2月某日、ジョン・F・ケネディ国際空港。
マンハッタンから約20km。野生生物保護区に指定されているジャマイカ湾に面し、クイーンズ、ジャマイカ、ハワードビーチの三区に跨る世界でも有数の巨大な空の玄関だ。車では1時間強。明け方の便だからタクシーを使うと言ったのに、テッドは空港まで送ると言って聞かなかった。
ニューヨークでの最後の5日間を俺はアッパーウエストサイドにある彼の自宅で過ごした。特別、何をするでもない。ただ飲んで語ってチェスに興じて、最後の勝負は俺の稀なチェックメイトで終わった。

「わざと負けたね?」
と、苦笑した俺に、
「幸先がいいな。さぁ、出立だ」

そう言って、テッドは車のキーを取った。
車中でもテッドは良く喋った。チェルシーのGギャラリーで未だ予備校生だった俺と出会った日のことを彼は鮮明に憶えていた。あるオブジェの前から動こうとしない俺が気になって声を掛けて来たんだ。『この作品が好きかい?』と聞かれて『名は憶えておこうと思う』と応えた気がする。若いキミに芸術が解るのか?という顔をされて、今思えば随分と怖いもの知らずな返答をした。

『たった数分、作品と向き合ったくらいで造り手の思惟しいなど俺には解りませんよ。タイトル通りとも限らない。ただ、何が優れているとも思わないのに離れられないのは関心は有るってことでしょ?その理由を考えていました。何か余分だと感じるのは意図的なものか自分との感性の違いかを考えていました。俺なら、こうは造らない』

テッドは『大口を叩く』と笑ったが、俺が肩から提げていたアジャスターケースを指差すと『見せてみる気はないかね?』と真顔で言った。俺が好運を掴んだ瞬間だ。一目見て『掘り出しものかもしれん』と頷いた。当然、拙い絵のことではなく俺自身のことだとは雰囲気で判った。
『おじさんこそ、本当に絵の解る人?』
思ったままを口にして無遠慮に笑われた。だって、そう思っても仕方ないだろう?これから美大で基礎から学ぼうという素人を『掘り出しもの』だなんて、どうかしている。
その後もテッドは俺の後について館内を巡り、Gギャラリーを出たその足で18だった俺を自分のギャラリーへ連れて行った。その時に名刺を貰って、俺が青くなったのは言うまでもない……。



車はE59th Stに入って徐々に減速した。
テッドの運転は常から悠長なものだったが、この日は慎重すぎるほど低速で、それも別れを惜しんでくれてのことと思うと運転を代わるとは言い出しにくかった。
大きな星条旗が風に翻る下をニューヨーク市警の車が2台、けたたましいサイレンを鳴らして追い越していく。音に驚いた鳩が星の見えないギラギラした空へ一斉に羽ばたいた。

「ジニーは、とうとう見送りに来なかったな」

不意にテッドが、ぽつりと言った。俺は薄く笑って、

「言ってないからね」

と、答えた。信号待ちをしていると、背中を丸めた若い男が定位置から逸れたトラッシュ・ボックスを蹴って横断歩道の脇に戻し、ゴミを捨てるのが見えた。外気温は摂氏-2℃、吐く息が白い。

「彼女、結婚するんだ。それで今、新居や職探しでフロリダに帰ってる」
「……良かったのかい?」
「いいんだ。ジニーは見送るのが好きじゃないから、先に部屋を出たんだ。先週からリアの所にいる。でも、送別会はしてくれるんだって。週末は空けといてって昨夜、コールしてきた。最後まで、お節介だよね。凄くハッピーな声でさ。その声を最後にしておきたくなったら、何も言えなくなったよ」
「きっと、怒るぞ?」
「そうだね」
「泣くかもしれない」
「そういうの男冥利に尽きるって言うの?……大丈夫だよ。リアが傍に居るから」

イーストリバーが近づくにつれ、フェンダーミラーに映る後方のイエローキャブが数を増していった。クイーンズボロー・ブリッジに入れば、いよいよ、マンハッタンともお別れだ。

「後ろを見ていてもいい?この橋から見るマンハッタンの夜景が好きなんだ」

子供のようにはしゃいだ声を上げて俺は助手席で身を捻り、秒刻みで変化する煌びやかな摩天楼が遠ざかっていくのを目に灼きつけた。そして、ルーズベルト・アイランド上空を通過したところで対岸のクイーンズに向き直り、もう、振り返ることはしなかった。
クイーンズ側のイーストリバーは俺が着ているミッドナイトブルーのコートよりも深い蒼に揺蕩い、広大な夜天が何処までも続いている。
やがて、クイーンズ大通りからヴァンウィック高速道路に入るとテッドは言葉少なになり、ターミナルの案内板が見え出すと、いよいよ沈黙した。終いにはハンカチを差し出す事となり、これで俺は泣けなくなった。
空港へは深夜で渋滞が無かったお陰で予定通り、フライトの2時間前に到着することができた。
ターミナルに車を付けて貰うと、時計はAM4:48を指していた。

「ここからは一人で行くよ」

車を降りる必要はないと言った俺に、テッドは荷物も有るからチェックインまでは一緒にいると言い出した。この調子で搭乗時刻まで居られると流石に笑顔を保てそうにない。俺は最後まで笑っていたかった。

「このまま、帰ってくれ。もう、貸せるハンカチはないよ」

平静でいるつもりが声が詰まって冷たい言い種になってしまった。それでも気持ちは伝わったらしい。テッドは心配そうな顔をしながらも笑顔で了承してくれた。

「せがれを送り出す気分だ」
「そう?じゃ、挨拶はこうだね。ありがとう。行ってきます、父さん……」

にっこり笑って助手席から身を乗り出すようにテッドの首に腕を回すと、俺は一人で車を降りた。
トランクからスーツケースを降ろす間もテッドは運転席を動かなかった。その窓をコッコッと叩いて「またね」と手を振ると、テッドは俺の好きな皺くちゃの笑みを浮かべて何度も大きく頷いた。
どうやら、もう一枚、ハンカチが要りそうだ。
俺はバックパックを背負い、腕と膝に力を入れて前傾姿勢で歩き出した。
昨夜からの積雪でスーツケースの車輪が上手く回らない。半ば強引に引き摺った。ほんの数歩先の屋根までが随分、遠く感じられた。背後で車の走り去る音がしないから俺は振り向かなかった。この背中がテッドの目にどう映っているかと思うと背筋が伸びた。ロビーへ辿り着いた瞬間、後ろでクラクションが一度だけ鳴って車のエンジン音が聞こえた。口元はニヤついているのに目頭が熱かった……。
この日、ニューヨークの日の出はAM6:49。夜明けと共に先ずはロサンゼルスへ飛ぶ。


空の旅には子供の頃から慣れている。
時差ボケにならない為には早々に時計を現地時刻に合わせ、出来れば眠ってしまえばいい。
ロサンゼルス国際空港までは所要6時間。機体が安定したら寝るつもりでいたから、それまでは欠伸を噛み殺して機内誌を捲っていた。乗り継ぎを経て、関西国際空港までは13時間ほど。離陸後、少ししてビールを飲み始め、更に3時間ばかり仮眠すると日本時間のAM10:00に合わせて起きるようにした。こうしておくと時差ボケの疲労感に悩まされることが少ないと経験上、解っていた。23分の早着を差し引いてもトータルすれば18時間のフライトの約3分の1を俺はウトウトしていたことになる。




薄暮、俺は日本に帰ってきた。
この日最後のオレンジが一際パアッと光放つ空を、機体は照明が整然と導く滑走路へ着陸した。
ぼんやりした気分だ。やっと着いたという思いと、とうとう着いてしまったという思いが交錯して、まだ地に足が着かない心許なさを感じる。着陸態勢に入る間際まで俺を経済談義に巻き込んでいた隣のシートの男は「お先に」と、我先に降機しようとする列に加わって行った。ブリズベンのビジネスマンだと言っていた。前方の混雑が落ち着いたところで俺も腰を上げる。
入国手続きやバゲージクレームでの荷物の引き取り、税関検査と続いて、空港を出る頃には、すっかり夜になっていた。リムジンバスを待つ間にスモーキングエリアでスパーと一服、

