Cry for the moon.9
2月某日、ジョン・F・ケネディ国際空港。
マンハッタンから約20km。野生生物保護区に指定されているジャマイカ湾に面し、クイーンズ、ジャマイカ、ハワードビーチの三区に跨る世界でも有数の巨大な空の玄関だ。車では1時間強。明け方の便だからタクシーを使うと言ったのに、テッドは空港まで送ると言って聞かなかった。
ニューヨークでの最後の5日間を俺はアッパーウエストサイドにある彼の自宅で過ごした。特別、何をするでもない。ただ飲んで語ってチェスに興じて、最後の勝負は俺の稀なチェックメイトで終わった。
「わざと負けたね?」
と、苦笑した俺に、
「幸先がいいな。さぁ、出立だ」
そう言って、テッドは車のキーを取った。
車中でもテッドは良く喋った。チェルシーのGギャラリーで未だ予備校生だった俺と出会った日のことを彼は鮮明に憶えていた。あるオブジェの前から動こうとしない俺が気になって声を掛けて来たんだ。『この作品が好きかい?』と聞かれて『名は憶えておこうと思う』と応えた気がする。若いキミに芸術が解るのか?という顔をされて、今思えば随分と怖いもの知らずな返答をした。
『たった数分、作品と向き合ったくらいで造り手の思惟など俺には解りませんよ。タイトル通りとも限らない。ただ、何が優れているとも思わないのに離れられないのは関心は有るってことでしょ?その理由を考えていました。何か余分だと感じるのは意図的なものか自分との感性の違いかを考えていました。俺なら、こうは造らない』
テッドは『大口を叩く』と笑ったが、俺が肩から提げていたアジャスターケースを指差すと『見せてみる気はないかね?』と真顔で言った。俺が好運を掴んだ瞬間だ。一目見て『掘り出しものかもしれん』と頷いた。当然、拙い絵のことではなく俺自身のことだとは雰囲気で判った。
『おじさんこそ、本当に絵の解る人?』
思ったままを口にして無遠慮に笑われた。だって、そう思っても仕方ないだろう?これから美大で基礎から学ぼうという素人を『掘り出しもの』だなんて、どうかしている。
その後もテッドは俺の後について館内を巡り、Gギャラリーを出たその足で18だった俺を自分のギャラリーへ連れて行った。その時に名刺を貰って、俺が青くなったのは言うまでもない……。
車はE59th Stに入って徐々に減速した。
テッドの運転は常から悠長なものだったが、この日は慎重すぎるほど低速で、それも別れを惜しんでくれてのことと思うと運転を代わるとは言い出しにくかった。
大きな星条旗が風に翻る下をニューヨーク市警の車が2台、けたたましいサイレンを鳴らして追い越していく。音に驚いた鳩が星の見えないギラギラした空へ一斉に羽ばたいた。
「ジニーは、とうとう見送りに来なかったな」
不意にテッドが、ぽつりと言った。俺は薄く笑って、
「言ってないからね」
と、答えた。信号待ちをしていると、背中を丸めた若い男が定位置から逸れたトラッシュ・ボックスを蹴って横断歩道の脇に戻し、ゴミを捨てるのが見えた。外気温は摂氏-2℃、吐く息が白い。
「彼女、結婚するんだ。それで今、新居や職探しでフロリダに帰ってる」
「……良かったのかい?」
「いいんだ。ジニーは見送るのが好きじゃないから、先に部屋を出たんだ。先週からリアの所にいる。でも、送別会はしてくれるんだって。週末は空けといてって昨夜、コールしてきた。最後まで、お節介だよね。凄くハッピーな声でさ。その声を最後にしておきたくなったら、何も言えなくなったよ」
「きっと、怒るぞ?」
「そうだね」
「泣くかもしれない」
「そういうの男冥利に尽きるって言うの?……大丈夫だよ。リアが傍に居るから」
イーストリバーが近づくにつれ、フェンダーミラーに映る後方のイエローキャブが数を増していった。クイーンズボロー・ブリッジに入れば、いよいよ、マンハッタンともお別れだ。
「後ろを見ていてもいい?この橋から見るマンハッタンの夜景が好きなんだ」
子供のようにはしゃいだ声を上げて俺は助手席で身を捻り、秒刻みで変化する煌びやかな摩天楼が遠ざかっていくのを目に灼きつけた。そして、ルーズベルト・アイランド上空を通過したところで対岸のクイーンズに向き直り、もう、振り返ることはしなかった。
クイーンズ側のイーストリバーは俺が着ているミッドナイトブルーのコートよりも深い蒼に揺蕩い、広大な夜天が何処までも続いている。
やがて、クイーンズ大通りからヴァンウィック高速道路に入るとテッドは言葉少なになり、ターミナルの案内板が見え出すと、いよいよ沈黙した。終いにはハンカチを差し出す事となり、これで俺は泣けなくなった。
