Cry for the moon.6
桜に誘われて、寄り道をした。
舞い積もる花弁が脳裏を浸食して、心を溶かすピンク。
花嵐の見せる幻影は制服の第二ボタンが千切れた高校生のアイツの姿、
「朝也、俺のこと呼んで……」
手を伸ばすと、フッと消えた。
ポケットを探れば、指先に触れる繋がったふたつの釦。
垂り雪の音にハッとすると、肌を刺す零下の空から新しい雪が降り出していた。
さて……。
顔を合わせると帰国を切り出しにくい。
ジニーには電話で伝えようと木陰に寄り添いながら、
俺は逢いたさつのる男の名前ばかり反芻していた。
「神月朝也、神月朝也……」と。
冬のマンハッタンの夜明けは遅い。
街が動き出すAM7:48、春を待つ桜の枝が雪花に濡れるセントラル・パークをボウ・ブリッジまで来て、俺はジニーにコールした。
「今、どこ?」
と、訊いてくる不機嫌丸出しの声は、どうやら未だ眠っていたらしい。
「おはよう、ジニー。今、桜を見て来たんだ。春は遠いね。また雪が降り出した。あぁ……俺、日本に帰るんだけど、キミどうする?そこは元々俺が契約した部屋だし、色々手続きとかさ……」
我ながら酷い言い種だ。
こんな大事な話を突然、それも電話で言い出す後ろめたさが、肝心なところで俺の口調を軽薄なまでに早口にする。これじゃまるで、ジニーを追い出すみたいじゃないか。咄嗟に思ったものの、彼女の顔を見て話していないことが返って俺を落ち着かなくした。ジニーは黙ったままだ。彼女が今、どんな顔で聞いているかは何となく想像できた。きっと目が据わって呆れるのを通り越した顔で口をへの字に曲げているんだ。少しの沈黙のあと、彼女は静かにこう言った。
「すぐに帰ってきて」
曇天から薄ら日が広大なザ・レイクに降り注ぐ。
凍てつく冷気が喉を刺す中、俺はコートの襟を立てて、五番街へ抜ける道を歩き出した。
足取りはこの後のジニーとの遣り取りの気重さから遅れがちで、逸る心は朝也との再会を想像って早鐘を打つようにバクバクし、それを鎮めるように頭では帰国するまでに何をしておくべきかを物凄いスピードで弾き出している。
地下鉄レキシントン街線をE116st駅で降りると、家までは徒歩5分。
散乱するゴミも雨が降るたびに其処彼処に水溜りを作る凸凹のストリートも、この日は雪に隠れて綺麗なもんだ。建物と建物に挟まれて潰されそうな古い低層アパートはエントランスまでに階段が3段、その手摺りは錆びたり剥げたりしている。レリーフを施したブラウンストーンの外壁には無骨な黒い二重扉が嵌め込まれ、その重い扉の奥、薄暗い共用スペースから最上階の5階へ上がれば、俺とジニーが暮らす部屋がある。当然、ウォークアップだ。エレベーターなんてついていない。
間取りは400sq.ft.のスタジオ、大体、37.0平米ってところか。大学の寮を1年で出て以来、俺はこの部屋で独り暮らしをしてきた。
赤茶けた板張りの床は軋むわ靴音は響くわで、防音の為にカーペットを敷き詰めるよう大家から言われたが、美意識が許さず部分的にラグを用いている。天井まで届きそうなブックシェルフと広いワークデスクの他は人ひとり寝てギリギリのソファーベッドぐらいしか家具と呼べるような物はない。唯一、窓辺の一輪挿しが彩を成してはいるが、後は整理してもしきれない作品と画材に床を侵食されるばかりだ。そこへ、1年前にジニーがフラットシェアを持ちかけてきて、部屋の隅に一向に片付かないダンボール箱の山が築かれ、大きなスーツケースと2体のトルソーが増えた。
Juniata Miller 、彼女は駆け出しのジュエリーデザイナーだ。
同居のキッカケは単なる利害の一致だった。彼女の元のシェアメイトが就職を機に帰郷してしまい、半年経たずに生活が苦しくなったらしい。俺としては友達とはいえ、この狭い部屋に女と二人きりは気が引けたけれど、家賃や生活費が割り勘になるのは正直、有難かった。それに、躊躇っている間に押し掛けて来ちゃったんだから仕方ないじゃない?
