桜に誘われて、寄り道をした。
舞い積もる花弁が脳裏を浸食して、心を溶かすピンク。
花嵐の見せる幻影は制服の第二ボタンが千切れた高校生のアイツの姿、

「朝也、俺のこと呼んで……」

手を伸ばすと、フッと消えた。
ポケットを探れば、指先に触れる繋がったふたつのボタン
しずり雪の音にハッとすると、肌を刺す零下の空から新しい雪が降り出していた。
さて……。
顔を合わせると帰国を切り出しにくい。
ジニーには電話で伝えようと木陰に寄り添いながら、
俺は逢いたさつのる男の名前ばかり反芻していた。

「神月朝也、神月朝也……」と。




冬のマンハッタンの夜明けは遅い。
街が動き出すAM7:48、春を待つ桜の枝が雪花に濡れるセントラル・パークをボウ・ブリッジまで来て、俺はジニーにコールした。

「今、どこ?」

と、訊いてくる不機嫌丸出しの声は、どうやら未だ眠っていたらしい。

「おはよう、ジニー。今、桜を見て来たんだ。春は遠いね。また雪が降り出した。あぁ……俺、日本に帰るんだけど、キミどうする?そこは元々俺が契約した部屋だし、色々手続きとかさ……」

我ながら酷い言い種だ。
こんな大事な話を突然、それも電話で言い出す後ろめたさが、肝心なところで俺の口調を軽薄なまでに早口にする。これじゃまるで、ジニーを追い出すみたいじゃないか。咄嗟に思ったものの、彼女の顔を見て話していないことが返って俺を落ち着かなくした。ジニーは黙ったままだ。彼女が今、どんな顔で聞いているかは何となく想像できた。きっと目が据わって呆れるのを通り越した顔で口をへの字に曲げているんだ。少しの沈黙のあと、彼女は静かにこう言った。

「すぐに帰ってきて」




曇天から薄ら日が広大なザ・レイクに降り注ぐ。
凍てつく冷気が喉を刺す中、俺はコートの襟を立てて、五番街へ抜ける道を歩き出した。
足取りはこの後のジニーとの遣り取りの気重さから遅れがちで、逸る心は朝也との再会を想像って早鐘を打つようにバクバクし、それを鎮めるように頭では帰国するまでに何をしておくべきかを物凄いスピードで弾き出している。
地下鉄レキシントン街線をE116st駅で降りると、家までは徒歩5分。
散乱するゴミも雨が降るたびに其処彼処そこかしこに水溜りを作る凸凹のストリートも、この日は雪に隠れて綺麗なもんだ。建物と建物に挟まれて潰されそうな古い低層アパートはエントランスまでに階段が3段、その手摺りは錆びたり剥げたりしている。レリーフを施したブラウンストーンの外壁には無骨な黒い二重扉が嵌め込まれ、その重い扉の奥、薄暗い共用スペースから最上階の5階へ上がれば、俺とジニーが暮らす部屋がある。当然、ウォークアップだ。エレベーターなんてついていない。
間取りは400sq.ft.スクエアフィートのスタジオ、大体、37.0平米ってところか。大学の寮を1年で出て以来、俺はこの部屋で独り暮らしをしてきた。
赤茶けた板張りの床は軋むわ靴音は響くわで、防音の為にカーペットを敷き詰めるよう大家から言われたが、美意識が許さず部分的にラグを用いている。天井まで届きそうなブックシェルフと広いワークデスクの他は人ひとり寝てギリギリのソファーベッドぐらいしか家具と呼べるような物はない。唯一、窓辺の一輪挿しが彩を成してはいるが、後は整理してもしきれない作品と画材に床を侵食されるばかりだ。そこへ、1年前にジニーがフラットシェアを持ちかけてきて、部屋の隅に一向に片付かないダンボール箱の山が築かれ、大きなスーツケースと2体のトルソーが増えた。
Juniata Miller ジュニアータ・ミラー、彼女は駆け出しのジュエリーデザイナーだ。
同居のキッカケは単なる利害の一致だった。彼女の元のシェアメイトが就職を機に帰郷してしまい、半年経たずに生活が苦しくなったらしい。俺としては友達とはいえ、この狭い部屋に女と二人きりは気が引けたけれど、家賃や生活費が割り勘になるのは正直、有難かった。それに、躊躇っている間に押し掛けて来ちゃったんだから仕方ないじゃない?

「……ジニー、起きてる?」

コートを脱いで物音を立てないように身体一つぶん扉を開いて中へ滑り込んだ。
外は氷点下だが、ニューヨークのアパートでは大家にセントラル・ヒーティングの設置が義務付けられていて、ラジエーターからの放熱で室内は暑過ぎるくらいだ。
ジニーは縦に四角く切り取られた窓を僅かに透かしてイーゼルの前に座り、ぼんやりと俺の絵を見ていた。春の息吹を感じさせる明るい色調の風景画は俺が生まれて12歳まで育ったイングランドのキングストン・アポン・テムズの街並みに着想を得たファンタスティックアートで、懐旧の念や癒しの心象風景を描いたものだ。来週にも引き取られて、ナーシングホーム老人福祉施設の一角に飾られることが決まっている。

「……貴方には珍しい絵ね」

豊かなブロンドの髪が揺れたが、ジニーは此方には振り向きもせず、落ち着いた口調で言った。

「そうかな?」
「そうよ。いつもは頭の可笑しな絵ばかり描くわ?」
「キミは初めて会った時もそんなことを言って、俺の頭の中を覗いてみたいと笑ったよ」
「そう?案外、根に持つタイプなのね」
「あれ?最上級の褒め言葉だと自負していたんだけど、違ったの?」

