を吹き出してゴホゴホ噎せていた。

「お前さんは何てことを言うのかね?」
「だって、あははは……」

笑っていると今度は目頭が熱くなって泣きたくなってきた。
俺の脳髄をダイレクトに溶かしてしまいそうな低く甘やかな声が桜の香を纏い、記憶の中で陶然と俺を支配し始めたからだ。

『……俊平、来い……』

カンヅキトモヤ。時空を超えて朝也の声が降り注ぐ時、決まって彼は俺に『来い』と呼びかけてくる。唯一、この身体を好きにしていい男だ。
重ねた肌の温もりもヤケにリアルで、辿る指先の行方を期待して落ち着かなくなる。

「生々しいんだよ……」

自分の声にハッと我に返った途端、顔から火を吹きそうに恥ずかしい思いをして咄嗟に目の前のビールを一気に飲み干し咳込んだ。

「シェーン!何をやっている⁈」

慌てたテッドに瓶を取り上げられて、胸を抉るような甘い名残に胸が苦しくなった。
熱い……身体がざわついて、心臓が壊れそうだ。

「だ、大丈夫。テッドがゲイとか言うから、ちょっと変なことを思い出した……」
「嗚呼いや、ゲイが悪いと言うんじゃないんだ。前に、お前さんに惚れている知人の娘を紹介しようとしたら、女は要らないと言っただろう?その若さと秀麗な顔立ちで女性に無関心とは何か事情でも有……」
「もう、いい。顔洗ってくる」

心配性のテッドが付き添おうと席を立つのを断って、俺は足早に奥のレストルームへ立った。
全然、大丈夫なんかじゃなかった。身体が疼く。頭の中で朝也が『来い』と俺を呼ぶ。その腕が俺を抱く。絡めた手と手が解けると、その冷たい指先が俺の熱い昂まりに触れ……。

「ちょっ、待……!」

固く眼を瞑ると全身がゾワゾワと粟立って、暴発寸前で俺は大きく息を呑み込み食い止めた。
妄想で勃つとか俺は何処まで青臭ぇんだ……。レストルームの出入口に屯する男たちが下卑た笑みを浮かべ、値踏みする好奇の眼で俺を遮ろうとする。こういう眼には慣れていた。少しでも怯えた眼を見せれば便器にされるのは俺の方だ。

「そこ、退いてくれない?ちょっと、飲みすぎちゃって切羽詰まってんだけど」
「飲みすぎ、ねぇ?俺がヨくしてやるよ、お嬢ちゃん」
「何だバレてるのか。なら、尚更ノーサンキューだ。オマエじゃ、勃ったモノも引っ込んじまうよ」

目敏いヤツだ。可笑しくなって笑い飛ばすと、体格のいいリーダー格のブラックはギョッとしたように眼を剥いて俺を見下ろした。きっと、想像した人格と俺の反応が男の中で噛み合わなかったのだろう、珍獣でも見る眼つきだ。これも慣れている。この大男と数人には見憶えがあった。

「騒ぎを起こすと店に迷惑が掛かる。ニックも此方を見ている。常連なら俺の言いたいこと判るよね?」

この店の人気No.1のバーテンダーの名を出すと、男たちは舌打ちして一様に黙り込んだ。
自分で言うのも何だが俺はニックに愛されている。カラダの関係はない。
彼は桁外れのハンサムでユーモアがあり気も利く。上背のある逞しい体躯はゲイにモテるし、荒くれ者にも一目置かれる存在感を遺憾なく発揮しながら、当人は胸筋の薄い俺などまるで子供扱いのこの店で何故か通い始めた当初から俺にご執心のようだ。その所為で彼目当ての客たちの俺を見る眼は冷たく、何度か裏通りへ連れ込まれたり痛い目も見ている。とばっちりだけど、脅し文句に彼の名を出すだけで本人に話したことはない。男たちが一人の男を取り合って、その一人に愛される第三者の男を妬むなんて御笑い種だが、俺には攻撃的になる気持ちが……少し判るからだ。
「通してやれ」
と言うリーダー格の男の声で俺は男たちの間を摺り抜けるように逃れ、レストルームに閉じ籠った。
やべぇ、捕まって絞られていたら、呆気なくイッちまうところだった。切羽詰っていたのはその、用を足す方じゃなくて育っちまったコッチの方で、まさか、こんな所で自分でヌく羽目になるとは思わなかった。

「……っ!くそっ!テッドのヤツ……ぅ、んっ…と、朝、……」

高校生だったあの頃、俺は寝ても覚めても朝也を追いかけてばかりいた。
追えば逃げる月のように、手を伸ばしても届かない月のようにその存在は焦がれるばかりのもので、やっと掴まえた月も水面に映る月のように危ういものに思えていた。
どちらからともなく当たり前のように触れた唇の熱さも、思い出すたび俺の頭をフワフワさせる。
卒業式、まだ蕾も堅い校庭の桜の樹の下で、ずっと傍にいると誓った。誓う心のうちでサヨナラを繰り返した。画家を志していた俺は『絵を学ぶために3年くれ』と切り出し、
『翌月にはイングランドの親許へ行く』
そう、デタラメを言って、その足でひっそりと渡米した。
今思えば、浅はかな嘘だったかも知れない。けれど、親許だと言えば朝也も安心すると思ったし、俺は自分が弱いのを知っていたから誰にも引き止めて欲しくなくて、もっとも引き止められることを想定する自体、甘えちゃいるけど、誰にも居場所を報せず自分に逃げ場を作らないようにしたつもりだった。7年間は予定外に離れすぎたけれど、今でも気持ちは変わらず、ずっと朝也の傍にいる……。
朝也と肩を並べられる自分に成りたかった。
俺がアイツを必要とするように朝也にも俺を必要だと感じて欲しかった。
守られる自分でなく、俺も朝也を守れる存在に成りたかった。
その力が欲しかった……。

「朝也。俺たち、まだ繋がっているかな……?」

嗚咽の声を上げそうになって奥歯を噛み締めた。だって可笑しいじゃないか。今更、何を泣くんだ。
朝也から離れて行ったのは俺の方。無性に逢いたくて今すぐにも帰りたくて、こんな思いは今までにも何度も繰り返しては踏み留まってきたはずなのに気持ちが逸る。

「朝也。俺、帰ってもいいか?」

握りしめる記憶の糸が未だ朝也と繋がっているのなら、手繰り寄せて、また会えるだろうか?
濡れた手を見て苦笑い、ポリ…と、頭を掻いた。

「やっぱ、そろそろ……潮時」

そういえば、あの日、あの桜の樹の下で朝也は、どんな表情かおをしていただろうか……?

Bookmark