「……ジニー、起きてる?」
コートを脱いで物音を立てないように身体一つぶん扉を開いて中へ滑り込んだ。
外は氷点下だが、ニューヨークのアパートでは大家にセントラル・ヒーティングの設置が義務付けられていて、ラジエーターからの放熱で室内は暑過ぎるくらいだ。
ジニーは縦に四角く切り取られた窓を僅かに透かしてイーゼルの前に座り、ぼんやりと俺の絵を見ていた。春の息吹を感じさせる明るい色調の風景画は俺が生まれて12歳まで育ったイングランドのキングストン・アポン・テムズの街並みに着想を得たファンタスティックアートで、懐旧の念や癒しの心象風景を描いたものだ。来週にも引き取られて、ナーシングホームの一角に飾られることが決まっている。
「……貴方には珍しい絵ね」
豊かなブロンドの髪が揺れたが、ジニーは此方には振り向きもせず、落ち着いた口調で言った。
「そうかな?」
「そうよ。いつもは頭の可笑しな絵ばかり描くわ?」
「キミは初めて会った時もそんなことを言って、俺の頭の中を覗いてみたいと笑ったよ」
「そう?案外、根に持つタイプなのね」
「あれ?最上級の褒め言葉だと自負していたんだけど、違ったの?」
ジニーとは大学で同じファインアートを専攻して親しくなった。
初対面で『可笑しな絵を描くのね』と声を掛けられ『大胆と言うか奇抜?頭の中を覗いてみたい感じ』と笑った顔を俺は今も憶えている。在学中に資金が底をついて生活が窮迫し、バケーション返上で卒業を急いだ俺と違い、彼女は悠長に5年も在籍して卒業した。
歳は彼女の方が一つ上だ。快活で言いたいことを言うジニーと居るのは楽だったし、互いの感性をぶつけ合うのに手応えのある才能を彼女は持っていた。それに、常に腹を空かせていた俺に差し入れをしてくれたのも、寮を出てからも時々様子を見に訪ねてくれたのも彼女だ。最初は俺に気があるのかと自惚れもしたが、彼女にはフロリダに恋人がいて今も毎日のように惚気話を聞かされている。
「ところで、昨夜は何処にいたの?朝帰りはよしてって、いつも言ってるわよね?」
「キミがそう言うから、その日のうちに戻るようにしたら、この前は夜遅くに出歩くなって叱ったよね?」
「日付が変わる頃になって戻るからよ」
こんな遣り取りは日常茶飯事だ。元より世話好きな女だから、しなくてもいい心配までする。
以前はもっと同性同士のようなドライなスタンスでいた。分け合う時間が長くなるにつれ、二人の距離が縮まったのだと本気で心配してくれるジニーを可愛くは思う。思うけれど、確実に俺への干渉と小言は増えて少々煩わしい。その上、近頃のジニーは、まるでゴシップ好きのお嬢さんだ。
「誰かと一緒だったの?最近、夜に出かけることが多いのね」
また、そんなことを言い出した。俺は、こういうのが首に縄を付けられるようで、ひどく苦手だ。
もっとも、このプライバシーを黙視しようのない狭い部屋で、普段は当たり前に目に付くものが見えないと気になるのも心理かもしれないが……。
「よせよ。誰と寝たわけでもない」
「そんなこと言ってないじゃない!」
「そうかな、そういう目をしているけど?大体、そんな格好で俺に説教をたれるのもどうかしている。俺を男として見ないキミに今更『女』になられても困るよ」
肩に羽織ったホワイトリリーのカーディガンから、ジニーの瑞々しく健康的な姿態を包むオールドローズのベビードールが覗いている。彼女が聖夜を恋人のTimothy と過ごすために買っていた物だ。俺に見せびらかして、
『胸元のチュールレースと、たっぷりのドレープがエレガントよね。背中で結ぶ黒のサテンリボンが利いているわ』
と、そのはしゃぎようったらなかった。
結局、Xmasは彼の都合がつかず、俺と二人でつまらなそうにシャンパンを開けたんだけど、そのベビードールを今、身につけているということは……、そういうことなんだろうな?
「ティムは泊まって行かなかったの?」
「よく判ったわね、彼が来たこと」
「判るさ。良い品だね。良く似合っている」
吸い寄せられるように膝を折った俺は、ごく自然に彼女の腰に手を触れていた。手触りの良い滑らかなシフォンが指に馴染む。
「ありがとう。でも、貴方に急に『男』になられても困るわ、シュン?」
「ちぇっ、逆襲……」
掌に伝わるジニーの肌の温もりがチリッと熱さを増す。俺は朝也のことを考えていた。
他人の体温は怖い。常なら意識下に潜められる存在を不意打ちのように呼び覚まし、寂しさがつくる綻びを広げようとする。そして、その存在を綻びごと忘れてしまえと徒に心を惑わすんだ。誰かを抱いて抱かれてして、一時、慰められる寂しさが有ったとして、その後に残る悔いや虚しさや、あるいは裏切りの感情をどう受け止めればいい?