ジニーとは大学で同じファインアートを専攻して親しくなった。
初対面で『可笑しな絵を描くのね』と声を掛けられ『大胆と言うか奇抜?頭の中を覗いてみたい感じ』と笑った顔を俺は今も憶えている。在学中に資金が底をついて生活が窮迫し、バケーション返上で卒業を急いだ俺と違い、彼女は悠長に5年も在籍して卒業した。
歳は彼女の方が一つ上だ。快活で言いたいことを言うジニーと居るのは楽だったし、互いの感性をぶつけ合うのに手応えのある才能を彼女は持っていた。それに、常に腹を空かせていた俺に差し入れをしてくれたのも、寮を出てからも時々様子を見に訪ねてくれたのも彼女だ。最初は俺に気があるのかと自惚れもしたが、彼女にはフロリダに恋人がいて今も毎日のように惚気話のろけばなしを聞かされている。

「ところで、昨夜は何処にいたの?朝帰りはよしてって、いつも言ってるわよね?」
「キミがそう言うから、その日のうちに戻るようにしたら、この前は夜遅くに出歩くなって叱ったよね?」
「日付が変わる頃になって戻るからよ」

こんな遣り取りは日常茶飯事だ。元より世話好きな女だから、しなくてもいい心配までする。
以前はもっと同性同士のようなドライなスタンスでいた。分け合う時間が長くなるにつれ、二人の距離が縮まったのだと本気で心配してくれるジニーを可愛くは思う。思うけれど、確実に俺への干渉と小言は増えて少々煩わしい。その上、近頃のジニーは、まるでゴシップ好きのお嬢さんだ。

「誰かと一緒だったの?最近、夜に出かけることが多いのね」

また、そんなことを言い出した。俺は、こういうのが首に縄を付けられるようで、ひどく苦手だ。
もっとも、このプライバシーを黙視しようのない狭い部屋で、普段は当たり前に目に付くものが見えないと気になるのも心理かもしれないが……。

「よせよ。誰と寝たわけでもない」
「そんなこと言ってないじゃない!」
「そうかな、そういう目をしているけど?大体、そんな格好で俺に説教をたれるのもどうかしている。俺を男として見ないキミに今更『女』になられても困るよ」

肩に羽織ったホワイトリリーのカーディガンから、ジニーの瑞々しく健康的な姿態を包むオールドローズのベビードールが覗いている。彼女が聖夜を恋人のTimothy ティモシーと過ごすために買っていた物だ。俺に見せびらかして、
『胸元のチュールレースと、たっぷりのドレープがエレガントよね。背中で結ぶ黒のサテンリボンが利いているわ』
と、そのはしゃぎようったらなかった。
結局、Xmasは彼の都合がつかず、俺と二人でつまらなそうにシャンパンを開けたんだけど、そのベビードールを今、身につけているということは……、そういうことなんだろうな?

「ティムは泊まって行かなかったの?」
「よく判ったわね、彼が来たこと」
「判るさ。良い品だね。良く似合っている」

吸い寄せられるように膝を折った俺は、ごく自然に彼女の腰に手を触れていた。手触りの良い滑らかなシフォンが指に馴染む。

「ありがとう。でも、貴方に急に『男』になられても困るわ、シュン?」
「ちぇっ、逆襲……」

掌に伝わるジニーの肌の温もりがチリッと熱さを増す。俺は朝也のことを考えていた。
他人ひとの体温は怖い。常なら意識下に潜められる存在を不意打ちのように呼び覚まし、寂しさがつくる綻びを広げようとする。そして、その存在を綻びごと忘れてしまえといたずらに心を惑わすんだ。誰かを抱いて抱かれてして、一時、慰められる寂しさが有ったとして、その後に残る悔いや虚しさや、あるいは裏切りの感情をどう受け止めればいい?
目を閉じるまでもなく、朝也の肩のラインを指でなぞることができる。続く腕の力強さを、包まれる肌の熱さを憶えている。そして、これは自ら選んだ寂しさだと言い聞かせる。その繰り返しだ。

「どうしたのよ、シュン?ぼんやりして。ゆうべ、抱かれた男が忘れられない?」

トンデモナイ言葉を聞いた気がして顔を上げると、形のいい唇をキュッと結んで綺麗な顔で俺を見おろすジニーと目が合った。俺を抱く朝也の腕がスウッーと遠去かっていく。

「大丈夫?夢から醒めたみたいな顔をしているわよ?」
「ええっと……キミ、今『抱かれた』って言った?」
「そうね?言ったわ」

女の身体に触れて朝也の体温を思い返していた俺も俺だが、この女のデリカシーのなさときたら、

「ゲイは方便だったろ?キミだって共犯なんだ、判るはずだ」
「そうね。ティムに貴方とのフラットシェアを認めさせる口実だったわ、初めはね」
「今もだよ」

ジニーとの共同生活を始めて、3日と経たずにティムが血相を変えて怒鳴り込んできたことがある。
それもわざわざ、フライトだけでも3時間は掛かるオーランドから俺という人間を自分の目で確かめるためにやって来たんだ。『事後承諾はマズかったね』と言った俺にジニーは『だったら、貴方がゲイになればいいのよ』とケロッと笑った。何て無神経な女だと悶着するうちに彼を迎えて、少々のことにはビビらない俺があまりの剣幕に自分はゲイだと言ってしまった。結果的にはその嘘が方便になり、彼がアッサリ納得したことにも驚いたし、不本意ながら未だに、まるで疑われることなくゲイのフラットメイトで通っていることにも驚いている。

「どうして、そうなるかな?昨夜はテッドと飲んで、家に泊めて貰った。それだけだ」
「初めから、そう言えばいいのよ。こっちは心配しているのだから。ねぇ、気づいてた?一緒に歩いていても男たちの眼が貴方を見るの。失礼な話よね。鏡を見なさい?誰も25の男だなんて思わないわ。解ったら、一人で暗がりを歩かないことね。そのうち、酷い目に遭うわよ」
「どっちが失礼なんだか。ジニーは俺のこと、まるで子供扱いだな」
「シュンは聞き分けが悪いぶん、子供より始末が悪いわね」