「どこも、肩身が狭いねぇ……」

と、窮屈にモクモクやってる人々を眺めつつ、これからの事を考えた。
大阪の中心部までは所要1時間、予約したホテルにチェックインしても20時半ってところだろう。素泊まりだから夕食に出るとして、そのあと夜景を肴に酒を飲むのもいい。願掛けめいた前祝いだ。
これまでに頭の中で何度もシミュレーションした朝也との再会は良いイメージしか残していない。楽しみに思うも不安に思うも過ごす時間の長さは同じなのだから、無駄に悩むだけ徒労ってものだろう。明日、連絡をとってみるつもりだ。贅沢は言わない。たとえ一度きりになっても朝也に俺の7年分の成長を見せられたら、それで良い。彼の記憶に俺の一番似合う格好で笑顔を残せるといい。とめどない望みを削ぎ落としてシンプルに突き詰めてみれば、一目逢いたい、それが俺の一番の望みだった。
そして無論、叶うのなら、その先の俺たちを見てみたい……。
コートのポケットに手を入れた。ジャリッと二つのボタンの擦れ合う音が雑踏の中にも聞こえた。
それにしても、漂うはずのカラメルのような甘い煙草の香りが、

「まったく、しやしない……」

ただ、煙たいだけのスモーキングエリアを出て、俺はバスを待つ列の最後尾に加わった。
風が騒いでいる。いい感じだ……。

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「楽しかったね……」
「何よ、突然?」
「気も合ったしね」
「……そうね」
「誰かと暮らすのも良いものだったよ。物音がするっていうのは良いね」

そう言ってクッキーを頬張った瞬間、まるで、ニューヨーク生活にピリオドを打つように建付けの悪い窓枠がガタガタと軋んで部屋の灯りが消えた。停電だ。

「あはは、最後までコレだよ。んー……長引くと思う?」

呑気に笑って薄暗がりに窓辺に立った俺を見て、ジニーは小さく微笑った。

「貴方はいつも、そうやって落ち着き払っていたわね」
「男はそう動じないものだよ、と言いたいところだけど、一通り経験したしね。特に煙報知機スモークディテクターのセンシティブなことったらないよ。アレに飛び乗るのも慣れたもんだろ?」

そう言って指差したのは火災報知機の下に常時、置いてある丸椅子だ。
それを踏み台にしないと、この部屋の報知器は高所にあって身長173cmの俺には止めにくい。些細なことで鳴るもんだから腹が立って大家に言うと『換気扇を万能と思うな。窓を開けて扇げ』と言われた。イングランドのヒートアラームも大概だったけど、俺の生まれた家はセミデタッチドハウスだったから、集合住宅フラットに比べたら鳴る度合いが違ったんだと思う。まして、日本では学校の火災訓練でしか聞いたことがない。

「そうね、シュンの身のこなしは良家の子息なんてもんじゃないわ。ニンジャね、忍者!この前も妙な男たちに絡まれて、壁を蹴って飛び蹴りを食らわせたのよ!胸がスカッとしたわ」
「やめてくれ。あれは他に打つ手が無かった。ポリスに捕まっていたらと思うとゾッとするよ」

本当は足が竦むほど怖かった。因縁をつけられて追い回されて、ジニーの手を引いて逃げた先は行き止まり……。だったら、やるしかないじゃないか。
窓の向こうは吹き荒ぶ風が雪を巻き上げ、低く垂れこめた鈍色の空も、もう見えないほど止めどなく降り続いている。遠くの灯りがポツリポツリと見え隠れしていた。停電はこの一帯だけなのかも知れない、復旧にそう時間は掛からないだろう。
ベッドサイドに投げ出されたブランケットを取ると、俺は大きく広げてジニーの身体をすっぽりと包んだ。グレーのウール地にムースのイラストが可愛いこのブランケットは、彼女が俺の持っているスウェーデンの品を気に入って買ったものだ。ただ、俺のはボルドーカラーが鮮やかなザックリした編み模様の大判のラムウールストールで、ボタンが付いていて羽織れることやポケットのある利便性から女物と解った上で愛用している。

「ねぇ、シュン。貴方と初めて踊ったダンスパーティーの夜を憶えている?」

女の話に脈絡を求めるなと言ったのは、高校の2年先輩にあたる藤丘虎ふじおか とらという男だっただろうか。

「憶えているよ。キミは俺に足を踏まれないかヒヤヒヤして……」
「そう!私が貴方の足を踏んだ。あの時は驚いたわ。私、日本人はダンスが苦手だと決めて掛かっていたの。それなのに貴方ったら、手を差し伸べて『踊らないか?』ですって。まさか、年下の日本人に誘われるなんて思わなかったから生意気って思ったの」
「タイプだったって言ったら、信じる?」
「まさか!信じないわ?」

ジニーは声を上げて可笑しそうに笑った。この笑顔に何度、救われただろう。いくら、絵に邁進すると言っても拠り所は必要だ。俺にとってジニーは公園のベンチみたいな存在だった。

「こんなことになるなら、Xmasにシュンと踊っておくんだった」

不貞腐れるジニーが可愛い。

「いいよ。ここでワルツを踊る?」
「ピアノも素敵なの。もっと弾いて貰えばよかった」
「マケイラに頼んでみようか。あの家のスタインウェイは手入れがいい。彼女なら貸してくれるよ」
「それから……」
「ジニー?俺、遊んでばかりいられないんだけど」
「ダメ、あと一つ。そう!イースターに貴方の卵が無いのは残念だわ。あれがないと春が来ないもの」
「わかった、仕上げて行くよ。俺のラストエッグを手に入れるのは誰になるかな?」

春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日に祝う復活祭イースター
元々は春の収穫祭で、太陽を象徴して生命のしるしである卵を華やかに彩色したという。その後、キリストの死と復活から血を意味する赤の彩色が施されるようになり、キリスト教の重要な儀式となった。俺にとっても子供の頃から馴染みの深い年中行事だ。
そのイベントの一つに自宅の庭や公園の草叢などに卵を隠して子供に探させるエッグハントが有って、ジニーは毎年、大学時代の仲間を集めて各々が持ち寄る卵でそれをするのを楽しみにしていた。当然、芸術畑の連中が彫金だのペインティング、エッチングだのと工夫を凝らした力作揃いだ。見つけた卵は後で見せ合ってディスカッションするのが俺たち流の楽しみ方で、その白熱ぶりに卵の出来映えは年々レベルアップしていった。

「そういえば、ジニーの卵は一つも手に入れたことがないね」
「この春はピサンキにするわ。子供たちも一緒だから、たくさん作るの」

蝋纈ろうけつ染めのエッグアートだ。イースト・ビレッジのUミュージアムで見たことがある。蜜蝋を火で溶かしながら線を描いて染料に浸す工程を繰り返す。その細緻な模様や色には例えばポピーの花は喜び、白は誕生というようにそれぞれ象徴的な意味があって、古くから祈りを込めて作られてきたという。
ジニーが子供たちも一緒と言ったのは、サフォーク郡にあるテッドの生家を借りるからだ。
今も長兄一家が住んでいて、前回はアリッサの号令で彼女の二人の姉の家族も揃い、皆で旅行気分で押しかけた。長閑な一軒家の庭に垣根はなく、バーベキューをしながらの盛大なエッグハントになった。
俺は植木鉢の中や家庭用芝刈り機の蔭から子供たちが作った卵を見つけ、家に持ち帰った。
スプレーペイントした卵にシールを貼った物、布張りをしてリボンを巻いた物、中でも黒マジック一本で描かれた怪獣が暴れて地を割ったように面白い所に凹みを作った卵に愛着を覚えた。きっと、強く握り過ぎたのだろう。小さな子供の指先が偶然の物語を生み出していた。

「あの怪獣に創造の原点を見たね。ほら、火を吹いて大暴れしていた……」
「ジェイクね?違うわ、あれは歌を歌って踊っている恐竜よ。あの子、私にそう言ったもの」
「そうなの?恐竜?じゃあ、あれは火じゃなくて声ってことか……」
「イースターよ?お祭りよ?恐竜も歌い出すほどハッピーなの。怪獣に燃やされちゃ堪らないわ」

ジニーは「イマジネーションの問題ね」と舌を出して憎らしく笑った。ったく、あの4歳児め、俺には何も教えてくれなかった。それどころか褒めようとして逃げられた。子供は嫌いじゃないが好かれない。どう接していいかも判らない。ジニーは5人兄弟の真ん中で、誰とでもすぐに打ち解けてしまうんだ。