空港へは深夜で渋滞が無かったお陰で予定通り、フライトの2時間前に到着することができた。
ターミナルに車を付けて貰うと、時計はAM4:48を指していた。
「ここからは一人で行くよ」
車を降りる必要はないと言った俺に、テッドは荷物も有るからチェックインまでは一緒にいると言い出した。この調子で搭乗時刻まで居られると流石に笑顔を保てそうにない。俺は最後まで笑っていたかった。
「このまま、帰ってくれ。もう、貸せるハンカチはないよ」
平静でいるつもりが声が詰まって冷たい言い種になってしまった。それでも気持ちは伝わったらしい。テッドは心配そうな顔をしながらも笑顔で了承してくれた。
「せがれを送り出す気分だ」
「そう?じゃ、挨拶はこうだね。ありがとう。行ってきます、父さん……」
にっこり笑って助手席から身を乗り出すようにテッドの首に腕を回すと、俺は一人で車を降りた。
トランクからスーツケースを降ろす間もテッドは運転席を動かなかった。その窓をコッコッと叩いて「またね」と手を振ると、テッドは俺の好きな皺くちゃの笑みを浮かべて何度も大きく頷いた。
どうやら、もう一枚、ハンカチが要りそうだ。
俺はバックパックを背負い、腕と膝に力を入れて前傾姿勢で歩き出した。
昨夜からの積雪でスーツケースの車輪が上手く回らない。半ば強引に引き摺った。ほんの数歩先の屋根までが随分、遠く感じられた。背後で車の走り去る音がしないから俺は振り向かなかった。この背中がテッドの目にどう映っているかと思うと背筋が伸びた。ロビーへ辿り着いた瞬間、後ろでクラクションが一度だけ鳴って車のエンジン音が聞こえた。口元はニヤついているのに目頭が熱かった……。
この日、ニューヨークの日の出はAM6:49。夜明けと共に先ずはロサンゼルスへ飛ぶ。
空の旅には子供の頃から慣れている。
時差ボケにならない為には早々に時計を現地時刻に合わせ、出来れば眠ってしまえばいい。
ロサンゼルス国際空港までは所要6時間。機体が安定したら寝るつもりでいたから、それまでは欠伸を噛み殺して機内誌を捲っていた。乗り継ぎを経て、関西国際空港までは13時間ほど。離陸後、少ししてビールを飲み始め、更に3時間ばかり仮眠すると日本時間のAM10:00に合わせて起きるようにした。こうしておくと時差ボケの疲労感に悩まされることが少ないと経験上、解っていた。23分の早着を差し引いてもトータルすれば18時間のフライトの約3分の1を俺はウトウトしていたことになる。
薄暮、俺は日本に帰ってきた。
この日最後のオレンジが一際パアッと光放つ空を、機体は照明が整然と導く滑走路へ着陸した。
ぼんやりした気分だ。やっと着いたという思いと、とうとう着いてしまったという思いが交錯して、まだ地に足が着かない心許なさを感じる。着陸態勢に入る間際まで俺を経済談義に巻き込んでいた隣のシートの男は「お先に」と、我先に降機しようとする列に加わって行った。ブリズベンのビジネスマンだと言っていた。前方の混雑が落ち着いたところで俺も腰を上げる。
入国手続きやバゲージクレームでの荷物の引き取り、税関検査と続いて、空港を出る頃には、すっかり夜になっていた。リムジンバスを待つ間にスモーキングエリアでスパーと一服、
「どこも、肩身が狭いねぇ……」
と、窮屈にモクモクやってる人々を眺めつつ、これからの事を考えた。
大阪の中心部までは所要1時間、予約したホテルにチェックインしても20時半ってところだろう。素泊まりだから夕食に出るとして、そのあと夜景を肴に酒を飲むのもいい。願掛けめいた前祝いだ。
これまでに頭の中で何度もシミュレーションした朝也との再会は良いイメージしか残していない。楽しみに思うも不安に思うも過ごす時間の長さは同じなのだから、無駄に悩むだけ徒労ってものだろう。明日、連絡をとってみるつもりだ。贅沢は言わない。たとえ一度きりになっても朝也に俺の7年分の成長を見せられたら、それで良い。彼の記憶に俺の一番似合う格好で笑顔を残せるといい。とめどない望みを削ぎ落としてシンプルに突き詰めてみれば、一目逢いたい、それが俺の一番の望みだった。
そして無論、叶うのなら、その先の俺たちを見てみたい……。
コートのポケットに手を入れた。ジャリッと二つのボタンの擦れ合う音が雑踏の中にも聞こえた。
それにしても、漂うはずのカラメルのような甘い煙草の香りが、
「まったく、しやしない……」
ただ、煙たいだけのスモーキングエリアを出て、俺はバスを待つ列の最後尾に加わった。
風が騒いでいる。いい感じだ……。