氷雪混じりの風が窓硝子を震わせる。
室温が急に下がり始めたのを感じて窓を閉めようと近づくと、一際、強い風が大きな音を立てて、叩きつける勢いで窓が閉まった。

「やっべ、指、詰めるトコだった!あははは、すげぇ吹雪いてる」

人は余りにビックリすると笑い出したりする。咄嗟に手を引いた俺の後ろで音に耳を塞いだジニーが「キャッ」と声を上げていた。その手を覆うように掌で包むと俺は囁くように心の内を伝える。

「ジニー、心配してくれて有難う、叱ってくれて有難う。それから……大丈夫だよ」

聞こえているはずはない。けれど、ジニーは微笑ったようだった。

「着替えてくるわ」

着替えると言っても、衝立一つない見通しのいい部屋だ。仄暗い部屋の隅で彼女に背を向けて床に胡座をかいた俺は何となし落ち着かずに天井を見上げ、ただ揺れていた。少し熱っぽかった。
時折、鞭打つような風音が空気を裂く。外は相当、荒れ模様だ。それまで気にも留めなかったボイラーのカンカンという音が、一度、気にし出すと耳について離れなくなった。

「ねぇ、こんな季節外れに桜嫌いのシュンが、どうして桜を見に行ったの?」

ジニーが少し離れた処から声を掛けてくる。遠回しに帰国の理由を訊いているのは明白だった。

「嫌いなんて言った覚えはないけど、そうだね、花粉症だから冬の間に見ておこうと思って」

ジニーは「嘘つき」と小さく笑った。
彼女は毎年、桜の頃を楽しみにしていて、ブルックリンで行われる桜まつりには決まって仲間たちを集める。けれど、俺は一度も誘いに応じたことがない。桜は独りで見るものだ。桜を見る俺の顔を誰にも見られたくはない。

「もう、誘えないのね」

と、ジニーは俺を責めるでもなく言った。俺は何も返せなかった。その言葉は俺の帰国を受け入れざるを得ない彼女の諸々の感情を含んでいて胸をチクリと刺した。

「ただの里帰りじゃなさそうね。どうして?」
「うーん……。魂の居たい場所へ帰ろうと思って」
「コタエになっていないわ。いつ?」
「2月。あまり、時間がない」
「え、何なの?今更、何を急ぐのよ?」
「色々と手続きに時間が掛かるし部屋の解約もすぐに動くよ。キミにも迷惑を掛けるけれど、いつか、帰国するなら2月と決めていたんだ。理由は聞くなよ」
「つまり、理由があるのね」

ジニーは問い質しこそしなかったが、背中の向こうで深呼吸かと思うほど深い溜息が聞こえた。
『理由』は俺の勝手な感傷だ。
7年前の卒業式、あの桜の下で俺は俺の現在いまと朝也の現在いまを重ねたいと思っている。そして、そこから今度は同じ方向を見て歩き出したい、ずっと、そう願ってきた。

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昇陽

白々と明けゆく静寂、蒼の刻。
脈打ち始める太陽は日向と影を分かつ。
泡沫うたかたの息遣いに、俺の中で何かが生まれようとしていた。

Is it what’s called impulse衝動ってやつ?

時は経る傍から「現在」を「過去」に変えてゆくから、
一分一秒、意識をもって生きないと、もったいない気がするんだ。
今を置き去りにしないように。ただ、流されないように。
もしも今、やってみたい事があるなら、
始めるChanceはどの一分一秒にも有るって、俺は思うんだ。
追い風を待てばいい。風は必ず吹く。
ほら、Happy endもAction起こさなきゃ迎えようがないって言うじゃない?

空の高みに手を伸ばす。
届かないなんて、誰が決めたんだ?

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I’m worn outもう、疲れた. Let’s take a break休憩しようよ!」
「それ、何度目だ?」
「日本の夏、きらーい。蒸し暑くてベタベタする。朝也、シャワー貸して」
「いいけど、エアコンの風が嫌だって切ったの、俊平だろ?」
「だって、あの風、Artificial人工で息が詰まるんだもん」
「宿題は?」
「後でする。今夜、泊めてよ」
「お前、家、大丈夫か?先週も泊まって、」
「帰りたくないもん。それにホラ、小母おばさん、夜勤だし。ね、カレンダーに印ついてる」
「目敏いな」
「ねぇ、夕飯、何、作ってくれる?」
「んー?買い物、行くか」
「留守番してる」
「お前な」
「米でいい」
「は?チャーハンとか?」
「オムライスがいい」
「了解」
「朝也も一緒にシャワーする?」
「お前、シャワー浴びたら、いつも寝ちまうだろ?先、宿題」

「Phew, May be soそうかもね.」

………………………………………………

「ねぇ、朝也」
「今度は何だ?」
「あの音、何?……ほら、笛みたいな音、聞こえない?」
「あぁ、祭囃子だな。もうすぐ、近くで納涼祭があるんだ。その練習じゃないか?」
「お祭り?」
「お前、目ぇ輝いてるけど、そんなに規模の大きなものじゃねぇよ?」
「花火あがる?」
「見たいのか?」
「うん♪」
「じゃ、今年は行くか」
「浴衣、着たい!それで夜店を回って……花火は何処か穴場な場所、探しておかないと♪」
「ガキかよ」
「祭りか。楽しそうだな」
「お前さ、その前に試験が有ること忘れてねぇか?」
「平気平気。夏休み、いっぱい想い出つくっ……、遊ぼうな!」
「……?受験生の言葉とも思えないが」
「あははは!」
「……ったく」
「ねぇ、それよりさ」
「ん?」
「べたべたしよっか」
「べたべた?」
「そ。俺と、べたべたしようって言ってんの」
「今?ちょ、暑いの嫌だって、お前が言……」
「いいから、抱けよ」
「やだね」
「俺はシたい。どうせ、汗かいてんだから、いーじゃん」
「駄目」
「なんで!?」
「言い直せ」
「はぁ?何だよ、偉そーに。ニヤついてんじゃねー……って、ぁ、んーと、その、……抱、抱い……」
「何?聞こえねぇ」

「だ、……抱いて……くれ」

『いいぜ。来いよ』

(本館別館・夏の連動企画)別館「最後の夏休み」へはコチラ!