「そんな顔するんじゃないわよ。幼児の人見知りは成長の証よ?」
「うん。ジェイクのマムも、彼は御亭主に似て女好きだと言っていた」
「それ、どういう慰め方よ?言葉もないわね」

ジニーは呆れ顔に言うと、

「そのうち貴方にも解るわ。でも、シュンは面倒くさいダッドになりそう」

と、勝手なことを言って遠慮なしに笑った。こっちの心臓が針に貫かれたのも知らずに……。
正直、俺に我が子のヴィジョンなど無い。それより、俺の帰国が朝也の『子を持つ未来』を奪う可能性に怯んでしまった。いっそ、俺が孕めたらいいのになんて馬鹿げたことを思うほどに……。

「ちょ、そんなに落ち込まないでよ」

奥歯を噛みしめて俯いてしまった俺の耳に、ジニーの声がぼんやりと届く。

「大丈夫よ。シュンは、お絵かきの上手なダッドになるもの。子供も懐くわ」

満面の笑みに脱力して、どうだっていいよ、という言葉を呑み込んだ。俺の帰国は早計かも知れない。けれど、魂が悲鳴を上げている以上、ここに留まるのも限界だ。
迷うな、迷うな、迷うな……。とにかく会って、後はそれからだ。

「シュンは!……やっぱり、ペインティング?」

突然、大声を上げたジニーの声に驚いて、頭からクヨクヨが吹っ飛んだ。

「何?いきなり……」
「卵よ、イースターエッグ!私、Shunのへんてこな世界が好きよ。でも、前回のはモチーフが卑猥すぎたわ。子供が一緒なんだから慎みなさいよね」

得意の『都合が悪けりゃ話題転換』だ。けれど『子供』という言葉を出したところで、急にジニーの声がトーンダウンした。そう過剰に反応されると正しておきたくもなる。

「ジニー、俺は子供に好かれなくて落ち込むほどガキじゃない。違うことを考えていただけだ」
「そうなの?」
「そーなの。それに『卑猥』じゃなくてエロティシズムだ。イースターヘアは多産と豊穣のシンボルなんだから、メークラブをテーマにするのは或る意味正しい。官能的なヌードを下等な表現で台無しにしないで欲しいね」
「よく言うわよ」
「いーや、あれは、確実に申し分ない出来だった。ただ、いたしてたのがマズかったんだろ?カイルやレヴィにはグラマラスでクるって好評だったのに女性陣からは総ブーイングだ。子供らも一緒と決まったのは直前だったし、作り直す時間がなかったのは俺の非じゃないよ」
「解ったわよ。確かに、あれだけのトロンプ・ルイユだまし絵を描く貴方は凄いわ。でも、男ってバカね」
「ヤりたい気分だったんだろうね」

他人事ひとごとのように笑っていると、つられて笑ったジニーは立ち上がりざまに俺の頭を叩いた。陽をたっぷり含んだ優美なローズの香りが甘やかに鼻腔をくすぐる。

「ついでに言っておくわ。『イースターヘア』じゃなくて、バニーよ」
「俺はイングランドの生まれだよ」

しれっと言うと、みるみる目を丸くしたジニーが上から下まで俺を見回した。

「聞いてないわ?」
「言ってないからね」
「どうして黙っていたの?」
「だって、必要?」

アメリカではイースターの卵を運ぶウサギをイースターバニーとかラビットと言うが、イングランドでは野兎ヘアだ。恨めしげに黙り込んだジニーの横で、俺はイースターエッグのテーマを考えていた。

「じゃあ、今になって教えてくれたのは何故?」

と、ジニーが問う。完全に機嫌を損ねた、って顔だ。

「別に隠していたわけじゃないし、カイルもリアも気づいていたよ」
「冷たいのね。もう、お別れなのに、私、きっと未だ貴方のこと色々と知らないんだわ……」

こういう時の女の子の可愛さったらない。悪態ついたり恨み言を言ってみたり、それって恋人とか親友とか肩書きはどうでも良くて、少しだけ他の人より特別なポジションに置いてっていうアピールだったりするのかなと俺は思うんだよね。それだけの時を俺たちは共に過ごしてきたからさ……。

「ジニーって、ティムの次に俺のことが好きだろ?」
「は?自惚れんじゃないわよ!そんなこと絶対にないから」

力一杯、否定しちゃってさ。尻すぼみに消え入る声が正直すぎてニヤついちゃう。で、そう思うぶん、俺も満更じゃないんだよね。

「可愛いね」
「いい加減にしなさいよ?」
「よし!帰国までに二人で色んな話をしよう。俺のことも沢山、聞かせてあげる。テッドに車を借りてブルックリンにステーキを食べに行こう。名店があるんだ。最後に贅沢しようよ!」
「どうしたの?急に」
「ん?俺がここにいた軌跡をキミに憶えていて貰いたくなった、って言ったら笑うかな」

そう言ってジニーを真っ直ぐ見据えると、彼女は破顔して押し倒さんばかりの勢いで俺の胸に飛び込んできた。無邪気なもんだ。花の香りが眠たくなるとか、呼吸に合わせて上下する胸の膨らみを掴んでみたいとか、俺がそんないやらしいことを脳裏に浮かべているなんて少しも怪しまないんだろうな。
ふと、さっきの言葉を思い出した。……『男って、バカね』。
ニューヨークに暮らして、6年と10ヶ月。その多くの時間をジニーや仲間たちと互いに触発し合って、研磨するように成長してきた。有意義で、とても贅沢な時間だったと思う。

「決めたよ、ジニー。ラストエッグは足跡を残す意味でもヴィジョナリーアートでいく。タイトルは……」

期待に満ちた瞳で俺を見上げてくるジニーの顔を少しでも記憶に留めたくて勿体ぶってみる。
焦れた彼女が小首を傾げて「早く」と急かす。ブロンドの髪がはらりと零れて歳よりも幼く見えた。
薄暗い部屋に一筋の光が差し込んで、いつしか、部屋を揺らさんばかりの強い風も治まったようだ。

「空が明るくなってきた。風も窓をノックするのを諦めたみたいだね」
「もう!シュン?」
「解っているよ。タイトルは『孵化ふか』……俺の今の心境だ」

もうすぐ年が明ける。
俺は今日の空の色を忘れないでいようと思った。

『孵化』。朝也、孵化だ……。

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「いつから、帰国を考えていたの?」
「半日くらい前かな?酔っていたし、いつからなんて憶えてないよ」
「十分よ。それじゃ、思いつきなの?ふざけないで。何を考えているのか、ちっとも解らないわ?貴方、このニューヨークで入賞したのよ?その意味、解ってる?画家としての方途を見出した矢先なの、チャンスなの!それを帰国ですって?どうかしているわ?」

おおむね予想通りの反応だった。
足早に俺の傍へ戻ると、床に座り込んでキャンキャンと捲し立てる。その声までが俺の思い描いた通りで苦笑したが、やがて電池が切れたように黙り込んだ。

「……先を行く貴方には解らないでしょうね、自分が、どれだけ幸運に恵まれているか」

そう言ったきり、彼女は口を訊かなくなった。それでも、凝視みつめてくる眼は『説明しなさい』と無言の圧力を伝えてくる。これは逃げられない場面みたいだ。

「ジニーの言い分は十分に解っている。俺は色々なラッキーに恵まれた。キミと出会えたこともそうだし、渡米して直ぐにテッドと知り合えたことは大きかった。彼とは今後も仕事をして行くよ?でも、俺が俺でいるために肝心なパーツが一つ足りない。それを手に入れたいんだ」

ジニーは良く解らないという顔をした。言いたい文句を探すように口を尖らせ、言ってはいけないと奥歯をギシと鳴らして、今にも泣き出しそうな顔で俺を睨みつけてくる。

「何て顔してんだよ。そんな顔されたらキスしたくなるじゃん」

軽口を叩いたつもりが一層、睨まれた。

「会わなきゃならないヤツがいるんだ。黙って行かせてくれる気はないかな?」

誰?と問いたげにジッと見詰めてくるジニーだったが、俺の言葉を受けて口にはしなかった。
それが余計に居た堪れなくて、俺は髪を一つに結わえていた紐を解いた。伸ばしっ放しにしたミックスウェーブの髪がハラリと肩まで落ちる。彼女の姿の見えないことに少しホッとした。

