ニューヨークから7年ぶりに帰国して、3ヶ月。
俺としては今も恋人……の家に転がり込んで共に暮らして、3ヶ月。
高校生の頃には知らなかった朝也の色んな顔を知って、最初の緊張はどこへ行ったか、何だかんだいい感じに上手くやっている。そんな、梅雨も間近の欠伸ばかりしていた休日の昼下がり、図書館へ行くという朝也にくっついてきた。
広大な敷地に立つクラシカルな意匠の洋館は長い歴史の面影を今に残して、優雅な佇まいをしている。国内でも指折りの蔵書数、とりわけ専門書が充実していて、贅沢なスペースの取り方でテーブルが配されているのも長居をしてしまう要因だった。

「朝也と来るのは学生のとき以来だね」
「そうだな」

他には誰と?とは聞いてこない。恋人を束縛しない出来たカレシと、少しくらい干渉されたい俺。心の中で『ひとりで来るんだけど』と返答し、舌を打った。
温かみのある照明が照らす室内に人けは疎らだ。
カビ臭いと言ってしまうのは情緒がない湿り気と、埃っぽい古い紙の甘やかな香りが鼻先をくすぐる。

「このバニラの匂いが落ち着くんだよね」
「虎さんが絶対、トイレ行くやつな」
「あぁ、学校の図書室?あの人、30分もたなかったよね」

二つ上の虎先輩とは今も仲が良いけれど、何かと笑い話に事欠かない。しょうもない思い出話に二人して笑いだし、高い天井に声が響いたのを慌てて殺した。

「揮発性有機化合物、バニリンだったか」
「何?」
「この臭い。本がもっている化学物質が光や湿気に触れるこ…、」
「あー、そういうのいいから。朝也は今、俺のノスタルジックな感傷に水を差したんだからな?」
「はいはい」

いい加減な相槌で俺を御座なりにした朝也は、もう気持ちが建築関係の書に99.6%向いているに違いない。迷いもなく奥の書架へ最短ルートを行こうとして、階段の下で足をとめた。

「俊平は、どうせ美術書だろ?」
「どうせって何だよ。クリムトとモディリアーニの区別もつかないくせに」
「それ、高校の時の話だろ?」
「……ぇ、」
「いや、今も区別つかねぇかも」

同時代に生きたクリムトとモディリアーニは俺の目には全く作風も違うし、どう混同するのかも判らないけれど、どちらも女性の裸体を多くテーマとして肖像を描いている。苦笑いの朝也は責められないかもしれない。それよりも、朝也がそんな思い出の欠片をまだ持っていてくれたことに、俺は驚きつつも浮き立った。

「……で、俺が好きなのは?」
「クリムト」
「正解」

朝也の記憶力の良さは俺を他愛もなくゴキゲンにする。



朝也と別れて重厚な木調の大階段を2階へ上がると、ひっそりした美術書のコーナーは雨後の香りがした。色褪せた背表紙を見上げて、部屋の隅に置かれていた脚立を拝借する。
グスタフ・クリムトの画集だ。
テーブル席より脚立の上にいる方が照明に近かったから、誰もいないのをいいことに俺はそこで画集を開いた。大して見る者もいないのだろう。ページを捲るたびに陰気なカビの臭いが漂って、討ち取った男の生首を恍惚と愛撫する女に再会する。……『ユディトI』だ。

「やぁ、久しぶりだね……」

俺は画家だけど肖像画は得意としない。けれど、子供の頃からこの絵に惹かれていた。
胸をはだけ、昏い金の衣装に乳房を透かし、半閉じの目からは誇らしさが半開きの口許からは歓喜が窺える。その官能性は男性原理への反発とも女性原理の勝利のシンボルとも評されているが、もちろん、10歳そこらの子供が絵の背景を解っていた訳ではない。ただ、この絵のエロティシズムと美に内包される狂気を幼心に享受していたか……厳格で融通の利かない家に育って、後々、反骨心のようなものを揺さぶられることはあった。
朝也は俺がユディトと会うのをこころよく思わなかったと思う。
絵の好き嫌いじゃなく、俺が彼女を見る時の精神状態が追い詰められていてヤバかったからだ。大抵、家で一悶着起こして登校するなり図書室へ行き、荒んだ目で眺めている。それを見ていられないと朝也が追うようになって、彼といると俺の心は平穏だったから次第に彼女とは疎遠になった。今では悪くない思い出だ。