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テッドは笑みを浮かべていたが、その笑みに俺の好きな皺を刻んだ人好きのする陽気さはなく、目が合うと、じっと見透かすような眼差しを向けてきた。身じろぎ出来ず目を逸らすことも侭ならないほど神経が高ぶる。何か言いたげなのは、一目瞭然だった。

「ラス、外してくれる?」

促すと彼も張り詰めた空気を感じたのか、一礼して座を外した。去り際に「貴方と話せて良かった」と笑ってくれたのが、せめてもの救いだったかもしれない。
彼が気を利かせたものか潮の引くように辺りから人が消えて、余計に落ち着かない静まりようだった。互いに黙ったまま時間にして5分ってトコか、居た堪れなくなった俺が新しいビールに手を伸ばしたところでテッドが口を開いた。

「ニッポンに帰るのかい?」

言葉も無かった。
動揺した俺は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えて固唾を呑んだ。

「どうして?」

どうして気付いたの?と、俺はテッドの横顔に訊いた。

「逢いたい人がいるね?誤解を嘘にしてしまえなかったのは、その人を愛しているからだろう?」
「……ダメね、オレ」

身体の奥深いところで桜が香る。
朝也を想うだけで胸が苦しい。いっそ、正体もなく酒に酔ってしまいたいと思うほどに……。
伏し目がちになったのは顔を見られたくなかったから。酒で喉を潤したのは上擦った声を隠したかったから。そして、瞼を閉じたのは目頭が熱くなるのを殺してしまうためだった。
俺は朝也を想い始めると病的なまでに脆い。

「おいおい、シェーン!泣かせるつもりは無かったんだがな」

狼狽てたテッドが胸から尻からポケットを叩いて拭くものを探している。
そのバタバタした仕草が可笑しくて、俺は泣きながら笑ってしまった。

「いらないよ。スマートじゃないね」

目元を袖で雑に拭うとテッドに手を取られ、そっと肩を抱かれて俯いた。

「お前さんのこんな顔は初めて見るな。誰を想って泣くのだろうね」

その声にまた涙腺がバカになりそうで、俺はテッドの腕に縋って顔を押し付けると気持ちが落ち着くまで動かずにいた。髪を撫でるゴツゴツした手や子供をあやすようにポンポンと背を叩く温かい掌、朝也に抱かれるのとは違った安心感が妙にくすぐったかった。例えばそう、幼い頃に憧れた父親像とはこんなふうだったかもしれない……。

「いつから?」

いつから気付いていたの?と、俺は顔を伏せたまま、テッドに訊いた。

「そうだね。お前さんが、いつになく他人事に熱心だったから、何かあると思ってね」
「まるで、俺が不実みたいじゃないか」
「いつものシェーンなら面倒臭がって取り合わなかったさ。それが出来ずにあれほど熱くなったのは、あのバーテンダーに自分を重ねたからじゃないのかい?」

顔が熱い。
触れられる手の心地よさに懐いていると、段々、恥ずかしくなって顔を上げるタイミングに窮してしまったが、この察しの良いオッサンはそんな俺の自尊心すら配慮するにもソツがない。

「息子も良いものだな」

なんて冗談を言って、そっと俺を放した。

「一緒に酒を飲んで、たまに、こうして頼られるのも悪くない。今、ワイフに息子も産んで貰うのだったと後悔しているところだ。まだ、間に合うと思うかい?」
「年上女房を殺す気かよ。ガキが酒を飲める歳になる頃、オッサンは棺桶に片足突っ込んでいるね」
「わははは!口の悪いヤツだ」

大好きなテッド。自分の我儘で離れるとはいえ、余りに深く関わり過ぎた。これまでにも沢山の人に出会ったが、他人で居られる距離を保ってきたからか、これほど感傷的になることはなかった。

「……俺に甘え癖をつけるからだ」

思わず口をついて出た声は自分でも意外なほど幼いもので、テッドの顔に刻まれた皺が動くと、その大きく引き結んだ口許がたるんだ頬を押し上げていた。

「笑ってやがる」
「可愛いことを言うからさ。何て顔をしているんだ、シェーン。そんなにしょぼくれて。それが、これから好きな人に逢いに行こうってヤツの顔かね?」
「だって……俺、許されていいのかな?」
「妙な言葉を使うんじゃない。許すも許されるも無いもんだ。全ては、お前さんの意志によるのだよ」
「そうだけど……」
「お前さんは良く頑張ったよ。仕送りの十分な資産家の坊ちゃんが、どうして、その日の飯代と画材代を秤にかけるような貧乏をするのか察し兼ねたがね。気骨のある子だ。ひょっとすると、親にも頼る気はないのかもしれないと思うと得心がいった。違うかい?」

違わないから、声も出なかった。

「驚いた顔をしているね。実は、お前さんの素性は知っていたよ。一度、兄だという人がギャラリーを訪ねてきて、仕送りはしているから必要以上の援助はしないでやって欲しいと頼まれてね」
「いつの話?何で居場所がバレてんだ?」
「さて、お前さんと出会った翌年だったかな?随分、探したと言っていた。チェルシーには若い芸術家が多く集まるから、運良く行き当たったのかもしれないね」