「桜の頃だったよ……アイツが俺のなかに住み出した。15のガキが飄々とした顔してさ。ある時、俺に『内省が過ぎるのも不自由じゃねぇ?』って言ったんだ。そんなことを言われたのは初めてだったけど図星だった。同い年なのに常に悩む傍から答えは見つかっているみたいな顔してさ。何を諭されるわけでもないけど、無口が稀に口を開けば俺の心を掴む。サルベージ船みたいなもんだ」
「信頼していたのね」
「あぁ、心酔していた。傍にいて幸せだなぁって思うと、それまでに辛いことや泣いたことも沢山あったはずなのに全てが幸せだったように思えたんだよね。不遇自慢じゃないけど色々諦めてきたし、もし、アイツと出逢えてなかったら、画家の道も我を通せたか判らない」
「大切な人なのね?」

俺は無言でウンウンと頷いた。

「貴方が自分のことを話すの、初めて聞く気がするわ?」
「そうかもしれないね。でも、興味があるんだろう?」

今度はジニーが微笑んでウンウンと頷くのが、こぼれる髪の向こう側に見えた。
本当に好奇心旺盛な、お嬢さんだ。そんなに嬉しそうに俺を知りたがるなんて無碍にしづらいじゃないか。

「俺はルックスだっていいし、学校の成績も彼とトップを競って家庭も裕福だ。だから、俺の何が彼に劣っているかと言えば傍目には判らないかも知れないな。でも、傍に居ると自分の器の小ささとか思慮の足りなさを自覚すんの……」

俺は何を話すつもりだ?と自問しながら、それでも話さずにいられない衝動に駆られて朝也を語っていた。好きな人のことを話す幸福感とはこうしたものかと……まるで恋人自慢だ。
ジニーには俺のくすぐったい思いなど、お見通しらしい。何も言わず続きを促すように穏やかな笑みを浮かべている。

「アイツはね、自分でも判っているのかいないのか、人の気持ちに聡くて恩着せがましくなく手を差し伸べられるヤツ?そんな感じなんだ。簡単そうで難しいことだよ。それを当たり前な顔して難なくクリアしてしまう。俺はそんなヤツに必要とされたいんだ。対等の立場でね。そのために倍の速度で色々なことを吸収したかったし、一度、何もないところから自分を試してみたかった」

一息に話して息をついた。こんなことを誰かに話したのは初めてだ。
朝也と離れていた歳月は寂しい一方で楽しみでもあった。
最初の一年が経つと当然、彼にも一年があった訳で、遠くにいながらその成長を想像するのは励みになった。次の一年、更に翌年と俺はどんどん急ぎ足になって、いつか胸を張って再会できる日を待ち望んできた。めくるめく記憶の情景が去来して感情が高ぶる。上擦る声を唇を噛んで押し留めると、ジニーはそんな俺の思いを余所に「ねぇ」と声を掛けてきた。

「シュンって、お金持ちの子なの?」
「ちょっと!今の話を聞いて、出てくる言葉がそれかよ」

あまりに俗な反応が可笑しくて声を上げて笑うと、ジニーは真っ赤な顔をして、こう言った。

「変な意味はないの。だって今時、電子レンジの使い方も知らないなんて何処の王子様よ?絵の具を買ったらカフェにも付き合えない?それ、どうなの?貧乏学生と思われても仕方がないわ?」
「……電子レンジって何のこと?」
「貴方が言ったのよ?大学のクラスで隣になった時『キミ、電子レンジ使える?』って」
「そうだっけ?」

寮にいた頃は学生同士で食事を作ることも有ったけれど誰かしら世話を焼いてくれたし、俺がキッチンに立つ機会は少なかった。独り暮らしを始めた時にテッドが必要だからと勝手に置いていって、そういえば何かを爆発させた気がする。ボンッとか鳴ってビビってジニーに聞いたのかもしれない。

「うん、何か思い出したよ。焦げ臭い匂いまで」

ジニーは肩を竦めて呆れ顔で笑った。

「帰国したら、少しはマムの手伝いをするのね」
「そうだね」

とりあえず、そう答えておいた。俺は母親の手料理なんて数えるほどしか食べたことがないし、旨かったのか不味かったのか、それすら憶えていない。日本に戻っても家に帰るつもりもない。

「キミは或る意味、とても想像力が豊かだね」
「嫌味はよしてよ。裕福な家なら仕送りも十分あったでしょ?どうして、家賃が払えない、食べる物がないって倒れてばかりいたのよ。私がここに来るまで酷い有り様だったじゃない」
「言ったろ?自分を試してみたかったって。親からの送金には少し手をつけたけど、返せる目処はついているんだ。キミと暮らせたことは、たぶんラッキーだった。体重も3kg戻せたしね」
「たぶんって何よ、バカ」

照れたように笑うジニーは俺の言い尽くせない言葉の向こう側を察してくれようとするのだろう。
桜色の唇が花ひらいて、ふわりと彼女の両の腕が俺の首に巻きつくと額にキスをくれた。

「シュン、彼女と幸せになってね……」
「ぇ、彼女?」

俺は『He』だと言ったのに、ジニーは『彼女』と言った。これは、朝也のことを何も話さなかったテッドの誤解とは明らかに違う。訳が判らないという顔をすると、

「隠さなくてもいいのよ。男友達みたいな言い方をして本当は日本に好きな女性がいるのね。だから、画家になった今、帰国するんだわ?だって、そんなウットリするような目をして夢見心地に話す貴方、初めて見るもの。この帰国は前向きなものなのね。だったら、もう何も言わないわ」

彼女は勝手にそう納得してしまった。そんな顔をしていたかと思うとバツが悪かったけれど、大きく思い違いをしているジニーは、それはそれで良いかとも思ってしまう。

「キミは想像力だけでなく、推理力にも長けていたんだね。全く舌を巻くよ」

肯定するような言い方で彼女に合わせると、ジニーはそれみなさいと踏ん反り返った。

「女の勘は鋭いのよ。それにゲイでないなら、一年も寝食を共にして私に全く手を出さないなんて出来すぎだわ。それどころかシュンったら『ヌキたいから30分、出かけて来いよ』なんて平気で追い出すんだもの。そんな恥ずかしいこと良く言えるわね。でも、彼女への遠慮だったと解って見直したわ」

俺としてはジニーがそれを口にすることの方が恥ずかしかったけれど、言わずに置いた。確かに男といる調子でフツーに言っていた気もする。デリカシーのなさは、お互い様みたいだ。

「プロポーズは、これから?上手くいくと良いわね」
「キミこそ、ティムと教会の鐘を鳴らす気はないの?」

いい機会だと思ったから言ってみた。ティムには前からジニーにその気がないか探ってくれと頼まれていて、彼女の意志を尊重だか何だか知らないけれど、あまりの煮え切らなさに自分で訊けと相手にして来なかったんだ。

「私にフロリダに帰れと言うの?」

ジニーは砂を噛むような顔で俺を見たが、頷く俺の顔が本気と判ると、

「私は、この街にいたいの。仕事を初めて未だ、たったの半年よ?」

と、聞く耳を持たないとばかりにキッチンへ立ってしまった。程なくして、沈黙の代わりに俺の好きなロースト香の強い珈琲の香りが部屋に満ちてくる。
彼女の言い分も解らなくはない。
ニューヨークは芸術を道とする者には魅力的な街だ。けれど、いくら治安が良くなったと言っても、ここはハーレムだ。彼女を一人、この部屋に残して帰国することに少なからず不安はあった。

「キミはこの街に拘りすぎだよ。どこにいても才覚一つで『自分』を発信することは出来る。そのスキルアップのためにニューヨークを選んだのは確かだけど、自分が生まれた意味を分かち合える人と共に生きていけるとしたら至上の人生だと思わないか?俺は機を逃したくないから、お先に失礼するよ」
「貴方らしい言い方だわ。この街に未練はないの?」
「ないね」
「アッサリ言うのね。たった半日で決断できるシュンって、やっぱり、頭の中を覗いてみたい感じ」
「キミこそ、この街をどれほど遠くに感じているの?拠点を移しても俺の仕事は今後もテッドを通じてニューヨーカーの目に触れる。日本からは最短13時間のフライトだし、インターネットじゃワンクリックだ。俺には隣町ほどに近いよ」
「違うわ。この街に身を置くことに意味があるのよ」
「そういう意味なら尚更、俺には、ここでないといけない理由がもう無い。でも……」
「でも、何?」