「君の前で朝也が俺にキスしたの憶えてる?」

恋とか愛とか、そんな甘いものじゃなくて、きっと、同情……。
原因なんてもう忘れたけれど、その日も俺は怒り狂っていて、たぶん、悔しくて泣いた。歯がカチカチ鳴りっ放しで、縋ったのは俺。朝也はただ黙って俺を抱きしめて、もう震えないように口を塞いでくれた。俺は、とっくに朝也のことが好きだったし、今の俺なら秒で蹴り飛ばしているしつこさで彼に付きまとって……、けれど今にして思えば、無口でも朝也が俺を無視したことはなかった。
朝也から唇を重ねてきたことにびっくりして、手に持っていた画集を床に落としちゃって、
『THE KISS』のページが開いたの、二人で気まずい顔してさ。
男にキスしたのなんて初めてだったろうに、先に視線を外したのは俺の方だった……。

 


トットゥルリーと鳥の声がする。
明かり取りの窓の向こうに空の青。こんな湿っぽい部屋で15の夏に浸っているなんて、我ながらキモチワルイ……。
「俊平?」
と、朝也が出入口から覗き込んで、俺はものすごく待っていたのかも。
ショップの外に繋がれた飼い犬が主人を見つけて尻尾を振るみたいにパッと視界が明るんで、緩んだ頬を「おう」とか言って引きしめた。

「用事、終わったの?」
「待たせた」

手でゴメンをつくる朝也の今日の収穫は分厚い本2冊だったようだ。
脚立の上から見る朝也は俺の見慣れない小さな朝也で、旋毛に寝癖を見つけたのを触ろうとすると「よせ」と苦笑いする。
「頭、撫でていい?」と図に乗って、
「よくねーよ」と手を遮られて、
脚立を蹴倒すぞと言われて、諦めた。
休日スタイルのくだけた朝也は仕事モードの整いすぎた彼より色気がある。短くした栗色の髪は長めの前髪を手櫛に後ろへ遣り、斜に射す陽に眇める眼はヘイゼル。素肌に白いシャツをゆったり着こなして、その皺の流れからも彼の骨格の良さが窺えるのが憎らしい。
こんな男と暮らしているなんて、今に心臓が一つしかないことを足りなく思うだろう。

「何を見ていた?」
骨の髄まで溶かされそうな声の低さも好もしい。
「クリムト」

膝の上の『THE KISS』は朝也の視線の先にある。
不意に真顔になった朝也はクリムトの絵を、ユディトを、今も気にするなんてことないと思うけれど、黙りこんでしまった。
……気まずい……。
あの頃を蒸し返す気はないから、フッーと細く息を吐いて目を逸らし、俺の中ではとっくに懐かしい思い出だと言葉を探す。
「俊平」
ぼそりと俺を呼ぶ声に朝也の感情が見つからない。
「俊平」
さっきよりもハッキリした口調で呼ばれて、俺は掴まれた腕を咄嗟に引こうとした。
『また、取りあげられる』と身構える気持ちが走って、そのあとを、絵を見ることも描くことも父に咎められた幼少期が鬱々と身体を冷やしていく……。
一瞬の怯えも見逃さない朝也は僅かに表情を曇らせて、俺を迎え入れるように腕を広げた。袖を掴み、もう一方の手を反対側の肩に触れようとする。まるで、木登りをして降りられなくなった猫でも助けるようだ。

「降りるから、そこを退いて」

と、本を閉じても、朝也は退こうとしなかった。
空気が動いて、唾を呑みこむ音が耳の奥をザワリと掻きまぜる。


俺たちはキスをした。


重ねた唇が震えているのは俺の所為。
傾いだ身体は心許なくて、絡めた指と指をぎゅっと結んだ手は、たしかな意図をもって俺の心に安寧を注ぐ。朝也、朝也と心裡で名を呼んで、頭の中は朝也でいっぱいで、ミシッと揺れた足場の覚束なさを熱い手に支えられ、もっと熱い息を求めて俺は朝也の愛を貪った。どんな辞書で調べても『愛』ってやつは不確かで、けれど、分け合うこの熱は信じられるから、俺は爪を立てて、その肩に縋った……。