5年は前の話だが『運良く』ということはないだろう。
その頃、俺はミッドタウンの美術大学に通っていて、食費を削ったり小銭稼ぎをしては美術館巡りをしていた。特にバワリーSt.にはコンテンポラリーアート専門の美術館があって足繁く通った。マンハッタンには父の会社の支社が在るから、そこから手が回ったのかもしれない……。

「テッドの機転に感謝するよ。俺が今もここにいるってことは、その時、大学も寮も伏せてくれたってことだからね。喋られていたら間違いなく連れ戻されていた」
「そうでもないと思うがね?彼には暮し向きこそ訊かれたが、居場所は遠慮すると名刺だけ置いていったからね。出来た兄さんだと思ったよ。弟の絵を感慨深げに見ていたな。いい顔で微笑っていた」

わらった?それは、俺の生き方を応援してくれるってことなんだろうか。

「ったく、人の絵を勝手に見せないでよ」
「嬉しそうな顔をして……」
「ちげぇーし!」

11も歳の離れた兄は当時、父の会社からシリコンバレーの協力会社に出向していて、サニーベールにいた。カリフォルニア州だし、まさか、偶然にも見つかるわけないって俺は高を括っていたんだ。

「アメリカ、狭ぇ……」

テッドは可笑しそうに笑いながら、項垂れた俺の頭を上からグリグリ押さえつけてくる。

「どうして、教えてくれなかったの?」
「彼の意向だ。世間知らずで心配だと言っていた。早く帰国を報せて安心させてやるといい」
「ハッ、温室育ちが何、言ってんだか。兄さんだけが俺に過保護なの。俺はガキの頃から放っとかれてんの。雑草は逞しいんだよ」
「よく枯れる雑草だがね。お前さんは今までに何度、倒れた?どうして、そこまで無茶をする?」
「どうして、って……。絵を描きたい他に何があるの?」

本当の理由なんて知らなくていいと思った。
画家という職業に懐疑的な親との確執なんて聞こえの良いものじゃないし、聞かされる方も迷惑だ。
僅かに言い淀んだ俺をテッドは物言いたげに見据えたが、拒絶の色を察したのか深入りして来ない代わりに大きな溜息をついた。そして、両の掌で俺の頬を包み込むと、年端のいかぬ子供に何事か言い含めるような慎重さで、こう言った。

「いい加減にブレーキの掛け時を覚えておくれ。お前さんは仕事をし出すと寝食を忘れるのが心配でならない。これからは、私もジニーも居ないんだ。ちゃんと食べて身体に気を付けるんだよ」

そんなふうに言われると本当にサヨナラなんだとしんみりもして、俺は催眠術にでも掛かったように彼の双眸から目を離せなくなっていた。
画家を志して家出同然に日本を出たものの、チマチマ貯めた軍資金なんて3年もすりゃ底をついた。それでも学びたいことは未だ山ほど有ったし、諦めきれずに俺はそれまで無い物としてきた親からの金に手をつけた。俺に干渉はしても関心はないと思っていた父からの送金は相当額、貯まっていて、俺の自立心など嘲笑うように魅力的だったからね……。その時、日本を離れて初めてイングランドにいる親に電話をしたけれど、1分にも満たない親子の会話はそっけないもので、俺の返済の意志は「不要」の一言で一蹴された。志を解って貰おうなんて期待はとうに捨てていたけれど、どういうつもりであれ、居場所も判らない息子の口座に振り込んでくれることに感謝はしていたんだけどな……。
落胆はしたけれど、父の冷たい言葉に俄然、奮い立った。
返済の申し出は親の七光りで周囲にちやほされてきた俺の卑屈さの表れでもあったが、兄のように経営の一端を担う生き方を拒否した俺の意地でもあった。今思えば、その態度が父の感情を逆撫でしたのかもしれない。俺は全く可愛げのない息子だ……。

「色々と世話になったね」
「そういうの、よしなさいよ」

俺の言葉にテッドは目尻に皺を寄せて照れ臭そうに笑ったが、俺には泣き顔に見えた。

「いつ、発つ?」
「出来るだけ早く」
「そうか、忙しくなるな。何から始める?」

世話好きのテッドは当たり前のように準備を手伝う気でいるらしい。矛盾しているが、あまり協力的になられると帰国を急かされるようで口を尖らせたくもなる。

「んー?まずは髪を切るよ。新しいステージへ踏み出すなら、視界は良好でなくちゃね」

テッドは一瞬、ポカンと俺を見つめたが、チョキチョキと髪を切る仕草を見せると「そいつぁ、いい」と言って笑い出した。

「プロポーズも見てくれからか。よし、餞別にスーツを仕立てよう。お前さんは彼女の心をガッチリ掴むセンスの良い台詞でも考えるんだな」
「へ?」
「結婚式の招待状を待っているぞ。シェーンの愛しい花嫁に会える日が楽しみだ」

あ、……れ?ちょっ!
無理もないが、テッドは完全に俺の逢いたい人が女性だと思い違いをしていて、情熱的な言葉を用意しろとか、花を忘れるなとか勝手に盛り上がっている。俺は今更、正す気にもなれず、自分でもハッキリ自覚するほど赤くなった顔を誤魔化そうと更にビールを含んだ。

「可愛いねぇ」
「茶化すな。酔っただけだ」

プイッと顔を背けたが、テッドの気配は言葉とは裏腹に消沈して感じられた。気の優しいオヤジだから、俺に気を遣わせまいと明るく振舞うのだろう。俺は本当に大事にされている。