俺が肌を通して魂を交わしたい人間は日本にしかいない。俺の絵が環境に左右されるものでなく魂から生まれるものなら、俺は魂の居たい場所へ帰るだけだ。

「いや、喋りすぎた。まぁ、いい機会だ。将来のことも含めて少し考えてみたら?それでも、ここに残るなら新しいフラットメイトを探すか、もう少し治安のいい所に部屋を探そう。俺も協力するから」

ジニーは其れには応えず、キッチンから二つのマグカップと持ち辛そうに指先に挟んだキーライムクッキーの袋を運んできた。ティムからの土産なのは聞くまでもない。

「それ!彼、良く憶えていたね。旨かったから、また買ってきてって頼んでいたんだ」
「ですってね。可愛い顔でオネダリされちゃったってバカみたいに沢山、買ってきたわよ」
「ほんと?いやー、顔がいいって得だな」

キーライムはライムほどの苦味はないが酸味が強く、フロリダではポピュラーな果実らしい。それを使ったキーライムクッキーはザクザクした生地に甘酸っぱいライムチョコの食感がしっとりして、粉砂糖をまぶしてある。以前、ティムに貰ってから密かに次の機会を楽しみにしていた。
早速、袋を開けようとした俺にジニーはソワソワと妙な顔つきで言う。

「ねぇ、シュン?もしかして、昨夜の外泊はティムと示し合わせていたこと、なんてないわね?」
「いや?何で、そう思うの?」
「違うのね?その、貴方が妙なタイミングで結婚を促すから……」

そう言って頬を紅らめた彼女がそっと俺の前に差し出したのは、清楚なリボンのついた可愛らしい小箱だった。中は見なくても判る。エンゲージリングだ。

「ぇ、ぁ、そうだったのか。えっーと、おめでとうって言っていいんだよね?」

当事者でもない俺が照れるのも変な話だが、結婚のカタチをリアルに見せられると、くすぐったいような落ち着かない心持ちにさせられる。
「開けてないの?」と訊くと、うん、と静かに頷く。
「嬉しくないの?」と訊くと、ううん、と首を横に振る。
はにかむジニーの横顔はドキッとするくらい綺麗で、急に彼女を遠くに感じた。

「彼、イヴにプロポーズしてくれるつもりだったみたい。私、気が動転して怒っちゃったの。誰より私の夢を理解してくれていると思っていたし、でも、そうね。貴方の言う通り、ちゃんと考えてみるわ」
「それがいいよ」

笑みを返しながら時間の問題だと思った。ジニーは気が強いくせに寂しがり屋で一人になりたがらない。大学時代は常に仲間に囲まれて寮生活も長かったし、前のシェアメイトが帰郷した時も毎日のように誰かしら友達を泊めたがって俺にも何度となくコールが入った。今も半ば気持ちの固まった顔をしていることに当の本人は、きっと気づいてないのだろう。独りで居られるわけないんだ。ひょっとすると、俺の方が彼女を見送ることになるかもしれない。そんな気がした。

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桜に誘われて、寄り道をした。
舞い積もる花弁が脳裏を浸食して、心を溶かすピンク。
花嵐の見せる幻影は制服の第二ボタンが千切れた高校生のアイツの姿、

「朝也、俺のこと呼んで……」

手を伸ばすと、フッと消えた。
ポケットを探れば、指先に触れる繋がったふたつのボタン
しずり雪の音にハッとすると、肌を刺す零下の空から新しい雪が降り出していた。
さて……。
顔を合わせると帰国を切り出しにくい。
ジニーには電話で伝えようと木陰に寄り添いながら、
俺は逢いたさつのる男の名前ばかり反芻していた。

「神月朝也、神月朝也……」と。




冬のマンハッタンの夜明けは遅い。
街が動き出すAM7:48、春を待つ桜の枝が雪花に濡れるセントラル・パークをボウ・ブリッジまで来て、俺はジニーにコールした。

「今、どこ?」

と、訊いてくる不機嫌丸出しの声は、どうやら未だ眠っていたらしい。

「おはよう、ジニー。今、桜を見て来たんだ。春は遠いね。また雪が降り出した。あぁ……俺、日本に帰るんだけど、キミどうする?そこは元々俺が契約した部屋だし、色々手続きとかさ……」

我ながら酷い言い種だ。
こんな大事な話を突然、それも電話で言い出す後ろめたさが、肝心なところで俺の口調を軽薄なまでに早口にする。これじゃまるで、ジニーを追い出すみたいじゃないか。咄嗟に思ったものの、彼女の顔を見て話していないことが返って俺を落ち着かなくした。ジニーは黙ったままだ。彼女が今、どんな顔で聞いているかは何となく想像できた。きっと目が据わって呆れるのを通り越した顔で口をへの字に曲げているんだ。少しの沈黙のあと、彼女は静かにこう言った。

「すぐに帰ってきて」




曇天から薄ら日が広大なザ・レイクに降り注ぐ。
凍てつく冷気が喉を刺す中、俺はコートの襟を立てて、五番街へ抜ける道を歩き出した。
足取りはこの後のジニーとの遣り取りの気重さから遅れがちで、逸る心は朝也との再会を想像って早鐘を打つようにバクバクし、それを鎮めるように頭では帰国するまでに何をしておくべきかを物凄いスピードで弾き出している。
地下鉄レキシントン街線をE116st駅で降りると、家までは徒歩5分。
散乱するゴミも雨が降るたびに其処彼処そこかしこに水溜りを作る凸凹のストリートも、この日は雪に隠れて綺麗なもんだ。建物と建物に挟まれて潰されそうな古い低層アパートはエントランスまでに階段が3段、その手摺りは錆びたり剥げたりしている。レリーフを施したブラウンストーンの外壁には無骨な黒い二重扉が嵌め込まれ、その重い扉の奥、薄暗い共用スペースから最上階の5階へ上がれば、俺とジニーが暮らす部屋がある。当然、ウォークアップだ。エレベーターなんてついていない。
間取りは400sq.ft.スクエアフィートのスタジオ、大体、37.0平米ってところか。大学の寮を1年で出て以来、俺はこの部屋で独り暮らしをしてきた。
赤茶けた板張りの床は軋むわ靴音は響くわで、防音の為にカーペットを敷き詰めるよう大家から言われたが、美意識が許さず部分的にラグを用いている。天井まで届きそうなブックシェルフと広いワークデスクの他は人ひとり寝てギリギリのソファーベッドぐらいしか家具と呼べるような物はない。唯一、窓辺の一輪挿しが彩を成してはいるが、後は整理してもしきれない作品と画材に床を侵食されるばかりだ。そこへ、1年前にジニーがフラットシェアを持ちかけてきて、部屋の隅に一向に片付かないダンボール箱の山が築かれ、大きなスーツケースと2体のトルソーが増えた。
Juniata Miller ジュニアータ・ミラー、彼女は駆け出しのジュエリーデザイナーだ。
同居のキッカケは単なる利害の一致だった。彼女の元のシェアメイトが就職を機に帰郷してしまい、半年経たずに生活が苦しくなったらしい。俺としては友達とはいえ、この狭い部屋に女と二人きりは気が引けたけれど、家賃や生活費が割り勘になるのは正直、有難かった。それに、躊躇っている間に押し掛けて来ちゃったんだから仕方ないじゃない?