「どうした?」
と、俺を見上げる朝也が優しく笑う。
「お前、必死すぎ。泣きそうな顔してどうした」
今度は子供をあやすみたいに俺の膝を擦った。
「ううん、綺麗な顔してキスするんだなーと思って」
「眼ぇ瞑れよ」
「やだよ、もったいない。朝也を見おろすなんて、そうそうないんだから」
「降りろ」
「降りない」

降りろ、降りないを何度か繰り返して、ふたりを包む風がまあるくそよいだから、朝也はしょうがないなって顔で片手に俺の腰を抱きとめ、もう一度、キスをくれた。




鏡に映る俺が不細工で見るに堪えない。
蕩けて緩みきった頬を叩き、トイレの蛇口に手をかざした。

『……どうして、キス、した?』

何で、そんなことを訊いちゃったかなと思う。
あれは誘われたキスだったから、好きだからとか、したかったからとか、朝也が『THE KISS』に動かされた理由にそんな甘酸っぱいものでも期待したかもしれない。

『わかってねーな』

予想外の返答は思わず口をついて出たというふうな言い澱んだもので、朝也は「一服してくる」と先に階段を降りていった。その口許が薄らと笑っていたから、俺の鈍さを責めたというより鈍くて良かったと思ったか、あるいは考える時間をくれたのだろう。
つまり、さっきのキスには意味があった。
もしかすると、同情でも構わないと思っていた10年前のキスも同情ではなかったのかもしれない。そこまで考えて俺は今、トイレに駆け込み、泣き笑いのどうしようもない不細工を水で洗い流している。

「あのとき、朝也はもう俺を好きだった……?」

そんなはずはないと思う一方で、そうだと嬉しいって頭ばかり働いて……だとしたら、俺は朝也からの初めての好きの意思表示を10年間も気づかずにいたのかと、今更、ほんとうに今更気づいて胸を熱くした。それじゃ、さっきのキスは……、

「10年越しの……朝也からの、好き?」

顔が熱い。
顔が熱い……。
灼けつくように熱い。

擦ったって火照っていくばかりだし、冷たいはずの水道水も微温湯に感じる。

「朝也……」

すぐにも顔を見たくなって、数十メートルさえ離れていられなくて階段を駆けおりた俺は《廊下はお静かに》のポスターの前を足早に通り過ぎ、エントランスホールで俺を待っていた大きな背中に掴みかかった。勢いに驚いた初老のご婦人が何事?という顔をしてすれ違っていく。

「朝也、俺、わかったから!」
「何が」

ちゃんと、お前の気持ち受け取ったから!という言葉が口よりコンマ秒早く脳裏に弾けて、俺はこっ恥ずかしさに寸でのところで呑み込んだ。

「あー……、トイレの場所」
「……。へぇ」

何を言ったと頭を抱えるには遅い。
呆気にとられた朝也の顔がみるみる笑いたそうな顔になって、失態に鼻先を熱くした俺の顔が余程可笑しいのか、堪えきれないとばかり手で眼を覆い、笑い出した。
締まらないけれど、きっと、俺の言いたいことは伝わっている……。

「笑うな。今日のお前は優しいんだから、そのままでいろ」
「優しい……俺が?」
「うん。プレーンドーナツがハニーグレイズドになるぐらいには甘やかされた気がする」
「よくわかんねーけど」

歩き出した朝也のうしろをニヤニヤとついて行く。
ミルクティー色を深めた館内は一層、穏やかに寛いだ空気が漂っていて、帰ると思った朝也はフロアを横切り、仄暗い通路を奥へ入っていこうとする。

「改装したばかりだってな」

何が?と聞くまでもなく、廊下の途中に置かれたチョークボードに俺は高揚した。
『復刻檸檬ケーキ(セット可)』
この図書館の喫茶室の人気メニューだ。余所にはない素朴な味を好んで、学生時代に俺が読書以上に楽しみにしていたことを朝也は憶えていたらしい。帰国して3度目の来館になるけど、閉店したのだと思っていた。ほんとうに朝也の記憶力の良さは他愛なく俺をゴキゲンにする。

「食ってくだろ?」
「トーゼン!」

やわらかな照明の下で朝也の笑みがとても幸せそうに見えたから、今日はいい一日だったと、俺は差し出された手を強く握り返した。


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