それからの俺たちは感傷的な気分を払拭するように酒を呷り、今後について語り合った。
仕事は俺が望む限り、これまで通りサポートしてくれると言うし、神戸に知り合いのギャラリストがいるから紹介状を書こうとまで言ってくれる。
本当は俺を責める気持ちも有るはずだ。出会って6年、日々、多彩な芸術が泉のように湧くこのニューヨークで、何の後ろ盾もない無名の新人に卵の殻を割らせるのは並大抵のことじゃなかったと思う。
それなのにテッドの物言いは俺を手放すことも視野に入れているように聞こえるんだ。
テッドにとって俺が失っても惜しくない存在であるはずがない。彼は誰より俺の絵を認めてくれているし『Shun』を愛おしんでもくれている。

「Shunがテッドの最高傑作になるように頑張るよ」

真っ直ぐにテッドを見据えて口角を引き上げると、

「何て綺麗に笑うんだい、お前さんは」

額に一撃、ペシッと指で弾かれて咄嗟に眼を瞑った。
次に開いた時に見たテッドの表情は何とも慈愛に満ちていて、時々、セントラル・パークで見掛ける散歩中のマスティフを思い出させた。その飼い主は良く妻とバギーで眠る赤ん坊を伴っていて、犬は傍をクルクル回っては大きな顔を近づけ、静かに赤ん坊を見守っている。テッドの眼は何処となくそのマスティフの眼を彷彿とさせて優しかった。俺がクスクス笑っていると、

「お前さんは、また余所事に考えを巡らせて笑っているな?」

と、眉根を寄せて苦笑する。
こんな些細な遣り取りでさえ胸が熱くなるなんて少々酒が過ぎたらしい。瞼の熱っぽさも、この泣きたい気分もきっと酔いの所為だ。ほどなく視界もユラユラし出すのだろう。

「日本へ発つ前に俺がテッドに出来ることはある?」

せめてもの礼のつもりで聞いてみたが、テッドは深く目を閉じて黙って首を横に振った。
あるいは俺の言い方が惜別の情を助長させて、答えたくなかったのかも知れない。

「そうか……。欲がないんだな」

残念だ、と言う言葉を呑み込んで、そう言い換えた。努めて、あっけらかんと言ったつもりだったが、上擦った俺の声は馬鹿正直に落胆していて、テッドに申し訳なさそうな顔をさせてしまった。

「じゃあ、俺から一つ頼まれてくれない?」
「あぁ、何でも言ってごらん?」
「当日、見送ってくれないか?」

これまで誰にも見送らせなかった俺には意味のあることだった。
なるべく人を懐に入れずにいた所為もあるし、何よりやっぱり、自分が苦手で避けて通って来たのだと思う。ただ、この別れは区切りと言うか……特別なものに感じていた。

「背中を押してくれないか」

テッドは口許をキュッと引き結んで、ウム、ウムと何度も頷いた。

「泣かないと約束するなら、行ってやらなくもない」
「じゃ、決まりだね。そっちこそ、俺にハンカチを出させるなよ?」

突然、上階で低く唸るようなどよめきと手拍子が沸き起こると、腹の中がズドンと跳ね上がるような大音量で軽快な音楽が鳴り出した。ショーの始まりだ。パフォーマンスに興じる客たちの足を踏み鳴らす振動が店を揺らし、階段の踊り場からチカチカと色とりどりのライトが差し込んでくる。

「始まったね。テッド、見に行こうか」
「珍しいな。お前さんは大抵、このタイミングで店を出ようと言い出すのに」
「だって、このバカ騒ぎも見納めだ」

スツールから腰を浮かせてテッドの腕を掴むと、彼は意外そうな、けれど、愉快なものに出くわしたような笑みを浮かべた。
連れ立って席を立つ俺たちを見て「Hi!Shun.」と口々に声が掛かる。
追い越しざまにケツを撫でて行くヤツもいれば、どさくさに紛れて連絡先を書いたメモを胸ポケットに捩じ込んでくるヤツもいる。いつもの景色なのに今夜は一際、愛しく思えて、いっそ閉店まで夜通し遊び明かそうかという気になっていた。階段を上がる途中で保護者然と従うテッドに振り向くと、俺は片手で手摺りを掴んだまま、やや不安定な態勢ではあったが彼の頬にキスをした。ほら、グリルパルツァーの詩にあるだろう?万感の思いを込めた『厚情のキス』ってやつだ。
その時のテッドの表情かおは見ていない。
俺は勢いよく階段を駆け上がり、吸い込まれるように音と光の渦に呑まれていった。

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ニックにとってラスは何でも話せる良き同僚に過ぎないのだろう。
そして、ラスはそれを十分に理解している。
それでも、抑圧の反動からその均衡を保てなくなった時、彼は想いを伝えなかったことを必ず後悔するだろう。いくら惚れた男の気に入りとはいえ、俺を宛がうために捨て身になるバカだ。やり方は無神経でもニックへの想いの深さは解ってやれなくもない。

「何だか、運命の赤い糸もエグい絡まり方してるよね……」

独りごちて、干上がった喉を手近なビールで潤おそうと手を伸ばした時、うしろから肩を抱かれた。

「赤い糸が、どうしたね?」

戻ったテッドが納まりの悪い尻でスツールをギシギシいわせ、ゴシップ記者がネタを拾った時のような笑みを浮かべて俺の耳元へ囁く。

「奇談のえにしなど求めそうにないシェーンが、赤い糸を語るとはね」

テッドは赤い糸の意味ばかりか『定婚店』を知っているようだ。月老ユエラオ赤縄せきじょうを結ぶ話『赤い糸伝説』の発祥と言われている。ただ、意味深な言い方が単に俺を揶揄からかったわけではなさそうで気になった。