「……ジニー、起きてる?」

コートを脱いで物音を立てないように身体一つぶん扉を開いて中へ滑り込んだ。
外は氷点下だが、ニューヨークのアパートでは大家にセントラル・ヒーティングの設置が義務付けられていて、ラジエーターからの放熱で室内は暑過ぎるくらいだ。
ジニーは縦に四角く切り取られた窓を僅かに透かしてイーゼルの前に座り、ぼんやりと俺の絵を見ていた。春の息吹を感じさせる明るい色調の風景画は俺が生まれて12歳まで育ったイングランドのキングストン・アポン・テムズの街並みに着想を得たファンタスティックアートで、懐旧の念や癒しの心象風景を描いたものだ。来週にも引き取られて、ナーシングホーム老人福祉施設の一角に飾られることが決まっている。

「……貴方には珍しい絵ね」

豊かなブロンドの髪が揺れたが、ジニーは此方には振り向きもせず、落ち着いた口調で言った。

「そうかな?」
「そうよ。いつもは頭の可笑しな絵ばかり描くわ?」
「キミは初めて会った時もそんなことを言って、俺の頭の中を覗いてみたいと笑ったよ」
「そう?案外、根に持つタイプなのね」
「あれ?最上級の褒め言葉だと自負していたんだけど、違ったの?」

ジニーとは大学で同じファインアートを専攻して親しくなった。
初対面で『可笑しな絵を描くのね』と声を掛けられ『大胆と言うか奇抜?頭の中を覗いてみたい感じ』と笑った顔を俺は今も憶えている。在学中に資金が底をついて生活が窮迫し、バケーション返上で卒業を急いだ俺と違い、彼女は悠長に5年も在籍して卒業した。
歳は彼女の方が一つ上だ。快活で言いたいことを言うジニーと居るのは楽だったし、互いの感性をぶつけ合うのに手応えのある才能を彼女は持っていた。それに、常に腹を空かせていた俺に差し入れをしてくれたのも、寮を出てからも時々様子を見に訪ねてくれたのも彼女だ。最初は俺に気があるのかと自惚れもしたが、彼女にはフロリダに恋人がいて今も毎日のように惚気話のろけばなしを聞かされている。

「ところで、昨夜は何処にいたの?朝帰りはよしてって、いつも言ってるわよね?」
「キミがそう言うから、その日のうちに戻るようにしたら、この前は夜遅くに出歩くなって叱ったよね?」
「日付が変わる頃になって戻るからよ」

こんな遣り取りは日常茶飯事だ。元より世話好きな女だから、しなくてもいい心配までする。
以前はもっと同性同士のようなドライなスタンスでいた。分け合う時間が長くなるにつれ、二人の距離が縮まったのだと本気で心配してくれるジニーを可愛くは思う。思うけれど、確実に俺への干渉と小言は増えて少々煩わしい。その上、近頃のジニーは、まるでゴシップ好きのお嬢さんだ。

「誰かと一緒だったの?最近、夜に出かけることが多いのね」

また、そんなことを言い出した。俺は、こういうのが首に縄を付けられるようで、ひどく苦手だ。
もっとも、このプライバシーを黙視しようのない狭い部屋で、普段は当たり前に目に付くものが見えないと気になるのも心理かもしれないが……。

「よせよ。誰と寝たわけでもない」
「そんなこと言ってないじゃない!」
「そうかな、そういう目をしているけど?大体、そんな格好で俺に説教をたれるのもどうかしている。俺を男として見ないキミに今更『女』になられても困るよ」

肩に羽織ったホワイトリリーのカーディガンから、ジニーの瑞々しく健康的な姿態を包むオールドローズのベビードールが覗いている。彼女が聖夜を恋人のTimothy ティモシーと過ごすために買っていた物だ。俺に見せびらかして、
『胸元のチュールレースと、たっぷりのドレープがエレガントよね。背中で結ぶ黒のサテンリボンが利いているわ』
と、そのはしゃぎようったらなかった。
結局、Xmasは彼の都合がつかず、俺と二人でつまらなそうにシャンパンを開けたんだけど、そのベビードールを今、身につけているということは……、そういうことなんだろうな?

「ティムは泊まって行かなかったの?」
「よく判ったわね、彼が来たこと」
「判るさ。良い品だね。良く似合っている」

吸い寄せられるように膝を折った俺は、ごく自然に彼女の腰に手を触れていた。手触りの良い滑らかなシフォンが指に馴染む。

「ありがとう。でも、貴方に急に『男』になられても困るわ、シュン?」
「ちぇっ、逆襲……」

掌に伝わるジニーの肌の温もりがチリッと熱さを増す。俺は朝也のことを考えていた。
他人ひとの体温は怖い。常なら意識下に潜められる存在を不意打ちのように呼び覚まし、寂しさがつくる綻びを広げようとする。そして、その存在を綻びごと忘れてしまえといたずらに心を惑わすんだ。誰かを抱いて抱かれてして、一時、慰められる寂しさが有ったとして、その後に残る悔いや虚しさや、あるいは裏切りの感情をどう受け止めればいい?
目を閉じるまでもなく、朝也の肩のラインを指でなぞることができる。続く腕の力強さを、包まれる肌の熱さを憶えている。そして、これは自ら選んだ寂しさだと言い聞かせる。その繰り返しだ。

「どうしたのよ、シュン?ぼんやりして。ゆうべ、抱かれた男が忘れられない?」

トンデモナイ言葉を聞いた気がして顔を上げると、形のいい唇をキュッと結んで綺麗な顔で俺を見おろすジニーと目が合った。俺を抱く朝也の腕がスウッーと遠去かっていく。

「大丈夫?夢から醒めたみたいな顔をしているわよ?」
「ええっと……キミ、今『抱かれた』って言った?」
「そうね?言ったわ」

女の身体に触れて朝也の体温を思い返していた俺も俺だが、この女のデリカシーのなさときたら、

「ゲイは方便だったろ?キミだって共犯なんだ、判るはずだ」
「そうね。ティムに貴方とのフラットシェアを認めさせる口実だったわ、初めはね」
「今もだよ」

ジニーとの共同生活を始めて、3日と経たずにティムが血相を変えて怒鳴り込んできたことがある。
それもわざわざ、フライトだけでも3時間は掛かるオーランドから俺という人間を自分の目で確かめるためにやって来たんだ。『事後承諾はマズかったね』と言った俺にジニーは『だったら、貴方がゲイになればいいのよ』とケロッと笑った。何て無神経な女だと悶着するうちに彼を迎えて、少々のことにはビビらない俺があまりの剣幕に自分はゲイだと言ってしまった。結果的にはその嘘が方便になり、彼がアッサリ納得したことにも驚いたし、不本意ながら未だに、まるで疑われることなくゲイのフラットメイトで通っていることにも驚いている。

「どうして、そうなるかな?昨夜はテッドと飲んで、家に泊めて貰った。それだけだ」
「初めから、そう言えばいいのよ。こっちは心配しているのだから。ねぇ、気づいてた?一緒に歩いていても男たちの眼が貴方を見るの。失礼な話よね。鏡を見なさい?誰も25の男だなんて思わないわ。解ったら、一人で暗がりを歩かないことね。そのうち、酷い目に遭うわよ」
「どっちが失礼なんだか。ジニーは俺のこと、まるで子供扱いだな」
「シュンは聞き分けが悪いぶん、子供より始末が悪いわね」

氷雪混じりの風が窓硝子を震わせる。
室温が急に下がり始めたのを感じて窓を閉めようと近づくと、一際、強い風が大きな音を立てて、叩きつける勢いで窓が閉まった。

「やっべ、指、詰めるトコだった!あははは、すげぇ吹雪いてる」

人は余りにビックリすると笑い出したりする。咄嗟に手を引いた俺の後ろで音に耳を塞いだジニーが「キャッ」と声を上げていた。その手を覆うように掌で包むと俺は囁くように心の内を伝える。

「ジニー、心配してくれて有難う、叱ってくれて有難う。それから……大丈夫だよ」

聞こえているはずはない。けれど、ジニーは微笑ったようだった。

「着替えてくるわ」

着替えると言っても、衝立一つない見通しのいい部屋だ。仄暗い部屋の隅で彼女に背を向けて床に胡座をかいた俺は何となし落ち着かずに天井を見上げ、ただ揺れていた。少し熱っぽかった。
時折、鞭打つような風音が空気を裂く。外は相当、荒れ模様だ。それまで気にも留めなかったボイラーのカンカンという音が、一度、気にし出すと耳について離れなくなった。

「ねぇ、こんな季節外れに桜嫌いのシュンが、どうして桜を見に行ったの?」

ジニーが少し離れた処から声を掛けてくる。遠回しに帰国の理由を訊いているのは明白だった。

「嫌いなんて言った覚えはないけど、そうだね、花粉症だから冬の間に見ておこうと思って」

ジニーは「嘘つき」と小さく笑った。
彼女は毎年、桜の頃を楽しみにしていて、ブルックリンで行われる桜まつりには決まって仲間たちを集める。けれど、俺は一度も誘いに応じたことがない。桜は独りで見るものだ。桜を見る俺の顔を誰にも見られたくはない。