目を閉じるまでもなく、朝也の肩のラインを指でなぞることができる。続く腕の力強さを、包まれる肌の熱さを憶えている。そして、これは自ら選んだ寂しさだと言い聞かせる。その繰り返しだ。
「どうしたのよ、シュン?ぼんやりして。ゆうべ、抱かれた男が忘れられない?」
トンデモナイ言葉を聞いた気がして顔を上げると、形のいい唇をキュッと結んで綺麗な顔で俺を見おろすジニーと目が合った。俺を抱く朝也の腕がスウッーと遠去かっていく。
「大丈夫?夢から醒めたみたいな顔をしているわよ?」
「ええっと……キミ、今『抱かれた』って言った?」
「そうね?言ったわ」
女の身体に触れて朝也の体温を思い返していた俺も俺だが、この女のデリカシーのなさときたら、
「ゲイは方便だったろ?キミだって共犯なんだ、判るはずだ」
「そうね。ティムに貴方とのフラットシェアを認めさせる口実だったわ、初めはね」
「今もだよ」
ジニーとの共同生活を始めて、3日と経たずにティムが血相を変えて怒鳴り込んできたことがある。
それもわざわざ、フライトだけでも3時間は掛かるオーランドから俺という人間を自分の目で確かめるためにやって来たんだ。『事後承諾はマズかったね』と言った俺にジニーは『だったら、貴方がゲイになればいいのよ』とケロッと笑った。何て無神経な女だと悶着するうちに彼を迎えて、少々のことにはビビらない俺があまりの剣幕に自分はゲイだと言ってしまった。結果的にはその嘘が方便になり、彼がアッサリ納得したことにも驚いたし、不本意ながら未だに、まるで疑われることなくゲイのフラットメイトで通っていることにも驚いている。
「どうして、そうなるかな?昨夜はテッドと飲んで、家に泊めて貰った。それだけだ」
「初めから、そう言えばいいのよ。こっちは心配しているのだから。ねぇ、気づいてた?一緒に歩いていても男たちの眼が貴方を見るの。失礼な話よね。鏡を見なさい?誰も25の男だなんて思わないわ。解ったら、一人で暗がりを歩かないことね。そのうち、酷い目に遭うわよ」
「どっちが失礼なんだか。ジニーは俺のこと、まるで子供扱いだな」
「シュンは聞き分けが悪いぶん、子供より始末が悪いわね」
氷雪混じりの風が窓硝子を震わせる。
室温が急に下がり始めたのを感じて窓を閉めようと近づくと、一際、強い風が大きな音を立てて、叩きつける勢いで窓が閉まった。
「やっべ、指、詰めるトコだった!あははは、すげぇ吹雪いてる」
人は余りにビックリすると笑い出したりする。咄嗟に手を引いた俺の後ろで音に耳を塞いだジニーが「キャッ」と声を上げていた。その手を覆うように掌で包むと俺は囁くように心の内を伝える。
「ジニー、心配してくれて有難う、叱ってくれて有難う。それから……大丈夫だよ」
聞こえているはずはない。けれど、ジニーは微笑ったようだった。
「着替えてくるわ」
着替えると言っても、衝立一つない見通しのいい部屋だ。仄暗い部屋の隅で彼女に背を向けて床に胡座をかいた俺は何となし落ち着かずに天井を見上げ、ただ揺れていた。少し熱っぽかった。
時折、鞭打つような風音が空気を裂く。外は相当、荒れ模様だ。それまで気にも留めなかったボイラーのカンカンという音が、一度、気にし出すと耳について離れなくなった。
「ねぇ、こんな季節外れに桜嫌いのシュンが、どうして桜を見に行ったの?」
ジニーが少し離れた処から声を掛けてくる。遠回しに帰国の理由を訊いているのは明白だった。
「嫌いなんて言った覚えはないけど、そうだね、花粉症だから冬の間に見ておこうと思って」
ジニーは「嘘つき」と小さく笑った。
彼女は毎年、桜の頃を楽しみにしていて、ブルックリンで行われる桜まつりには決まって仲間たちを集める。けれど、俺は一度も誘いに応じたことがない。桜は独りで見るものだ。桜を見る俺の顔を誰にも見られたくはない。
「もう、誘えないのね」
と、ジニーは俺を責めるでもなく言った。俺は何も返せなかった。その言葉は俺の帰国を受け入れざるを得ない彼女の諸々の感情を含んでいて胸をチクリと刺した。
「ただの里帰りじゃなさそうね。どうして?」
「うーん……。魂の居たい場所へ帰ろうと思って」
「コタエになっていないわ。いつ?」
「2月。あまり、時間がない」
「え、何なの?今更、何を急ぐのよ?」
「色々と手続きに時間が掛かるし部屋の解約もすぐに動くよ。キミにも迷惑を掛けるけれど、いつか、帰国するなら2月と決めていたんだ。理由は聞くなよ」
「つまり、理由があるのね」
ジニーは問い質しこそしなかったが、背中の向こうで深呼吸かと思うほど深い溜息が聞こえた。
『理由』は俺の勝手な感傷だ。
7年前の卒業式、あの桜の下で俺は俺の現在と朝也の現在を重ねたいと思っている。そして、そこから今度は同じ方向を見て歩き出したい、ずっと、そう願ってきた。