「含みのある言い方するなよ。人払いにいつまで掛かってんだ。年の功も頼りにならねーな」
「横柄なヤツめ。いや、含みは有るのさ。怒らずに聞いてくれるかい?」
内容ことによるけどな」
「私は、お前さんが女は要らないと言った時、女性を愛せない性癖たちなのだと思った。けれど、数多の男に言い寄られても駆け引きを楽しむばかりで心を許す様子はない。これは相当、場数を踏んだ男が値踏みをしているのか、そもそも、人そのものに関心がないのかと気になってね。だから、お前さんから『赤い糸』なんて言葉を聞いて、いささかホッとしたのだよ」
「ふぅん?そう」

気のない返答をしたが、そう思われていても仕方がなかった。仕向けたのは俺だ。
東洋仕込みの婀娜めいた子猫ちゃん、それが物珍しさからターゲットにされがちな俺の店でのスタンスだ。恋愛対象というより、ペットショップの愛玩動物でも愛でる調子で近づいてくる男たちを扇情的な言葉で誑かすのなんて造作の無いこと、酒の席でのれ言に過ぎない。誰が手を握るのキスを奪うのと、くだらないことに盛り上がって結局は俺に酒を振舞うばかりなのに、それでもゲームの景品として非売品の俺は魅力的らしい。高嶺の花きどりじゃないけれど無視をするのも興褪めだし、逆恨みされて怪我をするのもつまらない。一人一人に心を砕けるほど人が好くもないし、だったら、中立に楽しむのが賢明だと思った。そして、番犬然と彼らのブレーキになっているテッドが結果的には俺の価値を釣り上げている。彼には、けしからん奴だと叱られるけれど、諧謔かいぎゃくを弄して飢えが凌げるのだから貧乏人の俺は助かっていた。そうでもなきゃ、毎度こんな茶番は続かない。欠伸が出ちゃうよ。

「シェーン。やっぱり、怒ったかい?」

怒りはしないが正直、あまりの心証の悪さに落胆はしていた。いつもの俺なら笑って済ませられるはずなのに、他でもないテッドに言われたことが胸に応えて顔に出てしまったらしい。

「すまなかったね」

謝らせてしまった。俺は、かぶりを振って笑みを繕った。

「今日は良く謝るな。テッドに非は一つもないのに」
「いやまぁ、そこでだ。お前さんの赤い糸はもう、繋がる相手を見つけ出しているのかとね?」
あ゛?
「さぁ、どうかな?目に見えるものじゃないし……」

言ってからシマッタと思った。
朝也のことをおくびにも出さないつもりなら『そんな人はいない』の一言で良いものを、わざわざ歯切れの悪い言い方で分を悪くした気がする。他のことならシレッと誤魔化せるのに、朝也を意識すると嘘が下手になるんだ。テッドが俺の朝也への想いなど知るはずないと判っていても言葉尻を捉えればいくらでも勘繰れそうで、色々見透かされるんじゃないかと鼓動が高鳴る。
彼の言葉が只の好奇心で無いことはその真剣な眼差しから窺えた。自然と背筋が伸びる年長者の眼をしていた。その視線の先でラスが此方を見ていたが、その眼は俺の言動一つ一つまで見落とすまいとするように注意深く感じられた。

「そんな興味津々な眼をされてもね。しばらく、後ろを向いていてよ」

暗に聞くなと伝えると、ラスは一瞬、物言いたげな眼をしたが黙って身体を反転させた。
俺は身体ごとテッドに向き合った。相手が大切な話をしようとしている時は全霊を傾けて聞く姿勢を見せるよう、子供の頃から養育係に言われて育った。必要に迫られたら朝也のことも話さざるを得ないだろう、それぐらいの気構えでいたんだ。ところが、テッドは全く別のことを考えていた。まるで、ピクニックの計画でも話すような大らかな口振りで突拍子もない話を持ちかけて来たんだ。

「シェーン。ウチの末娘と結婚する気はないか?」
「は?ちょっと待ってよ。何を言い出すの?」
「思いつきで言っているのではないのだよ。女性を愛せるなら此方としては願ってもない話だ」
「それ今、ここでする話?末娘ってアリッサは未だ14歳だろ」
「もうじき15だ。追っつけ大人になる。3年もすれば、あの子は美人だし頭も良い、きっと良い伴侶になる。もちろん、アリッサもシェーンが好きだと言っている。いい話だろう?」

テッドは本気とも冗談ともつかない明るさで、サンタクロースが笑う時のようなウオッホッホという声をあげた。目眩がする。いつからそんなことを考えていたのか見当もつかないけれど、彼の面子を傷つけないカタチで穏便に断るには、どう言えばいい……?
少し考えて俺は答えた。

「ダメだよ。俺には出来ない。……ごめんなさい」

深々と頭を下げて精一杯の誠意だけは示した。穏便にとか面子を傷つけないようにとか、頭をフル回転させて言葉を探したけれど、探せば探すほど直球が一番、真摯な言葉のように思えた。

「惜しいね……」

それは胸に迫る声だった。
朝也のことがなくても俺はこの申し出を断ったと思うけれど、収入の不安定な俺に愛娘を託そうなんて大博打を本気で考えるほど俺を買ってくれていることは有り難かった。それ以上、詰め寄るでも理由を問うでもなく、ただ、承知したと言うふうに俺の肩を叩いたテッドは、

「思った以上にストイックな男だね」

と、相好を崩した。恥ずかしいくらい内実を見抜かれている。
確かに明日も見えないその日暮らしの現状で、あと3年頑張ったところで大して生活は変わらないだろう。そんなに甘い世界じゃないことぐらい解っている。一人飢えてブッ倒れるのは構わないが、誰かを巻き添えにするのは荷が重い。と言って援助を受けることも考えられない。俺はそこそこプライドが高いんだ。テッドはそれを良く解ってくれている。