「もう、誘えないのね」

と、ジニーは俺を責めるでもなく言った。俺は何も返せなかった。その言葉は俺の帰国を受け入れざるを得ない彼女の諸々の感情を含んでいて胸をチクリと刺した。

「ただの里帰りじゃなさそうね。どうして?」
「うーん……。魂の居たい場所へ帰ろうと思って」
「コタエになっていないわ。いつ?」
「2月。あまり、時間がない」
「え、何なの?今更、何を急ぐのよ?」
「色々と手続きに時間が掛かるし部屋の解約もすぐに動くよ。キミにも迷惑を掛けるけれど、いつか、帰国するなら2月と決めていたんだ。理由は聞くなよ」
「つまり、理由があるのね」

ジニーは問い質しこそしなかったが、背中の向こうで深呼吸かと思うほど深い溜息が聞こえた。
『理由』は俺の勝手な感傷だ。
7年前の卒業式、あの桜の下で俺は俺の現在いまと朝也の現在いまを重ねたいと思っている。そして、そこから今度は同じ方向を見て歩き出したい、ずっと、そう願ってきた。

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テッドは笑みを浮かべていたが、その笑みに俺の好きな皺を刻んだ人好きのする陽気さはなく、目が合うと、じっと見透かすような眼差しを向けてきた。身じろぎ出来ず目を逸らすことも侭ならないほど神経が高ぶる。何か言いたげなのは、一目瞭然だった。

「ラス、外してくれる?」

促すと彼も張り詰めた空気を感じたのか、一礼して座を外した。去り際に「貴方と話せて良かった」と笑ってくれたのが、せめてもの救いだったかもしれない。
彼が気を利かせたものか潮の引くように辺りから人が消えて、余計に落ち着かない静まりようだった。互いに黙ったまま時間にして5分ってトコか、居た堪れなくなった俺が新しいビールに手を伸ばしたところでテッドが口を開いた。

「ニッポンに帰るのかい?」

言葉も無かった。
動揺した俺は心臓を鷲掴みにされるような感覚を覚えて固唾を呑んだ。

「どうして?」

どうして気付いたの?と、俺はテッドの横顔に訊いた。

「逢いたい人がいるね?誤解を嘘にしてしまえなかったのは、その人を愛しているからだろう?」
「……ダメね、オレ」

身体の奥深いところで桜が香る。
朝也を想うだけで胸が苦しい。いっそ、正体もなく酒に酔ってしまいたいと思うほどに……。
伏し目がちになったのは顔を見られたくなかったから。酒で喉を潤したのは上擦った声を隠したかったから。そして、瞼を閉じたのは目頭が熱くなるのを殺してしまうためだった。
俺は朝也を想い始めると病的なまでに脆い。

「おいおい、シェーン!泣かせるつもりは無かったんだがな」

狼狽てたテッドが胸から尻からポケットを叩いて拭くものを探している。
そのバタバタした仕草が可笑しくて、俺は泣きながら笑ってしまった。

「いらないよ。スマートじゃないね」

目元を袖で雑に拭うとテッドに手を取られ、そっと肩を抱かれて俯いた。

「お前さんのこんな顔は初めて見るな。誰を想って泣くのだろうね」

その声にまた涙腺がバカになりそうで、俺はテッドの腕に縋って顔を押し付けると気持ちが落ち着くまで動かずにいた。髪を撫でるゴツゴツした手や子供をあやすようにポンポンと背を叩く温かい掌、朝也に抱かれるのとは違った安心感が妙にくすぐったかった。例えばそう、幼い頃に憧れた父親像とはこんなふうだったかもしれない……。

「いつから?」

いつから気付いていたの?と、俺は顔を伏せたまま、テッドに訊いた。

「そうだね。お前さんが、いつになく他人事に熱心だったから、何かあると思ってね」
「まるで、俺が不実みたいじゃないか」
「いつものシェーンなら面倒臭がって取り合わなかったさ。それが出来ずにあれほど熱くなったのは、あのバーテンダーに自分を重ねたからじゃないのかい?」

顔が熱い。
触れられる手の心地よさに懐いていると、段々、恥ずかしくなって顔を上げるタイミングに窮してしまったが、この察しの良いオッサンはそんな俺の自尊心すら配慮するにもソツがない。

「息子も良いものだな」

なんて冗談を言って、そっと俺を放した。

「一緒に酒を飲んで、たまに、こうして頼られるのも悪くない。今、ワイフに息子も産んで貰うのだったと後悔しているところだ。まだ、間に合うと思うかい?」
「年上女房を殺す気かよ。ガキが酒を飲める歳になる頃、オッサンは棺桶に片足突っ込んでいるね」
「わははは!口の悪いヤツだ」

大好きなテッド。自分の我儘で離れるとはいえ、余りに深く関わり過ぎた。これまでにも沢山の人に出会ったが、他人で居られる距離を保ってきたからか、これほど感傷的になることはなかった。

「……俺に甘え癖をつけるからだ」

思わず口をついて出た声は自分でも意外なほど幼いもので、テッドの顔に刻まれた皺が動くと、その大きく引き結んだ口許がたるんだ頬を押し上げていた。

「笑ってやがる」
「可愛いことを言うからさ。何て顔をしているんだ、シェーン。そんなにしょぼくれて。それが、これから好きな人に逢いに行こうってヤツの顔かね?」
「だって……俺、許されていいのかな?」
「妙な言葉を使うんじゃない。許すも許されるも無いもんだ。全ては、お前さんの意志によるのだよ」
「そうだけど……」
「お前さんは良く頑張ったよ。仕送りの十分な資産家の坊ちゃんが、どうして、その日の飯代と画材代を秤にかけるような貧乏をするのか察し兼ねたがね。気骨のある子だ。ひょっとすると、親にも頼る気はないのかもしれないと思うと得心がいった。違うかい?」

違わないから、声も出なかった。

「驚いた顔をしているね。実は、お前さんの素性は知っていたよ。一度、兄だという人がギャラリーを訪ねてきて、仕送りはしているから必要以上の援助はしないでやって欲しいと頼まれてね」
「いつの話?何で居場所がバレてんだ?」
「さて、お前さんと出会った翌年だったかな?随分、探したと言っていた。チェルシーには若い芸術家が多く集まるから、運良く行き当たったのかもしれないね」

5年は前の話だが『運良く』ということはないだろう。
その頃、俺はミッドタウンの美術大学に通っていて、食費を削ったり小銭稼ぎをしては美術館巡りをしていた。特にバワリーSt.にはコンテンポラリーアート専門の美術館があって足繁く通った。マンハッタンには父の会社の支社が在るから、そこから手が回ったのかもしれない……。

「テッドの機転に感謝するよ。俺が今もここにいるってことは、その時、大学も寮も伏せてくれたってことだからね。喋られていたら間違いなく連れ戻されていた」
「そうでもないと思うがね?彼には暮し向きこそ訊かれたが、居場所は遠慮すると名刺だけ置いていったからね。出来た兄さんだと思ったよ。弟の絵を感慨深げに見ていたな。いい顔で微笑っていた」

わらった?それは、俺の生き方を応援してくれるってことなんだろうか。

「ったく、人の絵を勝手に見せないでよ」
「嬉しそうな顔をして……」
「ちげぇーし!」

11も歳の離れた兄は当時、父の会社からシリコンバレーの協力会社に出向していて、サニーベールにいた。カリフォルニア州だし、まさか、偶然にも見つかるわけないって俺は高を括っていたんだ。

「アメリカ、狭ぇ……」

テッドは可笑しそうに笑いながら、項垂れた俺の頭を上からグリグリ押さえつけてくる。

「どうして、教えてくれなかったの?」
「彼の意向だ。世間知らずで心配だと言っていた。早く帰国を報せて安心させてやるといい」
「ハッ、温室育ちが何、言ってんだか。兄さんだけが俺に過保護なの。俺はガキの頃から放っとかれてんの。雑草は逞しいんだよ」
「よく枯れる雑草だがね。お前さんは今までに何度、倒れた?どうして、そこまで無茶をする?」
「どうして、って……。絵を描きたい他に何があるの?」

本当の理由なんて知らなくていいと思った。
画家という職業に懐疑的な親との確執なんて聞こえの良いものじゃないし、聞かされる方も迷惑だ。
僅かに言い淀んだ俺をテッドは物言いたげに見据えたが、拒絶の色を察したのか深入りして来ない代わりに大きな溜息をついた。そして、両の掌で俺の頬を包み込むと、年端のいかぬ子供に何事か言い含めるような慎重さで、こう言った。

「いい加減にブレーキの掛け時を覚えておくれ。お前さんは仕事をし出すと寝食を忘れるのが心配でならない。これからは、私もジニーも居ないんだ。ちゃんと食べて身体に気を付けるんだよ」

そんなふうに言われると本当にサヨナラなんだとしんみりもして、俺は催眠術にでも掛かったように彼の双眸から目を離せなくなっていた。
画家を志して家出同然に日本を出たものの、チマチマ貯めた軍資金なんて3年もすりゃ底をついた。それでも学びたいことは未だ山ほど有ったし、諦めきれずに俺はそれまで無い物としてきた親からの金に手をつけた。俺に干渉はしても関心はないと思っていた父からの送金は相当額、貯まっていて、俺の自立心など嘲笑うように魅力的だったからね……。その時、日本を離れて初めてイングランドにいる親に電話をしたけれど、1分にも満たない親子の会話はそっけないもので、俺の返済の意志は「不要」の一言で一蹴された。志を解って貰おうなんて期待はとうに捨てていたけれど、どういうつもりであれ、居場所も判らない息子の口座に振り込んでくれることに感謝はしていたんだけどな……。
落胆はしたけれど、父の冷たい言葉に俄然、奮い立った。
返済の申し出は親の七光りで周囲にちやほされてきた俺の卑屈さの表れでもあったが、兄のように経営の一端を担う生き方を拒否した俺の意地でもあった。今思えば、その態度が父の感情を逆撫でしたのかもしれない。俺は全く可愛げのない息子だ……。

「色々と世話になったね」
「そういうの、よしなさいよ」

俺の言葉にテッドは目尻に皺を寄せて照れ臭そうに笑ったが、俺には泣き顔に見えた。

「いつ、発つ?」
「出来るだけ早く」
「そうか、忙しくなるな。何から始める?」

世話好きのテッドは当たり前のように準備を手伝う気でいるらしい。矛盾しているが、あまり協力的になられると帰国を急かされるようで口を尖らせたくもなる。

「んー?まずは髪を切るよ。新しいステージへ踏み出すなら、視界は良好でなくちゃね」

テッドは一瞬、ポカンと俺を見つめたが、チョキチョキと髪を切る仕草を見せると「そいつぁ、いい」と言って笑い出した。

「プロポーズも見てくれからか。よし、餞別にスーツを仕立てよう。お前さんは彼女の心をガッチリ掴むセンスの良い台詞でも考えるんだな」
「へ?」
「結婚式の招待状を待っているぞ。シェーンの愛しい花嫁に会える日が楽しみだ」

あ、……れ?ちょっ!
無理もないが、テッドは完全に俺の逢いたい人が女性だと思い違いをしていて、情熱的な言葉を用意しろとか、花を忘れるなとか勝手に盛り上がっている。俺は今更、正す気にもなれず、自分でもハッキリ自覚するほど赤くなった顔を誤魔化そうと更にビールを含んだ。

「可愛いねぇ」
「茶化すな。酔っただけだ」

プイッと顔を背けたが、テッドの気配は言葉とは裏腹に消沈して感じられた。気の優しいオヤジだから、俺に気を遣わせまいと明るく振舞うのだろう。俺は本当に大事にされている。




それからの俺たちは感傷的な気分を払拭するように酒を呷り、今後について語り合った。
仕事は俺が望む限り、これまで通りサポートしてくれると言うし、神戸に知り合いのギャラリストがいるから紹介状を書こうとまで言ってくれる。
本当は俺を責める気持ちも有るはずだ。出会って6年、日々、多彩な芸術が泉のように湧くこのニューヨークで、何の後ろ盾もない無名の新人に卵の殻を割らせるのは並大抵のことじゃなかったと思う。
それなのにテッドの物言いは俺を手放すことも視野に入れているように聞こえるんだ。
テッドにとって俺が失っても惜しくない存在であるはずがない。彼は誰より俺の絵を認めてくれているし『Shun』を愛おしんでもくれている。

「Shunがテッドの最高傑作になるように頑張るよ」

真っ直ぐにテッドを見据えて口角を引き上げると、

「何て綺麗に笑うんだい、お前さんは」

額に一撃、ペシッと指で弾かれて咄嗟に眼を瞑った。
次に開いた時に見たテッドの表情は何とも慈愛に満ちていて、時々、セントラル・パークで見掛ける散歩中のマスティフを思い出させた。その飼い主は良く妻とバギーで眠る赤ん坊を伴っていて、犬は傍をクルクル回っては大きな顔を近づけ、静かに赤ん坊を見守っている。テッドの眼は何処となくそのマスティフの眼を彷彿とさせて優しかった。俺がクスクス笑っていると、

「お前さんは、また余所事に考えを巡らせて笑っているな?」

と、眉根を寄せて苦笑する。
こんな些細な遣り取りでさえ胸が熱くなるなんて少々酒が過ぎたらしい。瞼の熱っぽさも、この泣きたい気分もきっと酔いの所為だ。ほどなく視界もユラユラし出すのだろう。

「日本へ発つ前に俺がテッドに出来ることはある?」

せめてもの礼のつもりで聞いてみたが、テッドは深く目を閉じて黙って首を横に振った。
あるいは俺の言い方が惜別の情を助長させて、答えたくなかったのかも知れない。

「そうか……。欲がないんだな」

残念だ、と言う言葉を呑み込んで、そう言い換えた。努めて、あっけらかんと言ったつもりだったが、上擦った俺の声は馬鹿正直に落胆していて、テッドに申し訳なさそうな顔をさせてしまった。

「じゃあ、俺から一つ頼まれてくれない?」
「あぁ、何でも言ってごらん?」
「当日、見送ってくれないか?」

これまで誰にも見送らせなかった俺には意味のあることだった。
なるべく人を懐に入れずにいた所為もあるし、何よりやっぱり、自分が苦手で避けて通って来たのだと思う。ただ、この別れは区切りと言うか……特別なものに感じていた。

「背中を押してくれないか」

テッドは口許をキュッと引き結んで、ウム、ウムと何度も頷いた。

「泣かないと約束するなら、行ってやらなくもない」
「じゃ、決まりだね。そっちこそ、俺にハンカチを出させるなよ?」

突然、上階で低く唸るようなどよめきと手拍子が沸き起こると、腹の中がズドンと跳ね上がるような大音量で軽快な音楽が鳴り出した。ショーの始まりだ。パフォーマンスに興じる客たちの足を踏み鳴らす振動が店を揺らし、階段の踊り場からチカチカと色とりどりのライトが差し込んでくる。

「始まったね。テッド、見に行こうか」
「珍しいな。お前さんは大抵、このタイミングで店を出ようと言い出すのに」
「だって、このバカ騒ぎも見納めだ」

スツールから腰を浮かせてテッドの腕を掴むと、彼は意外そうな、けれど、愉快なものに出くわしたような笑みを浮かべた。
連れ立って席を立つ俺たちを見て「Hi!Shun.」と口々に声が掛かる。
追い越しざまにケツを撫でて行くヤツもいれば、どさくさに紛れて連絡先を書いたメモを胸ポケットに捩じ込んでくるヤツもいる。いつもの景色なのに今夜は一際、愛しく思えて、いっそ閉店まで夜通し遊び明かそうかという気になっていた。階段を上がる途中で保護者然と従うテッドに振り向くと、俺は片手で手摺りを掴んだまま、やや不安定な態勢ではあったが彼の頬にキスをした。ほら、グリルパルツァーの詩にあるだろう?万感の思いを込めた『厚情のキス』ってやつだ。
その時のテッドの表情かおは見ていない。
俺は勢いよく階段を駆け上がり、吸い込まれるように音と光の渦に呑まれていった。

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