「俺が画家で無かったら、目の付け所は悪くなかったのにね」
「シェーンは娘の初恋を失恋にした憎らしい男だ。とんだ見込み違いだったな」

テッドは可笑しそうに声をたてて笑った。彼は、いつも優しい。俺が罪悪感を覚えないように軽口を叩いて、一笑にしてしまうんだ。

「アリッサがマリッジ・ライセンスをとれる頃、俺は30手前のオッサンよ?その頃、捨てられてみ。泣いちゃうから」
「そうかね」
「そうだよ。それに……違うと思うよ?アリッサの『好き』は長い長いショッピングに文句も言わずに付きあって、荷物を持ってくれる便利で優しいオニイチャンが好きって意味。だって、恋の相手ならランジェリーショップの前で1時間も待たせる?彼女は可愛いから良いけど、目の遣り場に困ったよ」

テッドの眉間に皺が刻まれていく。あれ?まずかったか……。

「いや、近くのカフェで待っているって言ったんだよ?でも、店の前に居てって言うから。あ、買った下着は見てないからね。じゃなくて、あー……もう、ごめんなさい」

何で謝っているのかは自分でも解らない。ただ『考える人』になってしまったテッドと堪らず噴き出したらしいラスの笑い声が妙な空気を漂わせていた。

「どうやら、娘の赤い糸は未だ赤く染まりもしないようだ。シェーン、付き合わせてすまなかったね」
「ううん。お礼にランチを御馳走になったし」

ポロッと言うと、ラスが背を向けたまま呆れ声で口を挟んできた。

「貴方は14歳に払わせるのですか」
「だってアリッサ、いい小遣い貰ってんだもん。一食、浮くと絵の具が一本、買えるの」
「ダメな大人ですね」
「何とでも言えよ。そのへんの小さなプライドは俺、捨てているから」

俺たちの遣り取りを聞いていたテッドまで笑い出して、その場は何となく収まった。

「赤い糸も良いかも知れませんね」

態度を軟化させたラスが、俺たちに迷惑をかけた詫びだと綺麗な色のカクテルを作ってくれた。
もっとも、俺との会話でコタエを見つけた訳ではなく、不毛な問答に終止符を打ったと言う方が正しいのだろう。それでも何処か晴れ晴れとして見えるのは少しは気持ちを整理するキッカケになったということだろうか?シェーカーを振る鮮やかな手つきに見蕩れていると、ラスの吹っ切れた声が「どうぞ」とグラスを差し出してきた。テッドにはウィスキーがベースと判る芳醇な香りを放つ琥珀色のカクテルを、俺にはすみれのリキュールがベースの透明感のある紫が美しい『ブルームーン』を……。

「最後まで嫌味なんだから」

月形のレモンピールがグラスの中でユラユラしている。
俺がニックを振った時にオーダーしたカクテルだ。『出来ない相談』『叶わぬ恋』という意味がある。

「味な真似をされるじゃありませんか。ニックが悔しがっていましたよ」
「本当に何でも聞いているんだね。でも、これを最初に教えたのはアイツだよ」
「おや、そうでしたか」
「この店に通い始めた頃ね、遊びの解らないヤツが本気で口説いてくるのが興醒めだって言ったら、黙ってブルームーンをオーダーするのがスマートな断り方だとアイツが言ったんだ。実践したのは初めてだったけど、そうスマートでもないよね。逆上させちゃったし」
「貴方という人は本当に人を怒らせるのが、お上手だ」

ラスは露骨に嫌な顔をしたが、

「だって、もう断る言葉がついえてしまったんだもん。耳鳴りめいた『アイシテル』が胃を悪くするんだから仕方ないでしょ?俺の何を愛してるの?と訊いても気の利いた台詞一つ返せないところに彼の本気を感じなくも無いけど、俺は愛せないもの……」

あっけらかんと言うと、ラスは苦々しく口許を引き結んで頷いた。

「でも、反省はしているよ。やっぱり、これは良くなかったよね」

喉奥を伝うブルームーンのほろ苦さ。
朝也に恋する以前の俺なら、きっと、好きだと言われた時点で酷い言葉を投げかけ秒殺したと思う。
人から寄せられる好意に懐疑的と言うか、人の感情の機微に無関心と言うか、恋や愛や、そんな不確かなものに何の期待も持てなかった。そんな俺を朝也が変えた。心を掴まれて嫌悪感でなく喜びを感じたのは初めてだった。絶対的な存在を得て、俺は人の気持ちを汲みとることを意識するようになった。
だから、ニックには出来れば穏便に諦めて欲しいと言葉を尽くしたつもりだった。
結局は意思の疎通が上手くいかず、ホテルのバーでブルームーンをオーダーした嫌味が彼を激昂させ、ルームキーを見せられたのが運の尽き。彼は心に、俺は肩に傷を負った。襲い掛かってきた彼との体格差は歴然で、狭い室内で抗う内に壁に打ち付けられた衝撃で剥き出しになった金具が皮膚をえぐった。慣れないことはするもんじゃないね。
まだ痛むのは肩の傷か、それとも……。

「こんなことなら老け専だからノーサンキューで通せば良かったかな?アイツ、折角、俺とテッドがソッチの関係だって誤解しててくれたのにね」

フフッと笑うと、顔を赤くしたテッドが「気味の悪いことを言いなさんな」と呆れ声を上げた。

「……そーね。出来なかったよ」

嘘をつけなかった。朝也に。たとえ方便でもテッドと関係のあるフリすらしたくなかった。
けれど、そんな真意を知らないラスは俺の『出来なかった』という言葉を好意的に解釈したらしい。

「貴方なりに嘘のつけないほど、真剣にニックと向き合っていてくださったのですね」

面映ゆかったが、そのままにしておいた。

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